今、70年余りの歳月を巻返しながら、やはりかなりなものだと、あらためて感心している。でも、忘れてはいない。
もし、「今までの人生の中から十枚のスライドを」といわれたら、私は間違いなく終戦の日の一枚を入れるだろう。私にとって終戦は、強烈なショックだった。
しかし具体的なことは、かなりの部分が剥げ落ちており、はっきりとしないのだ。だが、いかにぼかしのスライドになろうとも、何とも名状しがたい感慨が心中渦巻いており、私の中の貴重な一枚であることには変わりない。
……その時私は女学校三年生。8月15日といえば当然夏休みのはずだが、そんな悠長なものは返上して、松根掘りや芋畑と化した運動場で、唐鍬をふるう毎日だったように記憶している。たしかその日は、「重大放送を家で聞くように」と、早ばやと帰された。
家に着くと、緊張した耳に、ガーガーというラジオの雑音が入った。古ぼけたそのラジオは、それに似合った整理箪笥の上に載っていた。その前には、家族以外にも、二、三人はいたような気がするのだが確かではない。
よくは聞きとれなかったが、戦争に負けた、戦争が終わった、ということは理解出来た。
みんな、「死なずにすんだんだ……」心中そう思っていたのはたしかなのだが、誰一人喜びを表すことはしなかった。かなりの時間、大人たちは泣いていたような記憶がある。みんな、大声では泣かなかったが、我慢している分、鼻がやたらにぐすぐすと音をたてていた。(今日までの、多くの兵隊さんたちの死は、犬死じゃないか!我々も、何のために鍋釜まで出して頑張ったのか!)という悔しさが、みんなの頭の中で渦巻いていたのだろう。
私も涙がわいて止まらなかった。思えば小学一年生のときに支那事変勃発、物心ついてからは戦争戦争である。「最後の一人になるまで戦う」ことを、信じて疑わなかった筋金入りの「軍国少女」であるから、眼の底が洪水になるのも無理ないことである。
今から思うと、十五才にも満たない子どもが、「討ちてし止まむ勝つまでは」などと口走り、お国のために死ぬ覚悟が出来ていたというのだから、恐いといえばこんな恐いことはあるまい。教育次第では、骨の色まで変えられる、ということかもしれない。
しかし、ひと月もたつと、自分たちにも、平和と自由があたえられたことを、じんわりと感じはじめたのを覚えている。それまでは外来語のようでもあり、惨めったらしくもありで、使えなかった「敗戦」ということばにも馴染めだした。
戦後の衣食住の苦労は、戦中よりひどいものだったけれど、平和という安心のチケットを握っていたためか、気持ちの中はカラッとしたものがあった。
こうした戦中・戦後の強烈な体験は、私の性格形成に何らかの関わりがあったと思っている。「死を覚悟」などと大げさなことをいったが、それは建前であって、本心は正直いって、「本土決戦で玉砕」など、恐くて恐くてたまらなかった。戦場に狩りだされる男性を見送りながら、(オンナでよかった……)と思ったものだし、そのうち神風のようなもので、敵は全滅、日本は勝つにちがいない、と信じて疑わなかった。そう思うことで、恐怖から逃げていたのだろう。だから私にとって敗戦は、神風だったといっていい。
私はいつの頃からか、逃げの姿勢で物事に対してきたようである。困ったこと、心配ごとに出くわすと、すぐ楽天という大風呂敷を広げて包み込んでしまう。そんな大風呂敷を背負って逃げるスタイルは何かに似ているが、私の「小心で神経質」という本来の性格をなだめすかしてきたのがこの姿勢である。「今に神風が……」の残党のようでもあり、ウイルス菌のようでもあり、どうも一生付き合う羽目になりそうだ。