2016年9月11日日曜日

№1082 障碍者


  パラリンピックが、盛んに放送されている。世の中も変わって来たということだろう。昔のことになるが、徳島で国体が開かれたことがあった。毎日、テレビでその様子が放映されていた。しかし、引き続き、障碍者の国体が行われたのに、テレビでは、ニュースでも何の放送もしなかった。

私は、教員生活のほとんどと言っていいくらい、障碍者教育にのめりこんでいた。苦労もあったが、やりがいもあったのだ。そんなこともあって、国体のことは、おかしいと思って、家に帰ってきた夫に言ったところ、気が短いものだから、突然受話器を取って、徳島放送局員に理由を聴いた。すると、「上からの指示がなかったから」という答え。益々怒った夫は、話にならんと、東京のNHKを呼び出して、【障碍者を差別するにもほどがある】と怒りまくったのだ。

今は、やっと世間では、障碍者にたいして、【障碍者は、何ら健常者と変わることのない人格と心で真剣に生きている人間である】ことが理解されはじめたようで、嬉しいことだ。

でも、まだ私からみると、差別は残っていて、不自由をされている。せめて私たちの手で、それを補うことが出来るのであれば、どうか差し伸べていただきたいものである。
 そして、一番大切なことは、私たちの心の中の問題である。いくら障碍の呼び名を変えても、心の中が変わらなければ、上っ面だけのことで、差別はなくならないだろう。 

 

2016年9月6日火曜日

№1081 続異常気象


  先日、このブログで、【異状気象】を書いた翌々日の日曜日、NHKスペシャル【巨大危機・異常気象との闘い】という番組を放送した。録画をしてあったので、先ほど観たのだが、もう怖くて、この地球の近い将来は、どうなるのかと、子や孫のことを考えると、鳥肌のたつような思いになった。私の想像していたようなものではない怖いものだ。

 地球温暖化が、異常気象を産みだしているのだが、それは、私たち人間が起しているものだけではなくなっているのだ。いままでに放置してきた結果だろうが、もう、北極圏では、凍土が融け始めている。海水温が高くなっているものだから、凍土が融けるのだが、その凍土の中に含まれているメタンガスが噴出していて、それが温暖化を加速させているというのだ。どれほどのメタンが放出されているのか、まだ調査中らしいが、その量によっては、一気に温暖化が加速するらしい。

私たちの住む日本は、温暖化によって、どのような影響を受けるかというと、海水の温度が高くなると、水蒸気が多くなる。多ければ多いほど、台風が発達する。台風の起こる地点が北上している。そして台風の進路は、日本近海の気温の高くなっているそこを通過する。日本では2年ほど前から、気温は急速に上昇しているという。その結果のように、今年は異常気象に見舞われているというのだ。大量の雲が発生して、雷や豪雨、台風、洪水といったものが更にひどくなるかもしれない。このままならいいが、これは、序の口で、最悪の場合は、東京で45℃というような猛暑になることも想定出来るなど、きもに命じておかねばなせない、という。

今年のような、また今年以上のものが、これから毎年あるとすれば、一体どうなるのか、北極の凍土がどんどん溶けだし、海水の温度が何度も挙がってきたら……等考えると、それまでに死んでいく人間はいいけれど、子や孫たちは、どんな目にあうか、など考えていたら、今、そうした問題解決と闘っている方たちに、どうか早く解決できますようにと、祈る他ない。

2016年9月2日金曜日

№1080 異状気象


  いつもの年より、暑い夏だった。トシのせいかと思うのだが、若い方たちも、そう言っているので、トシのせいだけでもなさそうだ。

 先日、北海道の豪雨が気になって、友達に電話をした。

『もう大変よ。昔は、北海道には、梅雨もなかったし、台風もこなかったのにねえ』と。私も、13歳まで帯広に住んでいたのだが、冬の吹雪は体験しているが、台風の記億も、梅雨の記億もない。

「台風なんて、慣れていないものねえ。気をつけてね。ま、冬は、昔よりずっと温かいでしょうけど……」と、慰めるしかない。

こうした異状ともいえる気候が、今年だけではなく、毎年続くとしたら、地球はどうなっていくのだろう。孫子の将来野心配までしてしまう昨今である。

 

 

2016年8月28日日曜日

№1079  旅


  旅することが好きなのだが、中々出来ないこの頃は、TVの旅番組を録画しておいて観ることがある。ほとんどが自然の美しい所が多い。

以前、車で北海道や九州を走っているので、立ち寄ったことのあるところも多いのだが、もう殆ど忘れているし、憶えていても、かなりの様変わりしているところが多い。それでも、見覚えのあるところもあって懐かしい。

白川郷の民宿に泊まったのは、七月の、かなり厳しい日差しの頃だった。合掌造りの屋根も、心なしか、日の陰りを待つ風情だった。立ち寄った土産物屋のお爺さんに、「民宿に泊りたいので、どこかありませんか」と尋ねると、教えてくださったのが、とても素朴な宿を教えてくださった。通された部屋には、クーラーも、扇風機も無かったけれど、外気とは、比べものにならない程の涼しさだった。

泊り客は、数人で、囲炉裏のある部屋で、食事をし、団らんしたのを憶えている。当時、私の通った国道は、険しい山道のガタガタ道で、砂埃でよごれた車で乗り入れたのが、ちょっと恥ずかしかったのだが、今はそんな国道ではないだろう。そんな宿が、テレビで写ったので、おっ!と巻き返して観てしまった。

あまり詳しく書いてあるわけではないが、写真とともに、ちょっとした記録をしてあるので、それも引っ張り出してみてみたいと思った。旅の思い出は、旅を再びしたような思いになったりして、なかなかいいものだ。

2016年8月26日金曜日

№1078 残暑


  八月も下旬になると、朝夕はかなり涼しくなるのがいつもの年なのだが、今年は、夜もまだ真夏日が続いている。一向に涼しくならないものだから、何となくしんどい日が続いている。日中は、絶え間なくエアコンを付けた部屋だし、夜も高目とはいえ、エアコンの付けっ放しだ。身体も、たまらないだろう。たぶん、身体の一部は、冷え過ぎているだろう。

 そうは言いながらも、食欲は変わらないので、痩せも太りもしまいまま、秋を迎えることになりそうだ。

 この夏は、腰が何とか少しよくなったので、草取りが一応残すところなく、見えないところまで出来たのが上出来だった。ま、朝夕の草取りの疲れが昼間のしんどさを増していたのかもしれないが……。

 先日、猛暑の中、友人の葬儀に参列した。90歳だった。半月ほど前、電話がかかってきて、『施設に入っとるけど、とくに悪い所もないし、頭もしっかりしてるから、私は100ぐらいまで生きられると思うわ』と笑っていた。急に肺炎になって亡くなられたらしい。長患いせずに旅立つことが出来たのは思い通りだったろうが、「おめでとう」とは言えない。ただ、寂しいという思いはあるが、悲しみは、もう卒業してしまった。手を合わせながら、「後から参りますからね。いい所で待っててね」と。

最後の着地が、どうなるのか、自分では想像できないが、長生きできたら、案外簡単に着地できるような気がする。≪元気で長生きしてぽっくり≫と逝きたいものだ。

 

2016年8月19日金曜日

№1077 草抜き


   最近、腰の調子がかなりよくなっているので、草抜きが出来るようになった。風呂の古椅子に腰かけて抜くのだが、以前は、とても無理だった。お盆までには、誰か雇ってでも庭の見える所だけは草抜きをしなければと思っていたのだが、ふと最近、腰痛体操のせいか、腰の調子が良いことを思い出してやってみたところ、1時間から2時間ほどだが、何とか出来るようになっている。

腰痛体操は、TVのあさいちで、徳島医大の整形の先生が指導していたもので、足を肩幅くらい開き、屈んで両手で足首の後ろを掴み、お尻を持ち上げる。そのとき、太ももと胸がくっつくようにして、膝を伸びるところまで伸ばす。頭は、両膝の中に入れるようにする。そして10秒間で元に戻してこれを5回する。このセットを朝と夜する。(1日10回)
こうすることで、腰を支えている筋肉が強くなるらしい。はじめは、なかなか痛くて膝が伸びにくいが、なれてくると、膝がだんだんと伸びてくる。くれぐれも、太ももと、胸が離れないようにする。

これを私は、2か月以上続けている。その効果があらわれてきたと思うのだ。草取りは朝夕の涼しい時にしていたので、かなり庭の草取りが出来、さっぱりしている。綺麗になっていくのは、とても気持ちがいいので、イヤイヤではなく、楽しんで草取りが出来るから、続けられるのだと思う。今は、まったく見えないところの草取りの最中だ。≪雑草園≫の看板は、掲げなくてもよさそうだ。

2016年8月15日月曜日

№1076 忘れてはいない終戦記念日


  今、70年余りの歳月を巻返しながら、やはりかなりなものだと、あらためて感心している。でも、忘れてはいない。

 もし、「今までの人生の中から十枚のスライドを」といわれたら、私は間違いなく終戦の日の一枚を入れるだろう。私にとって終戦は、強烈なショックだった。

しかし具体的なことは、かなりの部分が剥げ落ちており、はっきりとしないのだ。だが、いかにぼかしのスライドになろうとも、何とも名状しがたい感慨が心中渦巻いており、私の中の貴重な一枚であることには変わりない。

 ……その時私は女学校三年生。815日といえば当然夏休みのはずだが、そんな悠長なものは返上して、松根掘りや芋畑と化した運動場で、唐鍬をふるう毎日だったように記憶している。たしかその日は、「重大放送を家で聞くように」と、早ばやと帰された。

 家に着くと、緊張した耳に、ガーガーというラジオの雑音が入った。古ぼけたそのラジオは、それに似合った整理箪笥の上に載っていた。その前には、家族以外にも、二、三人はいたような気がするのだが確かではない。

 よくは聞きとれなかったが、戦争に負けた、戦争が終わった、ということは理解出来た。

 みんな、「死なずにすんだんだ……」心中そう思っていたのはたしかなのだが、誰一人喜びを表すことはしなかった。かなりの時間、大人たちは泣いていたような記憶がある。みんな、大声では泣かなかったが、我慢している分、鼻がやたらにぐすぐすと音をたてていた。(今日までの、多くの兵隊さんたちの死は、犬死じゃないか!我々も、何のために鍋釜まで出して頑張ったのか!)という悔しさが、みんなの頭の中で渦巻いていたのだろう。

 私も涙がわいて止まらなかった。思えば小学一年生のときに支那事変勃発、物心ついてからは戦争戦争である。「最後の一人になるまで戦う」ことを、信じて疑わなかった筋金入りの「軍国少女」であるから、眼の底が洪水になるのも無理ないことである。

 今から思うと、十五才にも満たない子どもが、「討ちてし止まむ勝つまでは」などと口走り、お国のために死ぬ覚悟が出来ていたというのだから、恐いといえばこんな恐いことはあるまい。教育次第では、骨の色まで変えられる、ということかもしれない。

 しかし、ひと月もたつと、自分たちにも、平和と自由があたえられたことを、じんわりと感じはじめたのを覚えている。それまでは外来語のようでもあり、惨めったらしくもありで、使えなかった「敗戦」ということばにも馴染めだした。

 戦後の衣食住の苦労は、戦中よりひどいものだったけれど、平和という安心のチケットを握っていたためか、気持ちの中はカラッとしたものがあった。

 こうした戦中・戦後の強烈な体験は、私の性格形成に何らかの関わりがあったと思っている。「死を覚悟」などと大げさなことをいったが、それは建前であって、本心は正直いって、「本土決戦で玉砕」など、恐くて恐くてたまらなかった。戦場に狩りだされる男性を見送りながら、(オンナでよかった……)と思ったものだし、そのうち神風のようなもので、敵は全滅、日本は勝つにちがいない、と信じて疑わなかった。そう思うことで、恐怖から逃げていたのだろう。だから私にとって敗戦は、神風だったといっていい。

 私はいつの頃からか、逃げの姿勢で物事に対してきたようである。困ったこと、心配ごとに出くわすと、すぐ楽天という大風呂敷を広げて包み込んでしまう。そんな大風呂敷を背負って逃げるスタイルは何かに似ているが、私の「小心で神経質」という本来の性格をなだめすかしてきたのがこの姿勢である。「今に神風が……」の残党のようでもあり、ウイルス菌のようでもあり、どうも一生付き合う羽目になりそうだ。