2016年12月27日火曜日

№1115 真珠湾攻撃


 75年たっても忘れられないのは、かなりの衝撃だったにちがいない。当時、帯広市で印刷所を経営していた我が家の家族と、工員さん3人ほどが、朝から仕事をせずに、ラジオの前で臨時ニュースを聞いていた。戦況は、軍艦マーチと共に、次々と戦果を発表していた。寒い日だったので、石炭ストーブをガンガン焚いていた。余談になるが、ストーブの周りは、金網の囲いが置かれていたので、私は、煙突のそばの金網のところで、背を向けていたのだが、真新しい毛糸のセーターの背中を焦がし、煙が出て、カチカチ山の狸のように、背中を焼くところだった。
 
 私たち国民は、この戦争の発端は、止むにやまれぬ事情があったと聞かされていた。資源のない日本が植民地をどんどん広げていたアメリカやイギリスに意地悪されて、しかたなく始めた戦争だと。どこまでが本当やら嘘やらしらないが、イジメられていたのは本当らしい。だからといって、戦争を仕掛けたのは、これは絶対に許せない。許せないけど、戦争をしなければならなかった理由は、戦後、だれも教えてはくれなかった。
 
 当時の世界地図は、薄桃色の米英の植民地が、地図の多くを埋めていたほどだった。その中に真っ赤な日本列島が、ちっちゃく描かれていた。こんな小さな国が、大国相手にどうなるのかと、心配したがじき、日本は昔から神の国で、いざとなれば、神風が吹く、なんて教えられ、信じてしまった。単細胞だった私は、女学生2年生のとき、【日本は勝てない】と、言いつっぱっていた同級生のひとりに驚いてしまった。今、思えば、彼女は頭のいい秀才だったが、頭がよすぎたのか、後年狂ったという噂だった。
 
 人間の歴史は闘いの繰り返しだ。戦争もいじめも、根を断つことは難しいことなのかもしれない。


2016年12月23日金曜日

№1114 国家の品格


  日本の温泉施設『大江戸温泉物語』という施設そっくりの偽物が中国にオープンしたというニュースを聞いた。中国が、色々な商品の偽物を作って安売りしているのは前々からなので、あまり驚くこともないのだが、今度は、堂々と名前からすべて同じものを無断で作って営業しているというのだ。中国のお家芸のようなもので、日本の領土にちょっかいを出したりすることも総て中国国家の品格の低さを裏付けているものだろう。

 そもそも品格ということばは藤原正彦氏が『国家の品格』という本を出版されて関心が集まったが、国家だけではなく、個人にもよく言われていることだ。「品、品格、上品、品位、下品」などなど、個人を評するとき、口には出さずとも、心の中では、感じとることはよくあることだろう。国というのは、個人の集まりなので、品格の低い者が大勢いると言うことなのかもしれない。だから政治家だって、品格の劣る人たちが集まっているのだろう。

 そう言う国は好きになれない。好きになれない国は中国だけではない、ロシアだって品格は低い。日本の国と闘ったのも、条約を破って、日本が負けることがはっきりしてくると参戦して来たし、しかも僅かの日数しか闘っていないにも関わらず、シベリアに多くの兵士を連れていき、何年も酷い労働をさせ、多くの人達を死なせ、領土まで分捕ってしまった。戦後70何年もたっても、戻してはくれない。

 そもそも品というのは、大国だから上品、裕福だから上品、貧しいから下品、大学出だから品格がある、というものではない。ま、歴史や育ち方にもよるのだろうが、その人の心の持ち方に重きがかかっていることなのだ。良いことをしても、自慢ばかりしていたのでは、品格は落ちるだろう。

 日本人は、昔の武士道というものを学んできたせいもあって、人の道というか、道徳心もあって、中国に比べると、ずっと国家の品格は高いだろう。ただ、今後のことは解らない。戦後の教育の欠点が、色々と現れているからだ。自分さえよければいい、という考えでは、品位などはたもてない。

 私も,婆さんとはいえ、装いや生き方に気をつけて、メッキの剥げぬよう、やっていきたいものである。

2016年12月21日水曜日

№1113 好き嫌い


  好き嫌いといえばまず食べ物を思う。最近の子どもたちは、好き嫌いが激しいというよりは、好きなものばかりを食べてきたので、食べられない、ということが多いのかもしれない。

「食事に文句をいうな!」……親からこう言われて大きくなった私は、文句は言わなかったが、今なら大いに言いたいところである。今更、祖母や母を責める気など毛頭ないのだが、子どもの頃の我が家の食卓は、一向に変わりばえのしない毎日だった。けっこう肉や魚も食べていたから、粗末とは言えないのだろうが、目先の変わった料理などにはご縁がなかった。

 お菓子などの間食には欲があったが、食事となると毎度箸を持つと食欲がすぼんでしまうものだから、ひ弱な病気持ちのような子どもだった。毎学期渡される通信簿の身体検査欄には、「栄養要注意。肝油、太陽燈を続けること」と、いつも記載されていたのもだ。だから、毎日保健室に行って肝油を飲ませてもらい、週に何度かは、上半身裸になり、水泳のゴーグルのような色メガネをつけて、臭い太陽燈を浴びていた。今から随分昔だが、学校には、高価な太陽燈という、学校自慢の設備があったのだ。太陽燈室は、いつも満員で待時間が長かった。

 もう、祖母や母のお化けが出てきそうもないので言うのだが、「好き嫌いして何でも食べないから太れないのだ」と、よく叱られた記憶はあるのだが、(何とか工夫して食べてもらおう)などといった親側の努力はあまりなかったように記憶する。これはどことも似たり寄ったりで、そんな時代だったように思ってきたのだが、安川家に嫁にきて、その考えがちょっとばかり変わってしまった。私と年の違わない夫の子ども時代の食生活は、私のそれとは〝月とすっぽん〟の違いがあった。理由はすぐ解った。母親が料理好きの研究熱心なのだ。だから、見た目も味もいい。レパートリーも豊富ということになる。そんな家庭だから、デパートの食堂などで外食もよくしてきたらしい。

 私も子どもの頃は、市内の真ん中に住んでいて、ときには母親とデパートに行ったこともあるのだが、外食をした記憶はまったくない。当時の我が家の経済は、外食が出来ないほど貧しくはなかったはずだが、外食などは贅沢千万と思っていたのだろうか……。家の近くでは、うどん屋の暖簾や食堂の看板もよく目についたが、そんなところとも、まったく無縁で大きくなった。

 そんな私だが、小学三年生のとき、母親と汽車に乗り、降りた駅前の食堂で、生まれてはじめての外食をする機会に恵まれた。食べたのが親子丼で、ほっぺたが落ちるほどに美味しかったのが忘れられない。今にして思えば、味わったこともないあれやこれやを食べるチャンスに恵まれなかった、ということにもなるのだが、今でも食堂で「親子丼」という貼り紙を見ると、幼な友だちに出会ったような気分が心中をうねっていく。丼ものを注文するよりは、いろいろな野菜などの組み合った日替わり定食などを注文することが多いので、以前のように親子丼を注文することはなくなった。けっこう食事のバランスも考えている。ただ、卵がからだによく、いくつ食べてもよいという今の栄養学を信じ、一日に3個は食べている。

 戦後七十余年、食文化は随分変わってきた。子どもの体格と平均寿命を引き伸ばし、そして外食産業なるものも生み出してきた。しかし、幼いときの経験が、その人の生き方に、少なからず影響する、ということは、どんな時代になってもまぬがれないようだ。子どもの頃から三度の食事に胸を踊らせて大きくなったという夫は、人生の楽しみの中で、「食」は大いに幅をきかせていた。おかげで、貧しかった私の舌も、恩典をたくさんいただけたと思っている。今は、美味しいものを食べたいとはあまり思わないが、美味しいものを食べると、(夫にも食べさせてやりたい)という思いがよぎることがある。

 

 

 

2016年12月16日金曜日

№1112 杖


  100円ショップで買い物をしているとき、杖が目に留まりました。腰の調子が悪い私ですが、まだ杖をつかずに歩いています。杖が欲しいと思うことはあります。ちょっと長道を歩くと、足がだるくなってしまいますし、駅の下りの階段などでは、杖が欲しくなります。

少し前、デパートそごうの中で、杖を見かけたときは、手に取ってみました。きれいな模様のついたものや、伸縮のできるものなどあって、けっこう高いなあと思いましたので、100円ショップでは、ひどく安物にみえました。いえ、本当に安物です。せめて買うときは、もっといい杖を買うつもりです。ついている杖が折れちゃった、なんてことになったら大ごとです。杖とともに、骨まで折れてしまいますもの。(笑)

杖と言いますと、身体だけではありません。どなたもそうだと思いますが、私も「こういう自分でありたい」と思う自分があります。自画像と言ってもいいと思います。もう後期高齢者の最後尾に近くなりますと、そうしたものをしっかり持っていないと、とんでもない方向に崩れて行く心配があります。
自分の生き方を決めているものが、そうした自画像だと思いますと、それから外れるような自分ではありたくないと思いますから、反省したりしながら、軌道修正もしながら生きてきました。自画像も、その時々に修正されたりします。自画像は、私の人生の杖のようなものかもしれません。

  人間は、そんなに強い者ではありません。いや、弱い葦のようなものです。弱いが故に、杖は必要なものだと思います。宗教も、そうした杖でしょう。どんな杖であっても、自分にとって必要な杖であれば、いいのだろうと思っています。
 


2016年12月14日水曜日

№1111 思い出すこと


  今、4日連続のNHKTVドラマ「東京裁判」を放映していますが、この裁判、当然のことですが当時の大人たちは、随分関心を持ってラジオ・新聞で見聞きしていました。戦後も遠くなり、「戦争を知らない子どもたち」という歌が流行ったのは、昭和四十年頃でしたが、今や戦争を知らない大人たちの時代となりました。戦争を知っている大人たちは、後期高齢者という枠に入って、表社会からは、ほとんど身を引いています。たまに、戦争体験を皆さんに聞いてもらい、平和の有難さを説いて居られる方を見ますが、そうした活動をされている方も、僅かとなりました。

私は、終戦時は15歳だったので、戦中戦後の記憶はまだはっきりと記憶に残っています。父は召集令状で戦地に赴きましたが、無事帰還していますし、直接女子挺身隊に行ったわけでもなく、空襲で丸裸になったわけでもありませんが、戦争の苦しみや馬鹿らしさは、骨身に沁みています。

 懐かしいコトバに、戦後の【筍生活】というのがあります。持っているもの、身に付けたものを一つ、二つと売りながら生きるための食糧を求めたりしながら、生活していくことです。私の家などは、インフレで、財産の殆どが紙屑のようになってしまい、お金も売るものも無かった時代を、何とか生き抜いてまいりましたから、それは大変でした。

やっと食べる物に不自由がなくなり、自由にモノが買えるようになったのは、私が教員になって、しばらくしてのことだったと思います。父や母が、がむしゃらに働いて、子どもたちを大きくしてくれたのです。

こうした苦労を知っている私は、今の時代の贅沢な生活を、喜んでばかりはおれない気持ちにさせられます。

戦後、家庭は、核家族というかたちに変容していきました。独立した若者たちは、高度成長期ではありましたが、共働きをしながら子どもを食べさせるだけが、精いっぱいでした。母親たちは、経済的自立、あるいは生活を豊かにするためにと、家をカラッポにして働きました。『鍵っ子』という言葉も生まれました。そのうち、ちょっと生活に余裕が出来てくると、贅沢の味を知らずに大きくなった親たちの愛情は、子どもに不自由はさせまいと、モノだけはどんどんと買い与えました。子どもの心を育てることは二の次になったように思います。

そうした子どもたちが、子どもを生んで親になったのです。はたして、うまく我が子の心を育てることが出来たのでしょうか……。

ある記事によりますと、非行に走る子どものほとんどの家庭に、仏壇がないといいます。仏壇はなくともテレビはどこの家庭にもある時代です。子どもたちは、毎日愛情の薄い、テレビやテレビゲームにお守りをしてもらっていたのです。そのテレビやゲームたるや、スイッチ一つで、極悪非道な犯罪、人殺しが、まるで日常茶飯事のように画面から放射されてきます。自分とは無関係なはずの事件が、何でもない、当たり前のことのように、幼い頭に刷り込まれていても不思議ではありません。

その結果、一部とはいえ、子どもでありながら、殺人、強盗と、まるで想像もつかないほどの犯罪をやってのけるようになったのでは・・・と思えなくもありません。

こうした現実に追い討ちをかけてきたのが、戦後教育だったようにも思います。履き違えた自由主義や個性尊重がどういうことになったかは、結果が物語っています。

いやな予感も頭をよぎります。今は、わずかの子ども達の引き起こす事件ではありますが、将来は、もっともっと増えていくのではないかと思うのです。一部の子どもの万引き、援助交際といったことなども、まるで子ども全体の問題のように報じられることで、健全な子どもたちまで、汚染されて行くような危険を感じるのは、私だけでしょうか。

戦後七十年とはいえ、長い歴史の中での、たった七十年間での、世の中の変わりようが、あまりにも大きく、そしてあまりにも嘆かわしいことに、なすすべのない一老人です。

 

2016年12月13日火曜日

№1110 達成感


 達成感というのは、それまでの苦労やストレスを消してくれるものだ。師走になると、あれこれとやりたいことが頭の中を駆け巡る。庭の雑草抜きも、夏場のようには生えていないのだが、小さいくせに、しっかりと根を張っていて、けつこう手間がかかる。それでも、抜いた後を振り返りながらやっていると、気分は悪くない。少々腰が痛くてももう少し、もう少しと頑張ってみる。終わって道具を片付けながら、何となく清々しい。こんな気持ちを達成感というのだろう。

ま、たかが草取りだが、何事も、目標をもってすることには、達成感もついてくるようだ。

2016年12月8日木曜日

№1109 パソコン


  パソコンの調子がよくない。そろそろ買い替えの時期がきているのだが、今、使い慣れたものから、新しいものに変えると、しばらく慣れるまで大変なので、迷っていたのだが、今のを使いながら、新しいノートパソコンに慣れておこうと思って購入したのが4日前。始めは、ワードだけを使ってみようとしているのだが、中々使いこなせない。評判の悪かったウインドゥズ10が改善されたというのだが、今のとかなり違うものだから、慣れるまでというよりも、憶えるまでが大変だ。機械と横文字に弱いので、ヒトの何倍もかかりそうだ。

 以前中古のひどく安いパソコンの広告が新聞折り込みにはいっていた。2万とかいうようなものだったと思う。こんなものが使い物になるのかと思ったのだが、聞いてみると、詐欺のようなものだとか。使い物にならないようなモノらしい。持ってこられても、修理もできないようで、酷いモノを売っているとか。私はいつも、パソコン専門のところで買っているので、そうした心配はないし、あとあとも、責任を持ってくださるのだが、大型量販店などの中にも、無責任なところもあるらしい。【安物買いの銭失い】になっては困る。

 

 

2016年12月4日日曜日

№1108 日本沈没


 今夜もまた、東北で地震があった。地震がこうも続くと、この日本どうなるのかと本気で不安になって来る。以前、小松左京という作家が、【日本沈没】という小説を書いたが、当時は、そんなことはあるはずがないという思いだったが、今は違う。大きな地震があちこちで起こり、しかも、何年も前の大地震の余震などと聞くと、将来、大きな本地震が日本の国全体を揺るがして沈んでいくのではないかと、無知なだけに、こんな恐ろしい想像をしてしまう。たしか小説は、日本が2000メートルくらい沈んでしまうようなことになり、人々は日本を脱出しはじめるのだが、日本民族は国を失ってしまうような小説だったと思う。ま、そんな時代には生きてはいないが、子孫がそんな目に遭うようにならないことを願う。(::)

2016年12月3日土曜日

№1107 師走だ


  12月の声を聞いて、年内にしなければならないことを書き出してみたところ、「これはぐずぐずしとれんなあ」と思った。動作は鈍くなっていることを考えると、さっそくはじめたくなった。まず家の中の片付けをしようと。

今日は、台所から始めた。身辺整理もかねての整理なので、大変だ。やっと片づいた。やりだすとけっこう根気よくやるほうなのだ。()

今日は6時に起床。朝のうちにのろのろと雑事。8時からTVをみながら食事。終わったのが9時。洗濯物を干したり、新聞見たりしていると10時。予定の台所の整理をはじめる前に頂いた大根をおでん風にことことと煮ることにした。煮ながら台所の整理をする。その間、TVをつけているので、ときどき覗く。1時に昼食と思ったが、お腹がすいていなかったので、2時まで続けるつもりだったが、気が付いたら3時。とろ火の大根も食べごろ。簡単な昼食。そのあとも台所の整理。腰が痛くなると椅子に腰掛けて一息入れながらの仕事なので捗らない。

まだやり残したことはあるのだが、やっと何とか片付いて掃除機をかけ、時計を見ると7時。夕食。買い物にも出なかったので、肉も魚もない。常備の茹で野菜(キャベツ・ホウレンソウ・小松菜・蓮根)と、大根の中に入れてあった味のしみた茹卵(美味しいので2個)と缶詰の鰯と味海苔、茄の漬物。

少しはモノが減ったと思うのだが、見た目はあまり変わらない。少しばかり整然としたかな? まだ使える物を捨てることには抵抗があるが、衣類と同じで捨てる勇気が必要だ。特に焼き物が好きなので、(自分では作れないが)好きで買ったものは捨てられない。

つくづく思う。モノは、どうしてこんなに増えるのかと。「これがあれば、便利そうだ」と思って買ったはずのモノが、2,3回使ったきりで、引き出しで眠っている。反省。

そして気が付いたことがある。モノも、場所を変えることで、気分も変わる、ということだ。明日から、ちょっとばかり、台所に立つ時間が、少なくなるかもしれない。……なんておおげさなこと言って。(^^)

 

2016年11月29日火曜日

№1106 世代交代


  今年の年末紅白歌合戦のメンバーが発表されたらしい。もう、何年も前から、TVにかじりついて観ていた時代は過ぎて、TVは付けていても、他の仕事をし、聞きたいと思っている歌手が出たらしいときだけ、TVの前に座っていたものだから、殆ど観ていない。

今年の歌手は、かなりの世代交代をしているらしい。というのも、私がメンバーの一覧表を見ても、まったく横文字の歌手など知らないので分からない。選考に落ちた歌手の中には、今まで毎年出ていたような大物歌手が何人もいるらしい。和田アキ子も落ちたと書いてあったが、彼女が毎年出ていたことには、私には不思議なことだった。毎年同じ歌を歌っていたし、歌手として、目立った活動もしていたとは思えなかったからだ。彼女には、彼女にしかない才能があるのだから、そちらで頑張ってほしい。

これだけ紅白紅白と言う以上、年寄りの好む歌ばかりでは、懐かしのメロディ合戦となって、若者にそっぽをむかれてしまうだろう。世代交代は、当然のことだ。寂しいことだが、私のような年寄りには、横文字まじりの歌を、汗を流して舞台の上で暴れるように歌う音楽は分からない。後列に退くしかない。

でも僻んでいるわけじゃない。世代交代は、音楽だけではなく、それぞれの分野で行われているのだろう。老兵は消えゆくのみではなく、老兵には老兵の楽しみ方もあるはず。さて、何をして楽しもうか?と考えるのも楽しいことである。(^^)

2016年11月27日日曜日

№1105 年金


  ある団地に住む友人曰く。「もうあたりは老人ばかり。若者はだれもおらん。皆さん息子の出来がよくて、都会に出ていってるんよ」と。この団地に住む老人は、皆さんほとんどが年金暮らし。私だって年金だけで生活しているので、年金問題は他人事ではない。年金の改革案が、強硬採決だなんだと、与野党が争っているが、年金が少なくなろうが増えようが、手に入るだけの生活をするしかないのが年金暮らし。ただ、現状を思うとむげに反対ばかりを唱えてもしかたがないとも思う。

老人が増えて若者が少なくなることは、とうの昔から分かっていたことなので、その対策をしてこなかった政治が悪かったのだが、そんな政治に文句を言うことなく、政権をにぎらせてきたのだから、今更文句を言ってもはじまるまい。年寄りには、まことに住みにくい世の中になってきた。老人施設はこれからは不足して、中々入れないだろうし、施設は施設で、いきとどいているように見せかけながら金儲け主義に走っているところも少なくない。正直、これからは、頼りは自分自身しかないと覚悟しなければならないと思う。

 と言うものの、何の手立てがあるわけではない。ただただ、寝込まぬように、健康のまま、ぽっくり逝きたいと思って 痛い膝や腰を騙し騙し歩いたり体操したりするくらいのことだ。そうした努力をしながらも、だんだんと認知症的物忘れがひどくなりつつある現実。【宵越しの金はもたねえ】の江戸っ子のように、【宵越しの知識は持たねえ】主義になりそうだ。

 

2016年11月23日水曜日

№1104 地震


 こよみが変わつているので、昨日になるが、朝早くから、東北の地震、津波と、TVは連続放送していた。またもや福島……、福島の方たちの気持ちを考えると、何とも言えない気分になった。
 地震といえば、阪神淡路大震災のとき、(1995/1/ 17 AM:46)かなりの揺れで驚いたものだ。まだ4歳だった孫といっしょに寝ていたのだが、私は思わず孫の上に覆いかぶさった。しかし孫は、すーすーと眠ったまま、ビクリともしなかったのに感心してしまったのを思い出す。
 日本は、幾つもプレート上にあるのだから、いつの日か、日本沈没ということになるのかもしれない。
 私の住んでいるところは、海も山も離れているので、南海地震が起こっても、家は傾くかもしれないが、津波や山崩れの心配はないので、避難訓練などは、あまり真剣に考えていない。多分、この辺りに住んでいる方々は、私と似たり寄ったりだろう。真剣に考えれば、非常事態の時に持ち出す物などをそろえておかねばならないのだろうが、そんな用意はしていない。
 何事も【運】で片付けるつもりはないが、運が悪ければ、旅行中に出くわす不幸ということもある。我が家や病院のベッドで静かに逝けたらいいなあと思うが……。
 

2016年11月19日土曜日

№1103 白川郷


  新日本風土記というTV番組で、【白川郷】が再放送されるのを知り観た。もう20何年も前になるが、退職後、車で女学校時代の今は亡き親友の住んでいた高崎に会いに行ったことがある。その帰り路、秘境白川郷に立ち寄ったので、とても懐かしい思いで目を凝らしてみていたのだが、偶然にも、私の泊った宿が出てきた。合掌造りの民宿で、当時と同じ看板が掛っていた。それを見ていたら、走馬灯のように、その夜のことを思い出した。

私の訪れたのは、七月の初めだったが、陽射しはかなり厳しかったが、家の中は涼しく、通された部屋は、クーラーも扇風機もなかったが、外気とは比べものにならぬほど涼しかった。泊り客は、数人だったが、一坪ほどの囲炉裏には薪がくべられていて、それを囲んでの夕食。4人程は、仕事仲間らしく、商売の話に余念がなかったが、残ったもう一人の男の客は、ぽつりぽつりと私に話かけてきて、ビールの勢いもあってか、「いやあ、さっき、徳島ナンバーの車が入ってきたので、感心したんですよ」なんて言っているうちに、身の上話まではじめた。「白川郷は3度目で、いつも家族に黙って家出してくるんですよ」なんて、面白そうに話してくれる。家出は10日ほどらしいが、それにしても、家族の身になれば心配だろう。「言えば止められるか、連れていってくれと言われますからねえ。それに発作的に飛び出すんです」と。何となく、ストレスのたまるお仕事らしく、もうこの10年で5回も家出旅をしていると言うのだから、結構な御身分らしいが、ご本人は、めちゃくちゃ働いてきたと。しかも家出がなければ生きてはおれないなんておっしゃる。「ま、2年に一度くらいの家出で死なずにすむのなら、奥様も許さねばしかたないでしょうね」と笑ったが、人生はいろいろだ。つかの間とはいえ、家や仕事を忘れて、自然の中に自分を溶け込ませ、打ち直されてまたふっくらとなって仕事に励む、一夜のすれ違いの旅人と人生を語り合う……なんて、ま、男のロマンかもしれない。
意地悪く「奥さんの家出も認めてあげるんでしょ」と言うと、「あいつは楽天家だから、悩みなんてないですよ。悩みより寝るほうです」 いつのまにか、家内、妻が、【あいつ】に格下げになってしまったが、何となく、ほほえましいご夫婦像が目にうかんだのを思い出す。

 

2016年11月17日木曜日

№1102 月


 11月の1415日にかけては大きなおz月さんが見えるということだったが、雨であったし、十六夜の月も見ることができなかった。私たちが神秘な世界と思っていたものが、数学の図式のように解きあかされていく現代だが、やはりお月さまは、かぐや姫じゃないが、殺風景な月面は似合わない。昔、はじめて人間が月に着陸した時の興奮は今も忘れられないのだが、人間のすばらしさとともに、月への夢はかき消されてしまった。 
月への夢なんて言っているのは、我々の年代だけかもしれない‥‥。あの月世界着陸のテレビを職場で子ども等と見たのだが、家に帰ってからも、ただただ「すごいすごい」と感嘆しているいる私のそばで、息子は、
「ぼくは、まだ誰も月の世界へは行ったことがない、と知ったときの方が驚いたなあ。だから、人間が月ぐらい行って当然という気持ちが強いから、かあちゃんほど感激しないなあ」
と言ったのだ。月には兎が住んでいる‥‥と、私は小さいとき思っていたのだが、息子の世代は、月の世界は科学の世界なのだ。子ども時代に読んだ絵本や雑誌の違いだろう。

 とは言うものの、科学がどんどん発達していくと、反対に宇宙や自然の神秘にいやおうなく感じ入ってしまう。突き詰めれば突き詰めるほど、謎めいた自然の法則が、神秘のベールにつつまれて浮かび上がってくるのだから、この世は不思議である。

 始めて月にいった宇宙飛行士が、地球に帰還してから神を意識したり、キリスト教の伝導者になったなどというはなしを聞いたことがあるが、科学ばかりがこの宇宙を支配しているのではないことを知らされた思いだ。余談になるが、最近ある番組で、宇宙に暫くたいざいして地球に帰ってくると、立っては歩けないほど、筋肉がなくなっていて、リハビリをしなければいけないらしい。無重力での生活は、いくら動いていても、身体をうごかしていることにはならないらしい。

 それにしても、私個人としては、科学なんて何の知識もない。小さなねじ釘一本作ってみよと言われても作れないのだ。ほとんどの人がそうだろう。それなのに、みんな科学のおかげで大そうな生活をさせてもらっているのも、これまた不思議なものである。世の中には、頭のいい研究者がたくさんいらっしゃる。そんな頭を、悪いことに使う人もいるのも現実だ。地球を人が住めなくしてしまうのも、人間のしわざなのだから……。

 

2016年11月15日火曜日

№1101 続きです


  徳島にも、演劇の好きな方は、大勢いらっしゃり、幾つかの演劇団体があります。若い方やシニアの方が混ざった劇団が多いのですが、そうした劇団は、公演を目的としての練習をしているようです。お勤めの有る方たちが多いので、夜8時や9時からおそくまで稽古やっていますから、好きでなければ出来ません。

 私たちは、公演が終わっても、毎週火曜日の夜、7時半から、9時半まで、発声練習、基本のレッスンなどしています。50歳以上であれば、どなたでも入会できますので、参加してください。

 私は、皆さんにご迷惑をかけぬうちに、そろそろ足を洗わねばと思うこの頃です。

 

2016年11月14日月曜日

№1100 一息ついて……


  昨日の日曜日、シニア劇塾の公演をやっとすませ、一息ついています。塾長先生のご指導・演出、出演者の頑張りで、何とか皆さんに楽しんで頂けたらしい芝居だったので、ほっとしました。内容が、戦争や年寄りの抱える問題を取り上げたものなので、共感いただけたのでしょう。実を言いますと、今までにないほど、心配していました。練習の集まりが悪く、全員がそろっての稽古は、数えるほどしかできなかったものですから。それに何と言いましても、シニアです。記憶力も、若い者のようにはいきません。それでも何とか本番には、これまでにないほどの集中力で、2回の公演を無事やりとげました。(^^)

 終わった時の達成感は、やはり嬉しいものです。皆さん、手をとりあって喜びました。お客様が、書いてくださったアンケート用紙を眺めながら、目がしらがあつくなりました。ありがたいことです。

 

2016年11月8日火曜日

№1099 日記帳


  このトシがくるまで、日記らしい日記は付けていない。というのは、あまり詳しいことを書き遺すのをためらう気持ちがある。日常生活の忘備碌程度のことしか書かない。それも、大切に置いておく気持ちはない。2年も置くと焼き捨ている

 1991年から10年日記というのを使いはじめた。B5版の2000年まで。1930年生まれの私だ。2冊くらいは書けるかな、と思いつつ、手にしたのを思い出す。1頁を10に分けたのが一日分なので、詳しい内容を書くスペースがないのもいいと思った。

思い通りに2冊めの終わるとき、3冊目をどうするか迷った。10年は長く、最後まで書きあげる自信がなかったのだ。それで3年ものにした。少し小さめのA5版のものだが、厚さは変わらない。

無事に3年が終わりに近い12月、本屋で日記帳を見かけ、どれにしようかと、随分迷ってしまったが、1年物の、気にいったものがあったので、それに決めた。見開きが1週間の日記と、別に見開きに1カ月のカレンダー予定表のついた、月曜始まりのものを購入した。2年も生きておられるか?と思ったわけではないのだが……。

月曜始まりの手帳や日記というのは、使い始めた頃は少なくて、さがすのに苦労したのだが、今はどこにもあって、さがす苦労などまったくない。

先日書店にいったついでに、来年の日記帖も、早々購入した。今使っているものと、同じものを選んだ。かなり時間をかけて、もっと使いやすいものはないかと見くらべたのだが、使いなれたものにした。

 日記帳選びというのも、けっこう楽しいもので、色々な思いがよみがえってくるものだ。過去の日記帳は、身辺整理をしながら、焼き捨てたものがほとんどで、今は、3年日記以後のものしか置いてないのだが、過去を懐かしむ気持ちはあっても、心に残っているものだけで十分だと思っている。今は、前だけを見つめて歩くのに、精一杯だから。()

 

2016年11月3日木曜日

№1098 天高し


  文化の日。天高く馬も豚も肥える秋なので、私も太るかもしれないなあ……と思いつつも食後、美味しい頂き物のチョコをつまむ。でも、最近は、体重は、増えも減りもせずに大体安定している。もう、食べる量が決まってしまったのが原因だろう。それと、ケーキだのお菓子などを食べるときは、炭水化物類の主食は、ちょっぴりにしている。ケーキなどは、入るところが違う、などと言っていた時代は、もう終わったのだ。

 もう一つの理由は、三度の食事は、野菜類その他副食を先にいただいて、主食は大好きなお漬物で頂くようにしているので、ご飯はそんなに食べられない。お茶碗に半分くらいで事足りる。 こうしたことは、あまり努力もせずにできるのはトシのせいだろうか。

 私はチョコレート類はもちろん、つぶあんのたっぷり入った甘いものなども好きだ。でも食後に頂くことが多いので、大量は食べられない。あまり間食の習慣がないのも、体にはいいのかもしれない。

 健康上からいうと、ちょっと太り気味というのがいいらしい。標準体重よりも、ちょっと多いくらい、ということなら、私は今のままでいいようだ。さて、こうした体重維持が、いつまで続けられるかな?

2016年10月31日月曜日

№1097 ハロウィーンなど


 ハロウィーンが、どういう意味があるのかはよく知らないのだが、ひと月も前から、マーケットなどでひどく騒がしく宣伝しているのを横目でみていたのだが、今日がその日らしい。お化けのような格好の若者が、都会を闊歩しているのを見て、何のためかと不思議に思って、ネットで調べてみた。 

ケルト人の1年の終りは1031日で、この夜は夏の終わりを意味し、冬の始まりでもあり、死者の霊が家族を訪ねてくると信じられていた。時期を同じくして出てくる有害な精霊や魔女から身を守るために仮面を被り、魔除けの焚き火を焚いていた]。これに因み、31日の夜、カボチャ(アメリカ大陸発見以前はカブが用いられた)をくりぬいた中に蝋燭を立てて魔女やお化けに仮装した子供たちが近くの家を1軒ずつ訪ねては「お菓子をくれないと悪戯するよ」または「いたずらか、お菓子か」と唱える。家庭では、カボチャの菓子を作り、子供たちはもらったお菓子を持ち寄り、ハロウィン・パーティを開いたりする。お菓子がもらえなかった場合は報復の悪戯をしてもよい

とある。ケルトがどこの国かもしらなかったので調べると、ケルト人は、中央アジアの草原から馬と車輪付きの乗り物を持ってヨーロッパに渡来したインド・ヨーロッパ語族・ケルト語派の民族である。とのことだ。

 ま、こうしたお祭りは、すかさずお金儲けとつながっているので、広まるのは早いだろう。日本でもあっという間に全国版になっている。

クリスマスには、それなりの意義があり、そのおまけとしてのプレゼントなどは、多くのこどもたちや若者たちを幸せ気分にしていて、何の違和感もないが、ハロウィーンは、私のような者には、まったく関心はない。(笑)

 話題を変えるが、昨日は久しぶりに、昔の仲間が集まった。といっても5人ばかりたが。もう23,4年も前、エッセイを書くのが好きな者が10名ほど集まって、「エッセイストとくしま」という会をつくり、年に1冊だが、【随筆とくしま】という冊子を発行していた。積極的だった主宰者の井村幸男さんは、どんどんと会員を増やしてしまい、大変な時もあったのだが、その元締めだった井村さんが亡くなられたあと、平成20年、追悼号(第16号)をだして終わりとなった。その会の主だった世話役も、10人ちかくいたのだが、今は5人となった。もう車椅子生活で、施設に入居されているSさんの家の近くに集まったのだが、話は尽きることがない。筆まめだったHさんも、すでに亡くなられて2年近くなっているし、この会を楽しみにしていた気丈なMさんも、先日急逝された。九十歳だったので、トシに不足はないのだが、ご本人が、「私は百まで生きそうだわ」なんて言っておられたものだから、彼女の死はショックだった。元気だからといっても、明日の命の保障の無いことを信じないわけにはいかない。 

集まった皆さんは、言うことや考えることは似たり寄ったり。それでも大笑いしたりあきれたりしながら、時のたつのを忘れておしゃべりに花が咲いた。

何年たっても、趣味を同じくする仲間というのは、いいものだと、つくづく思った一日だった。

2016年10月27日木曜日

№1096 誕生日


  昨日は、私の誕生日でした。昨日書くつもりが今日になったのは、相変わらず、ごそごそしているうちに、日付けが変わり、間に合わなかったのです。いっそのこと、明日ゆっくり昼間に書こうと寝てしまいました。(笑)

【目出度くも有り目出度くも無し】というコトバ通りの心境ですが、家族や親しい方に、おめでとうございますと言って頂くと、素直に、「ああ、このトシまで生きてこれたのは、目出度いことや」と思います。

 朝起きて、つくづくと鏡の前でスッピンの顔を眺めました。「随分トシとったものやなあ。86歳というトシは半端じゃないもんなあ」と、感心いたしました。顔というのは、どうにもならない部分がほとんどですが、シミや皺で汚くなっていく自然現象に無駄な抵抗をしても仕方がない、という気持ちがあるものですから、あまり気になりません。したがって、化粧品などは、(あまり信用していないこともあって)安物を使っていますが、このトシがきても、化粧という外塗りだけは、毎日してスッピンの顔はできるだけさけています。そうすることで、少しは気分もよくなるものです。
 
 どなたもそうだと思いますが、私も「こういう自分でありたい」と思う自分の自画像があります。顔は自分の思い通りにはなりませんが、心美人ということには憧れています。もう後期高齢者の最後尾に近くなりますと、そうしたものをしっかり持っていないと、とんでもない方向に崩れて行く心配があります。

自分の生き方を決めているものが、そうした自画像だと思いますと、それから外れるような自分ではありたくないと思いますから、自然軌道修正も出来ることになりますし、自画像も、その時々に修正されたりします。自画像は、私の人生の杖のようなものかもしれません。

そしてその核になるものはやはり、生きがい、生きる目標を持つことで、それは、世のため人のため、小さくてもいいので、(トシとともに、範囲は狭くなりますが)家族でも、友人でも、何かお役に立つことが出来ると、幸せな気分になれるものです。それはすなわち自分のためであり、そのためには、一日でも長く健康で自立した生活が出来ることと、優しさと感謝の心をいつまでも、もっていなくては、ということでしょうか。このためにも、いつも笑顔を! ということかもしれません。難しいことかもしれませんが、そうありたいと思っています。

 一年ぶりの誕生日を迎え、やはりこの一年の重みというものは、若い時の10年に匹敵する、ということを実感しています。60代・70代の方たちは、今は青春と思ってがんばっていただきたいものです。

2016年10月23日日曜日

№1095 ご馳走様


  最近の子どもたちの給食には、和食と言われているものがほとんどなく、家でもあまり食していない、ということが、TVで放映されていた。ほとんど和食ばかりを食べている私めとしては、「えっ?」という思いなのだが、ともかく油ッ気の多い炒めものや、フライにしたものなどが多いのだろう。

 ある学校給食を和食の達人がご指導して子どもたちに食べさせている風景が写されていたが、そのとき、「ご馳走様という感謝の心」について語られていたのが心に残った。ご馳走さまの【馳走】というのは、馳せ走りまわる、即ち一生懸命に仕事をしている姿のことで、お百姓さん、漁師さん、品物を売る人、料理を作る人、などの大勢の人たちの働きによって、私たちの口に入るので、そのことに感謝をして「美味しく頂きました。有難うございました」ということですと指導なさっていた。

 これを聴いて思い出したことがある。以前、ある先生が、給食指導のとき、「いただきます」「ごちそうさま」を言わない子どもに、有難うの感謝の気持ちを教えて「家でも言いましょうね」と指導した。ところが、家に帰って母親にそれを言ったらしい。次の日の給食時、子どもは、「かあちゃんがな、給食費ちゃんとはらってるんやけん、そんなこと言わんでもええって言うた」と。

 思い出しても笑いたくなるような母親の教育だが、……いや、笑っちゃいかんけど、こんなマンガのような母親の子の教育の難しさは、よく解る。

現場を離れて幾久しいが、こういう親ごさんは、幸いにしていらっしゃらなかった、幸せな教員時代だった。 

 

2016年10月20日木曜日

№1094 胎教


  №1086 9/27 に挙げたはずの【胎教】が挙がっていなかったので、再度、投稿しておきます。
お医者さんは、【胎児は、33週から、音を感じる】と言っている。この世に生まれてくるまでの母親の体内での経験など、自分では記億がないので、真っ暗闇の中で、ことばも知らず、ただただ動物的な本能で生きているように思えるのだが、決してそうではないらしい。母親の心臓の音を録音しておき、子どもが不機嫌のときにそれを聴かせると、静かに寝るという話はよく聞く。

私の初孫が、やっとコトバをしゃべり、ちょっとばかり色々なことを知り始めた頃、「ママのお腹の中で、何してたの?」と聞いたところ、ちょっと考えて「お水遊び」と言ったのには驚いた。それから10日程して、同じことを聴いても、同じ答えだった。胎内での記憶が、まだ残っていたのだろう。その後、半年くらいして尋ねたときには、「憶えていない」と言う答えだった。尋ねるチャンスは、短い時期しかないようで、下の孫の時は、そのチャンスは残念ながらはずしてしまった。

孫のママは胎教もあったのだろうが、音楽好きなので、いつも美しい音楽をかけていた。おかげで孫たちは、音楽は好きで詳しい。上の孫は、音楽家の道半ばである。

私などは、音楽とは、まったく無縁で大きくなった。家では、蓄音器があったが、祖母のためか?父はよく義太夫や、浪花節のレコードを買ってきたし、童謡のレコードは、あったのかもしれないが、何の歌だったかの記億もない。ただ、東京音頭は、よくかけた記億がある。学校では、小学唱歌と軍歌であるし、和音を聴いて、「ハホト」(ドミソ)「ハヘイ」(ドハラ)と、聞き分けるくらいのもので、それも、敵機の音を聞き分けるためとか聞かされていたから、笑うにも笑えない。
そんな教育のおかげで、この頃のややこしい歌など、幼稚園児が歌えるようなものでも歌えないというお粗末さだ。親を恨むわけではない。平凡な家庭にとっては、そんな時代だったのだから。
録画してあった日本の名曲などを聴きながら、思ったことである。

*こういう古い話を書くとき、不安になる。それは、「こんな内容、以前書いたような気がする、と思うのだ。何しろ、1000回以上書いてきたブログなので、調べてみることも大変だ。思い付くままに、書くので、2度3度とよく似た話も出てくるだろうが、お聞き流しいただけたらと思う。

2016年10月18日火曜日

№1093 風邪

   昨日、珍しく風邪をひいてしまった。熱が少々あるのは我慢出来るのだが、鼻水、咳、クシャミが、立て続けなので、しかたなく内科医のところへ行った。風邪に効く薬などないと思っているのだが、このままではマスクなしでは、部屋の中も歩けないほど、鼻水がぽたぽた落ちてしまう。マスクの中のガーゼも、間なしに変えねばならないくらいだ。

 そんな状態で受診したのだが、先生の前にすわると、1秒くらい口の中を覗き、3秒くらい胸と背中に聴診器をあて、血圧を計り、「はいよろしい。薬3日分出しておきますからね」で終わりだった。  

風邪など何十年も引いたことがなかったので、「風邪って、こんなに簡単なことで薬が出るのかと不思議に思った。まだ熱が8度ほどあるので今日は、大人しくしていよう。

2016年10月13日木曜日

№1092  赤ちゃんの顔


 いつまで見ていても見飽きることのないのが赤ちゃんの顔です。デパートのエレベータに乗っていたら、かわいい赤ちゃんがママの背中に。思わずにこにこしながらお相手していたら、降りるつもりの階を過ぎてしまいました。

 もう、産院に出産のお祝いを持っていく機会がトンとなくなりましたが、ずらりと並んでいる赤ちゃんをガラス越しに眺めるのは、楽しいものでした。これから期待できるのは、曾孫誕生のみ。いつのことやら分かりませんが。(笑)

 赤ちゃんの顔は、よく似ていることもあってか、むかしは、取り違えるという大変な事件もありました。でも、中には、ちょっと違った赤ちゃんにお目にかかったことがあります。その子の母親が、「叔母ちゃん、この子の顔、普通の赤ちゃんと違うやろ?」と言うものですから、「目鼻だちのいい子やないの。頭のいい賢げな顔してるじゃない。男まえだわ」と、思っとおり言いますと、「今、煙草咥えさせても不思議でない顔やろ」と。私、吹き出しましたが、心の中で「その通り」と思ったものです。今は、もうどんなお顔やら、何十年も会っていませんが。(^^)

 

2016年10月11日火曜日

№1091  芸術の秋


  昨日は、県音楽協会コンサートという、県内の色々な音楽関係の団体の発表会を観に行きました。美しい音色や歌声を聴くのは大好きです。普段、TVでは、プロの演奏や歌声を聴いていと、私のようなものでも、TVの前では、ちょっとばかり批判も出てくるのですが、(笑)ナマ演奏を聴くのは別ですね。聴き入ってしまいます。(むろん、プロの方もいらっしゃったのですが)

知人のHさんは、グループ【グリューン・コール】で唄われていました。有名グループです。指導なさっておられる冨田操先生は、学校の教師時代は、その指導力抜群で、いつも、どこの学校に転勤されても、県代表になられるような方でしたから、その熱心さ、厳しさも有名でした。そうしたグループで頑張っていらっしゃる皆さんですから、その歌声も立派なもの。感動しました。

また、上田収穂先生ご指導の【徳島少年少女合唱団】は、世界をまたに活躍しておられる素晴らしい合唱団。子ども等の、宗教音楽等を歌う歌声は、澄み切った鈴の音、せせらぎのような清らかな発声に、魅了されました。ここまで磨きあげられるものかと、感心いたします。

全身全霊を打ち込んで演じている方たちを見て、私たちが感動するのは、当然のことですが、このトシがきても、感動出来ることを嬉しく思いました。ちなみに上田先生とは、私同級生です。雲の上のような方で、音楽にはめっぽう熱心な方でした。同窓会も、お忙しくてなかなかご出席いただけませんが、それでも、時々お顔をみせてくださいます。(^^)こうした方を見ていますと、私たちはとても元気づけられます。

今、何かと心を狂わせ、狂気に走る人たちが目につきます。音楽で病を癒す療法もありますが、自然を愛し、美しい絵や音楽を聴くという生活から遠くなった人たちが増えてきたのでしょうか。やはり豊かな人生を送るには、自然や芸術は欠かせないもののようです。

2016年10月9日日曜日

№1090 笑う


  笑いの効用は、よく言われている。可笑しいこともないのに、笑うことは難しいが、笑っていると、気持ちが幸せになってくるとも。笑うことはなかなかできなくても、笑顔は出来そうだと心して歩いてみると、その作り笑顔も、いつのまにか消えている。

今朝は、ひとりで笑うことがあった。そしたら、とても気分がよかった。やはり、声を出して笑うことは、いいことなんだ。(笑)

NHKTVがこんなことを放送していた。【紅白歌合戦当日の観覧者を募集しています。現在受信料をお支払い頂いている方に限ります】と。聴いたとたん、声を出して「はっはつは」と笑ってしまった。何が可笑しかったかと、聞かれても、その気持ちはちょっと言いにくいのだが、面白かったのだ。色々な場面が想像された。NHKとしては、「受信料も払わずにNHK観てる人など、入れないぞ」の気持ちは、よく分かるし、払っていない人にとっては、「べつに会場まで行かなくても、TVの方が面白いや」「ああ、こんなときは、当然やろな」などなどだろうし……。

私は、「ふふふっ。この調子で、『視聴料払ってない方は、この番組は見ないでください。すぐにスイッチを切り替えてください』と、画面に出たらどうだろう」なんて想像してしまったり……。

落語、漫才は、聞いている人の笑いがとれなければ、商売にはならないのだが、TVでのお笑い番組は、たまに耳にすることがあっても、何となく落語や漫才のようには笑えない。喧しいと思いはじめてしまう。落語は、立派な芸と認められていて、【人間国宝】という方も出てくるが、漫才は、まだその域にはたっしていないようだ。

ま、せめて道を歩いても、仏頂面よりも、笑顔や微笑みが自然に出てくるような人柄になれたらいいなあ。無理だけど。(^^

 

 

2016年10月5日水曜日

 №1089 好かれる老人


  先日の研修会の一つに講演があった。『輝くシニアの生き方』という題。もうこのトシになると、一応は、聞き知っていることばかりなのだが、実践となると、出来ているものばかりではない。
  例えば【好かれて老いるためには】では、①感謝の心(まあまあ) ②いつも笑顔(愛想はよくない) ③否定語を避ける(自覚せずに使っているかも) ④陰口を言わない(憎めない陰口を聞くのは楽しいなあ。ふふふっ) ⑤進んで挨拶を交わす(まあまあかな。小学生に合うと、おはようさん、おかえり、とか言うのだが、返事がないことが多いなあ) ⑥名前と顔を憶える(まったく不得手) ⑦約束と責任を果たす(これはまだきっちりと果たしているつもり) ⑧嘘をつかない(嘘も方便のときが、よくあるんだけど……) ⑨上からの目線で見ない(教員の癖で、見ているかもしれんなあ) ⑩自分の価値観を押し付けない(押し付けてないけど、○○したのがいいのとちがう?なんて言うのは、よくある。押し付けかしら?) ⑪相手の長所を見てあげる(これは心掛けています) ⑫優しいコトバをかけてあげる(わりかし、かけていると思っているのだが……。「わりかし付ければバカでも利口」なんてこともあるんだけど……)

 といった具合で、なかなか難しい。嫌われる老人には、なりたくないなあ。

 

№1088 暫く日記

  今日は(104日)、忙しい一日でした。前日に引き続いて、研修会があった上に、夜は、劇塾での稽古。10時過ぎに帰ってきてから、雑務をしていたら、こんな時間となりました。ブログは、ご無沙汰になっているので、これから暫くは、生きていることだけでも、お知らせしておきます。(笑)

2016年9月29日木曜日

№1087 一件落


 今年の大きな仕事の一つ、文藝協会の機関誌「あいずみ文藝」11号の発送作業が終わった。昨日は役員が集まり、その作業を手分けでし、今日は、会長さんや会計さんと印刷所に行って、支払いと、発送を終えた。

それまでの準備がかなり忙しかったので、少々草臥れたので、事務局も、いつまで出来るかと思うのだが、一方、他の役員さんは、それぞれお忙しく活躍されている方たちばかりなので、ま、出来るうちは……という気持ちもある。近いうちに、「もう引退してもいいですよ」と、やんわりと、首になるやもしれないのだが。(笑)

 こうした文藝に関わっていると、会員の高齢化ということが気になる。特に俳句などをされている方たちは、高齢の方が多い。昨年まで何とか作品を出していたが、今年はもう作れないとおっしゃる方が、毎年何人かいらっしゃる。俳句にかぎらず、書く能力というのは、ふつう年齢とともに落ちて行くのが当たり前なのだが、それをくい止めるには、やはり、書き続ける、作り続けることが大切なのだ。そういう点では、結社に入られている方は、作品を出さねばならないし、吟行などもあり、いつも俳句のことを考えたり、勉強会をされている関係で、作品は出して頂ける。そうしていても、感覚その他が鈍ってくるので、そうしたマイナスをプラスに変えるのは難しいのだが、一面、トシとともに味わいが深くなるようなものが出来る。どちらにしても、続けることの大切さを痛感する。

 

2016年9月23日金曜日

№1085 秋分の日


  お彼岸の今日は、夫の命日と重なりました。21年前の今日、夫は、あっけなく心筋梗塞という思いもかけぬ病であの世に着地してしまいました。当時は、まるで悪夢をみているようで、断片的な場面は思い出せても、通夜の様子などは、まったくと言っていいほど、思いだせない。それほど夢のような出来ごとだったのでしょう

でも、21年も過ぎると、当時の悲しみよりも、私も夫のように、寝込むこともなく逝きたいという思いが強くなっています。

 亡くなって一年近くは、心身ともに疲れ果てたような気分でした。事実、足腰はガタがくるし、眼はしょぼしょぼするし、睡眠は思うようにとれず、朝起きても霞んだような頭で、何かが抜け落ちたような気分でした。何をしても、心底楽しめないしんどさ、家族に心配させぬために、表面は元気そうに振舞うのも、またストレスになるのです。「そんなことではダメやないか。好きな随筆でも書け。わしのことでも書いてみいや」こんな夫の声は、大分前から聞こえる?のですが、その気にもなれませんでした。同じ庭に住む息子夫婦と孫二人に支えられてふんばっていたものです。

でも、ここらでジャンプしなければと決意しました。夫の要望にこたえようと思い、一周忌は夫の新しい誕生日、そのお祝いに墓前に捧げる文集を作ることにしました。

 生前に書いたものも含め、100ページほどの小冊子ですが、在りし日の夫のことを、正直に書いたのです。あれも褒め、これも褒めでは、うそになります。夫を知る方たちにも、読んで笑っていただけるものと思い書きあげました。

 ふと思いたって、今日、その小冊子を手に、くすりと笑いながら読み返したものですから、こんなことを書いてしまいました。あ、日付けが変わりそうだ……。

 

2016年9月19日月曜日

№1084 台風16号


大型台風が、徳島県にも、近づいてくるようです。私の家の西の窓のそばに、大木の辛夷がありましたが、23年前の台風で、太い幹が割れて、倒れました。半分以下になってしまった幹に、今年も葉っぱは青々と茂ってはおりますが、もう根が腐っているものですら、台風のたびに、倒れはせぬかと心配です。倒れても、家にぶつからぬほどに、丈を切ってはありますが、枝も伸びたので、あてにはなりません。

どうか、もっと東に向いて海上を暴れてほしいものです。

徳島県は、今年は、台風の被害はあまり受けてはおりませんが、何度も大雨、暴風に遭っている地方の方々、ほんとに大変ですね。山崩れや洪水などの被害のないことを祈るばかりです。

 

2016年9月17日土曜日

№1083 流行り病


  今、麻疹が流行っているらしい。日本では、麻疹など、死語に近かったのだが……。

今から80年も前のことだが、私の記億では、麻疹は、100%ちかくの者が罹った。罹ってない子は、麻疹の子の家に連れて行かれて、わざわざ感染させていたものだ。子どものうちに、罹っておくのがいい、ということだったようだ。

私は、幼いころはひ弱な子だったので、麻疹も水疱瘡も、おたふく風邪(耳下腺炎)も、幼稚園や小学校で感染している。どこで感染したのか、B型肝炎も陽性だ。多分、ワクチンの注射針の使い回しによる感染だろう。今のところ、まだ肝炎は暴れていないので、何の処置もしていない。もう、80歳頃から、お医者さんとは、ご縁が薄くなっている。激痛などの我慢はできないが、それ以外は、お医者には行かない主義なので、風邪も腹痛も膝痛も腰痛もほったらかしにしているので、病魔に侵されつつあるかもしれない。が、何とかトシ相応のことは出来ているので、心配はないと思っている。もういつ倒れても仕方がないが、だれでも自然治癒力というのがあるはずなので、それを信じている。トシとともに、弱って行くのは当然なので、食生活や、ちょっとした運動などは、出来ることはしながら、健康維持には勤めている。

正直なところ、お国のことを考えてみると、老人が長生きするほど、若者たちの負担は増えて行くことになる。元気なうちはいいが、医療費をどんどん使うようになれば、大変だ。少しでもお国のためになるような、逝き方をしたいと思っている。(笑)

2016年9月11日日曜日

№1082 障碍者


  パラリンピックが、盛んに放送されている。世の中も変わって来たということだろう。昔のことになるが、徳島で国体が開かれたことがあった。毎日、テレビでその様子が放映されていた。しかし、引き続き、障碍者の国体が行われたのに、テレビでは、ニュースでも何の放送もしなかった。

私は、教員生活のほとんどと言っていいくらい、障碍者教育にのめりこんでいた。苦労もあったが、やりがいもあったのだ。そんなこともあって、国体のことは、おかしいと思って、家に帰ってきた夫に言ったところ、気が短いものだから、突然受話器を取って、徳島放送局員に理由を聴いた。すると、「上からの指示がなかったから」という答え。益々怒った夫は、話にならんと、東京のNHKを呼び出して、【障碍者を差別するにもほどがある】と怒りまくったのだ。

今は、やっと世間では、障碍者にたいして、【障碍者は、何ら健常者と変わることのない人格と心で真剣に生きている人間である】ことが理解されはじめたようで、嬉しいことだ。

でも、まだ私からみると、差別は残っていて、不自由をされている。せめて私たちの手で、それを補うことが出来るのであれば、どうか差し伸べていただきたいものである。
 そして、一番大切なことは、私たちの心の中の問題である。いくら障碍の呼び名を変えても、心の中が変わらなければ、上っ面だけのことで、差別はなくならないだろう。 

 

2016年9月6日火曜日

№1081 続異常気象


  先日、このブログで、【異状気象】を書いた翌々日の日曜日、NHKスペシャル【巨大危機・異常気象との闘い】という番組を放送した。録画をしてあったので、先ほど観たのだが、もう怖くて、この地球の近い将来は、どうなるのかと、子や孫のことを考えると、鳥肌のたつような思いになった。私の想像していたようなものではない怖いものだ。

 地球温暖化が、異常気象を産みだしているのだが、それは、私たち人間が起しているものだけではなくなっているのだ。いままでに放置してきた結果だろうが、もう、北極圏では、凍土が融け始めている。海水温が高くなっているものだから、凍土が融けるのだが、その凍土の中に含まれているメタンガスが噴出していて、それが温暖化を加速させているというのだ。どれほどのメタンが放出されているのか、まだ調査中らしいが、その量によっては、一気に温暖化が加速するらしい。

私たちの住む日本は、温暖化によって、どのような影響を受けるかというと、海水の温度が高くなると、水蒸気が多くなる。多ければ多いほど、台風が発達する。台風の起こる地点が北上している。そして台風の進路は、日本近海の気温の高くなっているそこを通過する。日本では2年ほど前から、気温は急速に上昇しているという。その結果のように、今年は異常気象に見舞われているというのだ。大量の雲が発生して、雷や豪雨、台風、洪水といったものが更にひどくなるかもしれない。このままならいいが、これは、序の口で、最悪の場合は、東京で45℃というような猛暑になることも想定出来るなど、きもに命じておかねばなせない、という。

今年のような、また今年以上のものが、これから毎年あるとすれば、一体どうなるのか、北極の凍土がどんどん溶けだし、海水の温度が何度も挙がってきたら……等考えると、それまでに死んでいく人間はいいけれど、子や孫たちは、どんな目にあうか、など考えていたら、今、そうした問題解決と闘っている方たちに、どうか早く解決できますようにと、祈る他ない。

2016年9月2日金曜日

№1080 異状気象


  いつもの年より、暑い夏だった。トシのせいかと思うのだが、若い方たちも、そう言っているので、トシのせいだけでもなさそうだ。

 先日、北海道の豪雨が気になって、友達に電話をした。

『もう大変よ。昔は、北海道には、梅雨もなかったし、台風もこなかったのにねえ』と。私も、13歳まで帯広に住んでいたのだが、冬の吹雪は体験しているが、台風の記億も、梅雨の記億もない。

「台風なんて、慣れていないものねえ。気をつけてね。ま、冬は、昔よりずっと温かいでしょうけど……」と、慰めるしかない。

こうした異状ともいえる気候が、今年だけではなく、毎年続くとしたら、地球はどうなっていくのだろう。孫子の将来野心配までしてしまう昨今である。

 

 

2016年8月28日日曜日

№1079  旅


  旅することが好きなのだが、中々出来ないこの頃は、TVの旅番組を録画しておいて観ることがある。ほとんどが自然の美しい所が多い。

以前、車で北海道や九州を走っているので、立ち寄ったことのあるところも多いのだが、もう殆ど忘れているし、憶えていても、かなりの様変わりしているところが多い。それでも、見覚えのあるところもあって懐かしい。

白川郷の民宿に泊まったのは、七月の、かなり厳しい日差しの頃だった。合掌造りの屋根も、心なしか、日の陰りを待つ風情だった。立ち寄った土産物屋のお爺さんに、「民宿に泊りたいので、どこかありませんか」と尋ねると、教えてくださったのが、とても素朴な宿を教えてくださった。通された部屋には、クーラーも、扇風機も無かったけれど、外気とは、比べものにならない程の涼しさだった。

泊り客は、数人で、囲炉裏のある部屋で、食事をし、団らんしたのを憶えている。当時、私の通った国道は、険しい山道のガタガタ道で、砂埃でよごれた車で乗り入れたのが、ちょっと恥ずかしかったのだが、今はそんな国道ではないだろう。そんな宿が、テレビで写ったので、おっ!と巻き返して観てしまった。

あまり詳しく書いてあるわけではないが、写真とともに、ちょっとした記録をしてあるので、それも引っ張り出してみてみたいと思った。旅の思い出は、旅を再びしたような思いになったりして、なかなかいいものだ。

2016年8月26日金曜日

№1078 残暑


  八月も下旬になると、朝夕はかなり涼しくなるのがいつもの年なのだが、今年は、夜もまだ真夏日が続いている。一向に涼しくならないものだから、何となくしんどい日が続いている。日中は、絶え間なくエアコンを付けた部屋だし、夜も高目とはいえ、エアコンの付けっ放しだ。身体も、たまらないだろう。たぶん、身体の一部は、冷え過ぎているだろう。

 そうは言いながらも、食欲は変わらないので、痩せも太りもしまいまま、秋を迎えることになりそうだ。

 この夏は、腰が何とか少しよくなったので、草取りが一応残すところなく、見えないところまで出来たのが上出来だった。ま、朝夕の草取りの疲れが昼間のしんどさを増していたのかもしれないが……。

 先日、猛暑の中、友人の葬儀に参列した。90歳だった。半月ほど前、電話がかかってきて、『施設に入っとるけど、とくに悪い所もないし、頭もしっかりしてるから、私は100ぐらいまで生きられると思うわ』と笑っていた。急に肺炎になって亡くなられたらしい。長患いせずに旅立つことが出来たのは思い通りだったろうが、「おめでとう」とは言えない。ただ、寂しいという思いはあるが、悲しみは、もう卒業してしまった。手を合わせながら、「後から参りますからね。いい所で待っててね」と。

最後の着地が、どうなるのか、自分では想像できないが、長生きできたら、案外簡単に着地できるような気がする。≪元気で長生きしてぽっくり≫と逝きたいものだ。

 

2016年8月19日金曜日

№1077 草抜き


   最近、腰の調子がかなりよくなっているので、草抜きが出来るようになった。風呂の古椅子に腰かけて抜くのだが、以前は、とても無理だった。お盆までには、誰か雇ってでも庭の見える所だけは草抜きをしなければと思っていたのだが、ふと最近、腰痛体操のせいか、腰の調子が良いことを思い出してやってみたところ、1時間から2時間ほどだが、何とか出来るようになっている。

腰痛体操は、TVのあさいちで、徳島医大の整形の先生が指導していたもので、足を肩幅くらい開き、屈んで両手で足首の後ろを掴み、お尻を持ち上げる。そのとき、太ももと胸がくっつくようにして、膝を伸びるところまで伸ばす。頭は、両膝の中に入れるようにする。そして10秒間で元に戻してこれを5回する。このセットを朝と夜する。(1日10回)
こうすることで、腰を支えている筋肉が強くなるらしい。はじめは、なかなか痛くて膝が伸びにくいが、なれてくると、膝がだんだんと伸びてくる。くれぐれも、太ももと、胸が離れないようにする。

これを私は、2か月以上続けている。その効果があらわれてきたと思うのだ。草取りは朝夕の涼しい時にしていたので、かなり庭の草取りが出来、さっぱりしている。綺麗になっていくのは、とても気持ちがいいので、イヤイヤではなく、楽しんで草取りが出来るから、続けられるのだと思う。今は、まったく見えないところの草取りの最中だ。≪雑草園≫の看板は、掲げなくてもよさそうだ。

2016年8月15日月曜日

№1076 忘れてはいない終戦記念日


  今、70年余りの歳月を巻返しながら、やはりかなりなものだと、あらためて感心している。でも、忘れてはいない。

 もし、「今までの人生の中から十枚のスライドを」といわれたら、私は間違いなく終戦の日の一枚を入れるだろう。私にとって終戦は、強烈なショックだった。

しかし具体的なことは、かなりの部分が剥げ落ちており、はっきりとしないのだ。だが、いかにぼかしのスライドになろうとも、何とも名状しがたい感慨が心中渦巻いており、私の中の貴重な一枚であることには変わりない。

 ……その時私は女学校三年生。815日といえば当然夏休みのはずだが、そんな悠長なものは返上して、松根掘りや芋畑と化した運動場で、唐鍬をふるう毎日だったように記憶している。たしかその日は、「重大放送を家で聞くように」と、早ばやと帰された。

 家に着くと、緊張した耳に、ガーガーというラジオの雑音が入った。古ぼけたそのラジオは、それに似合った整理箪笥の上に載っていた。その前には、家族以外にも、二、三人はいたような気がするのだが確かではない。

 よくは聞きとれなかったが、戦争に負けた、戦争が終わった、ということは理解出来た。

 みんな、「死なずにすんだんだ……」心中そう思っていたのはたしかなのだが、誰一人喜びを表すことはしなかった。かなりの時間、大人たちは泣いていたような記憶がある。みんな、大声では泣かなかったが、我慢している分、鼻がやたらにぐすぐすと音をたてていた。(今日までの、多くの兵隊さんたちの死は、犬死じゃないか!我々も、何のために鍋釜まで出して頑張ったのか!)という悔しさが、みんなの頭の中で渦巻いていたのだろう。

 私も涙がわいて止まらなかった。思えば小学一年生のときに支那事変勃発、物心ついてからは戦争戦争である。「最後の一人になるまで戦う」ことを、信じて疑わなかった筋金入りの「軍国少女」であるから、眼の底が洪水になるのも無理ないことである。

 今から思うと、十五才にも満たない子どもが、「討ちてし止まむ勝つまでは」などと口走り、お国のために死ぬ覚悟が出来ていたというのだから、恐いといえばこんな恐いことはあるまい。教育次第では、骨の色まで変えられる、ということかもしれない。

 しかし、ひと月もたつと、自分たちにも、平和と自由があたえられたことを、じんわりと感じはじめたのを覚えている。それまでは外来語のようでもあり、惨めったらしくもありで、使えなかった「敗戦」ということばにも馴染めだした。

 戦後の衣食住の苦労は、戦中よりひどいものだったけれど、平和という安心のチケットを握っていたためか、気持ちの中はカラッとしたものがあった。

 こうした戦中・戦後の強烈な体験は、私の性格形成に何らかの関わりがあったと思っている。「死を覚悟」などと大げさなことをいったが、それは建前であって、本心は正直いって、「本土決戦で玉砕」など、恐くて恐くてたまらなかった。戦場に狩りだされる男性を見送りながら、(オンナでよかった……)と思ったものだし、そのうち神風のようなもので、敵は全滅、日本は勝つにちがいない、と信じて疑わなかった。そう思うことで、恐怖から逃げていたのだろう。だから私にとって敗戦は、神風だったといっていい。

 私はいつの頃からか、逃げの姿勢で物事に対してきたようである。困ったこと、心配ごとに出くわすと、すぐ楽天という大風呂敷を広げて包み込んでしまう。そんな大風呂敷を背負って逃げるスタイルは何かに似ているが、私の「小心で神経質」という本来の性格をなだめすかしてきたのがこの姿勢である。「今に神風が……」の残党のようでもあり、ウイルス菌のようでもあり、どうも一生付き合う羽目になりそうだ。