2018年4月18日水曜日

№1208 遅過ぎることはない?


以前は、健康だけが取りえと思っていた私だが、身体のあちこちから注意信号が発信され始めて久しい。まず膝が痛みだしたり、疲れが次の日に持ち越すといったようなことがはじまってきた。そのころは、トシを考えるとこんなものだろうという思いもあって、それほど気にすることもなく、まだ10年は何とか好きなことが続けられるだろうというのがホンネだった。

でも、これからの10年が、心がけ次第ということだろうという思いもあって、健康には気をつけて、いや、健康だけではなく、心を枯れさしてはならないぞ、と言い聞かせながら、お金にはならない、ま、ボランティア的なことを、けっこう身に余るほどの仕事を引き受けてきた。演劇という新しいことにも挑戦してきた。ただ、嫌いなことや、気分ののらないことには、手は出さなかった。

あの頃から10年後、80歳を迎えた頃も、口では、トシ寄ってもうあかん、などと言いながらも、「おっ、案外達者にやってきたなあ」と、内心は思っていた。(口で言うほどのことは出来ていないのだが……)

ところが、80代半ばに差し掛かる頃からは、まるで幼児が成長していくカーブのように、どんどんと体力が落ちてきた。年齢は正直やなあ……と実感している。何をしても、はかどらない。首から上も、おぼつかない。物忘れはするし、漢字は忘れるし、物探しが多くなってくる。忘れた漢字や名前等は、なるべく思い出そうと考えることにしているのだが、まさに時間の無駄遣い。自分ながらうんざりさせられる。

話をしていても、同じことを以前言ったのに、憶えていない時もある。「前にも言ったと思うけど」ということばをつけてから言い出さないと不安になることもある。

ま、潮流に逆らって泳ぐようなものなのでしかたがないのだが、健やかに、無駄なく一生を使いきることは、無理なことなのだ。

といっても、やはり一日でも長く自立していこうと思うので、努力は続けたい。努力によっては、マシになることもある。膝や腰の痛みは、TVで教えてもらった体操やストレッチでかなりよくなっている。何事も、今からでは遅過ぎる、ということはないという。無理なく楽しみながらやっていけたらと思う。

2018年4月9日月曜日

№1207 食事のありかた

 最近、庭の草取りをしたり、雑用におわれたりしていて、ブログに手が届きません。以前どこかに書いたものを、張りつけておくことにします。どこかで、読んでくださった方がいらっしゃるかもしれませんが。m(_ _::)m 

 
 食のあり方が、長寿と関係があるとか、ないとか、よく言われている。以前、ある雑誌に『長寿の食卓』というのがあった。主な執筆者は一応社会的に名の通った、長寿者またはそれに近い方たちで、食生活・健康法・人生観などを披露している。「えっ?この人がこんなに手まめに食事に気をつけているの?」と驚いたり、またその反対だったり、楽しく読んだのだが、結論から言うと、長寿とか、健康法といったものは、人それぞれであり、正解があるようでないということだった。あるお医者さんは、ほとんど食事には気を使わないし、この頃流行のメタボや栄養なんてことも当てには出来ない、とおっしゃっている。
そうかと思うと、自信をもって「手作りスープを毎日欠かさないので健康」という方もおられる。ご本人は、そのおかげで長寿と思われているので、それはそれで安心できたり納得したりということなので、いい結果と結びつくのかもしれない。寿命は、体質や遺伝、運命といったことも大きくかかわっているので食事でどうこう言うのも難しいようだ。一般的には、野菜たっぷりの『日本食』を主にして『無理・過度の疲労』『暴飲暴食・喫煙』は避ける、ということが常識のようだ。ま、当り前といえば当たり前のことであり、特別に記すことでもない。ただ、当り前のことが守られているとは限らない。

私たちは遺伝も体質も、簡単に変えることが出来ないし、元気で長生きしたいという願いは、万人共通の思いなので、体の発する声に耳を傾けながら、体に良くないことは、なるべく避けるのが賢明のようだ。

 

2018年4月2日月曜日

№1206 老いては子に……

  息子がこの3月で60歳を過ぎたので一応退職となった。しかし、続いて再雇用されたので、しばらくしは働くらしい。人生五十年から、100年と延長した昨今、60歳で隠居では身がもたないだろう。

以前、ある八十歳過ぎた方が、「『老いては子に従え』って言うけど、何歳から従ったらいいのかねえ」と、真剣に言われたことがある。運転免許を返上せよ、と子に言われたらしい。私が見ても、ちょっと不安を覚える運転技術なので、「出来るだけ運転は続けるべきよ」とは言いにくかった。

高齢者と言われながらも、まだボランティア活動に参加したり、色々と役をこなしている方たちは、少なくとも身体面、精神面共に自立なさっているのだろうから、まだ息子の言うことには耳を貸したくないようだ。反対に子が親に従うのは、随分短くなってきた。これも、時代がそうなって来たのだから、当然だろう。選挙権まであたえられている若者が、何でもかんでも親に従うはずもない。頭の古い親だっているだろうから。そんな方にかぎって気が強そうだ。

気の強かった方がお連れ合いが亡くなったとたんに、しぼんでしまう方もおられるので、油断はならない。優しい夫を亡くしたある方は、何もかも夫が管理し、それに縋っていたものだから、夫の死後は、さっぱり分からないことばかり。何事も息子に相談し、それに従う弱気な母親となってしまった。しかも、「淋しい」が口癖のようになり、友達をつかまえたら愚痴を並べるようになった。間もなく、認知になりかかっているという噂がたってしまった。単に金銭面だけではなく、身体的自立、精神的自立、社会的自立と、四面の自立のどれが欠けても子に従わねばならないときがあるようだ。

ある方の本の中に、親権ならぬ子権が親の権利を束縛する、と書かれてあった。特に、親の再婚や恋愛、家を売って有料老人施設に入居したい、といったことに、ひどく反対するらしい。その大きな理由は、親の財産を当てにしている息子や娘の不安がそうさせるという。ま、そればかりではないだろうが、昔ならこういった問題も、滅多になかった。大家族では、老後の不安も少なかったし、五十歳で独り身になっても、もう近々連れ合いを追いかけて逝かねばならない年だったはず。ひと花さかそうなんて、とても考えられなかったに違いない。

どんなときにも、「自分の幸せは、自分が決める」という自立心、そして従うべきは従うという判断力を持つ老人でありたいものである。