2013年9月30日月曜日

恩師 その1


旅の話が長くなっているが、続きを書いておこう。

昨日は、子どものころ家族で遊んだ十勝川温泉郷の雨宮温泉で車から降ろしていただいて泊った。まだ、ホテルもタクシーも、エアコンは付けていなかったので、ちょっと暑くて寝苦しかったが、朝方は、ひんやりとしている。

大きな目的である、恩師の消息を調べるため、タクシーで、小学校に向かう。校舎は、新しく鉄筋に建て替えられている。

夏休みのため、職員室には、教頭先生がお一人いらっしゃった。
あれっ? 机の上のお名前は昔、近所にすんでいたKちゃんだ。お尋ねすると、そうだとのこと。残念ながら、私のことは憶えていないらしく、「そうですか」のご返事。ああ残念。

12年と担任してくださったA先生と、5,6年の時のN先生おふたりは、ご健在で、A先生は札幌に、N先生は、市内に住んでおられることがわかった。嬉しかった。特にお二人の先生には、2年間もお世話になっていて、思い出もたくさんあって、特にお会いしたかったのだ。

帰りは、通学路であった道を踏みしめながら、予約してあったホテルに向かい、さっそく、N先生に電話をした。昔と変わらぬ先生のお声が私の耳にとびこんできた。あの嬉しさは、ちょっとことばでは言い表せそうにない。私のことをよくおぼえていてくださったのは、ほんとに嬉しく、有難かった。

先生は、まるで小学生の私に言い聞かすように、家までの道順を教えてくださり、すぐに昼食はせずに、11時のバスに乗るように、とのこと。多分、先生の頭に中には、おかっぱの私が浮かんでいらしたに違いない。その瞬間から私も、小学生気分になってしまった。

教わった通り、バスに乗って前方をみていると、やがて見覚えのある先生のお顔が、フロントガラス越しに目にはいった。

バスを降りてご挨拶を言い始めると、先生は、にこにこしながらも、そんなことより、早く家に、と言わぬばかりに、すたこら歩きだす。ちょっと背を丸めて、手を勢いよく後ろに大きく振って歩く動作が、何とも懐かしいこと。昔とちっとも変らぬ先生。お家には奥様が、お昼の準備をして、待っていてくださった。

退職後の先生は、数学の専門家らしく、研究のかたわら、覆面算とか、虫食い算とかルービックの面の模様作りとかいうパズルにも凝られて、実に楽しい毎日を過ごされて、旅行に行く間が無いとか。

私の目の前で、キューピックをくるくるして、またたく間に色々な模様をつくられて、私を驚かせてくれた。

先生の思い出といえば、何人かで、先生のお宅に押し掛けて、泊ったこと、授業中、よく笑わせてくれたこと、毎日帰り際に、続きものの創作童話を話してくださったこと、毎日違うネクタイを締めてくるので、ネクタイは何本もってるのかと、皆が話していたことなどなど。そんな話をすると、先生は、目を細めて「そんなことあったか?」と笑っていらっしゃった。

奥様とおふたりで、ぜひ徳島にいらしてくださいとお願いして、夕闇せまる頃、お別れしてバスに乗った。

長い間思っていたことが、実現した喜びは、ほっとするというか、肩の荷を下ろしたというか、何とも言いつくせぬものがあった。もう一度、お元気なうちに、お尋ねしたいと思った。

2013年9月29日日曜日

梅子おばちゃんたちと


帯広の二日目は、梅子おばさんの計らいで、キミちゃんの夫さんの車で、観光に出かけた。ぬかびら湖、然別湖と、大雪山国立公園をまわってくださった。山道は、鬱蒼たる針葉樹に覆われていた。扇が原は、扇をひろげたように、十勝平野の展望が開け、いかにも北海道的な雄大な展望である。

キミちゃんとの話はつきなかった。幼いころの思い出が、次々と思い出されるのだ。

また、梅子おばさんは、今は亡きご主人と派手な喧嘩をしては、私の家に逃げ込んできたことなどを、面白おかしく話してくれるのだ。「主人が探しに来たら、いそいで台所の床板めくって、ムロ(野菜の貯蔵庫)に入ってさ。懲らしめのために二日くらい帰ってやらなかったわ」と。そんなこと、何回かあったなあと、私も記憶の糸を手繰り寄せる。今でいう家庭内暴力のようなじめじめしたものではないのだが、昔の亭主は、とかく威張っていた。
でも梅子おばさんは、負けてはいなかったので、派手になってしまうのだ。

「あの世でおっちゃんはどなにしてるかしら」と言うと、「はよ来いって言ってるけど行かないの。せいぜい待たしておくわ。そのうち、いい人できるだろから、それから行くことにしてる」
と笑う。両親の夫婦喧嘩など、見たことなかった私は、キミちゃんくの両親の言動が、子ども心にとても珍しく思ったものだ。

おっちゃんに、いい人できたのか、梅子さんは、90歳過ぎて旅立った。

2013年9月28日土曜日

帯広


昨夜、狩勝峠を書いた後、お風呂に入りながら、気になることがあった。記憶があいまいなところがあったものだから、古い写真やら、旅行の記録などをみてみたのだが、やはり間違っていた。分かっていたのは、近所で親しくしていたKさんのことだけ。小学校の恩師や同級生だった親友のことは、全く分からぬままに行っている。訂正がしたかったのは、尻切れトンボの続きを書きたかったものだから、ちょっと訂正させていただいた次第。

 
狩勝峠からの壮大な景色が見られなかったのは、とても残念なことだったが、目的は他にもたくさんあった。親しくしていた近所の梅子おばさんや、Yさん宅を訪問すること、まだご健在と思われる恩師N先生とA先生の消息を調べ、是非お会いすること。親友だった同級生のMちゃんとYちゃんの消息などなどである。

汽車は、そんな私の願いを載せて、やっと夕闇せまる帯広駅に到着した。胸がいっぱいになって、昔と同じような古びたホームに立つと、泣けてしまった。【お帰りなさい】と、言ってくれたような気分になっていた。

駅のグランドホテルを予約してあったが、荷物を持ったまま、我が家のあった方面に歩きだしていた。駅からは近い。

5分ほどで着いた。大通り11丁目18番地。我が家とその両隣りは、跡かたも無く、3階建のビルになっていた。その5軒ほど先に、梅子さん宅の酒屋の看板が見える。我が家の斜め向かいには、Yさん宅の昔と同じ馬具商店の看板が。

子どもの頃は、道幅の広い大通りなので、お向かいの家は、ひどく離れていたように思ったし、歩道も広くて、どんな遊びも出来たものだから、あらためて見て、「あれっ?もっと道幅が広かったように思うが……」なんて、子ども目線と大人目線の違いを感じたりする。

浦島太郎のようでもあり、思った通りの風景でもあり、複雑な気持ちのまま、そのあたりを一巡してホテルに入った。

ホテルから、Kさん宅に電話をして、梅子おばさんを驚かした。おばさんは、電話口で泣いて喜んでくださった。母と同じトシだが、お元気そうでなによりだった。

梅子さんは、母と親友である。母の両親は、結婚して徳島から帯広に出てきて、帯広で母を産んでいる。梅子さんとは、女学校時代からの親友で、偶然、母の家の近くに嫁入りしてきたのだ。住所が変わっていないので、手紙のやりとりは続いていた。梅子さんの子であるK子ちゃんは、妹の同級生で、私たちの幼馴染なのだ。私の実家に遊びにきたこともある。

明日おじゃますることを約束して、やっと落ち着いた。

 

2013年9月27日金曜日

狩勝峠


こころ旅とかいうTVに北海道の風景が写った。故郷というものは、こんなときに大きく心に広がったり、灯を点したりするものだ。しばらくそんな思いに浸っていた。

忘れもしない昭和18年の7月、私たち一家は、故郷帯広をあとにした。一家をあげての転居だった。
13歳の女学生でありながら、今思うと、なにかにつけて晩熟で、少女というよりも子どもだった。同級生の中には、すでに大人のような子もいたのだが……。

四国徳島への引っ越しが、今後どういうことになるのか、深くは考えられなかった。父や祖母たちは、生まれ故郷に帰るという嬉しさがあるものだから、その余波を受けてか、私までも浮き立っていたのだ。

そんなとき、私たちを載せた汽車が後にも、もくもくと煙を吐く機関車を連結して、力ずくで狩勝峠にさしかかると、得も言われぬ壮大な風景が輝いていたのだ。「よく見ておけよ。これが十勝平野だ。もうしばらくは見ることはないからな」父のことばにはっとした。まるで隣町に引っ越すような気分だった私は、ガーンと叩かれたようなショックを受けたのだ。

車窓から身を乗り出して見た狩勝峠からの展望は、広大な十勝平野を一望でき、その視界の広さと美しさは、見事なものだった。ここからの風景は、日本新八景のひとつに選ばれていたのだ。

当時そんなことは知らなかったが、自分の生まれ育った十勝平野が、こんなにも大きくて美しかったことにひどく感動し、急にポンプでおしあげられるような淋しさが胸を一杯にしてしまった。

そして再び見に来ることを心に誓ったのだった。この時の十勝平野は、一枚の絵となって、私の脳裏に焼き付いてしまった。

当時の徳島と四国は、随分と遠かった。何日もかかって旅をしなければ行き着かぬところなのだ。おいそれと行き来できる距離ではなかった。

戦中は無論、戦後の生活では、旅行などとてもできる身分ではなかった。教師になり、結婚もしたとなると、ますます故郷は遠くなってしまった。親戚の1軒もない故郷だが、やっと探し当てた小学校の親友と、小学校の恩師。文通をしながらも、懐かしさは、反対にどんどんと膨れていく。

やっと北海道に足を延ばしたのは、30年以上もたった夏休みだった。でもその時は、汽車は狩勝峠には上らなかった。夢にまでみた風景はなかったのだ。トンネルばかりが、やたら多くなっていた。うかつにも、そんな変わりようは知らなかった。
バスでくるべきだったと後悔したが遅かった。

その時思った。次は、自分の車を運転してこよう……と。

2013年9月26日木曜日

生活のあれこれ


忙しく身体を動かした日は、寝付きがよく、横になって本を読むことも無く、電気を消すことが多い。たいてい日が変わってから、眠たくてしかたなくなって床に入るので、何を考える間もなく寝てしまう。

しかし、そんな日ばかりではない。昨夜は、気が付いたら1時近かったので、慌てて床に入ったのだが、なかなか寝付けず、3時くらいまで眠られなかった。

それでも、6時半には目が覚めた。何となく熟睡していないような頭の状態で、しんどいのだが、生活のリズムがあるので起きてしまう。あまり昼寝をしないので、「今夜、早く寝よう」と思っていたのだが、今頃、ブログを書いているので、今夜も早くは寝られそうにない。

仕方ないことだが、何をしても仕事が遅くなっている。炊事にしても、以前は、炊事をしながらほかのことが出来たが、今は出来ない。そんなことしていたら、すぐに煮物していることを忘れて黒焦げにしてしまう。台所に貼り付いて、料理に専念している。

こんなこと言うと、どんなご馳走をつくっているのかと思われそうだが、カボチャを炊いたり、蓮根炊いたり、漬物つくったり、卵焼いたりで、何の変哲もない。若い人たちの料理のように、油使うことも少なく、田舎のおふくろの味ばかりだ。本心を言うと、そんなに手間暇かけたご馳走を食べたいとも思わないのだ。独り暮らしの炊事というのは、喜んでくれる相手がいないので、そうなっていくのかもしれない。しかも、作ること事態がたいそうにもなってくる。
でも、炊事に頭つかったり、手を使うことは、できるだけしたのがよいと思っているので、今のところ、宅配弁当を届けてもらう気にはならない。

この頃のことなので、惣菜は、どこのマーケットにも、山のように売っている。面倒な時や、時間の無い時は、十分間に合うのだ。

私か独り暮らしになったとき、優しい嫁は、「夜だけでも一緒に食事をしましょう」と言ってくれたし、しばらくそうしていたのだが、「こんなことしていたらいかん」と思って、自分ですることにした。

嫁の負担も増えるし、お互い気も使う。出来る間は、自分のことは自分で、ということにしたのだ。

思うに、料理、洗濯、掃除といった日常生活の営みは、自立している老人は、人まかせにしてはいけないのだ。ボケないためにも、けっこう役に立つ。こうした生活の営みを、毎日やっているので、何とか元気なのかもしれない。

2013年9月25日水曜日

集まり


小さな家に住んでいる。部屋は洋間2間しかない。だだっ広い居間(26畳)と寝室兼収納部屋(14畳くらい)の2部屋しかない。設計のときに、広々とした空間に住めるのがいいということで、息子が設計した。使い便利はとてもよいのだが、畳は一枚も敷いてない。パソコンは、居間の隅に持ちこんだので、居間に居ることが多い。居間が広いので、10人前後の会なら出来るということで、色々な会を開く。
昨日も、午前中に、文芸協会の役員さんの会があった。

ミニ同窓会であったり、仲良し会であったり、よくするのだが、汚い庭だが、車も置けるし、静かだし、家主一人という気易さもあって、「ここへ集まると、ほっとする」なんて言ってくださるのだ。

 
ミニ同窓会も、学生時代、特に親しくしていたわけではないのだが、10人ほどが退職後、場所を変えたりしながら、食事会やおしゃべり会をしているのだ。最初は、同じ勤務先になった3人の会だつたのが、いつの間にか10人に増えて行った。踊ったり、歌ったりの芸達者もいて、楽しませてくれる。

 
トシを取ると、出無精になる人がいて、だんだんと、ふけこんでいく、という現実を考えると、同級生でなくても、友達であったり、近所であったり、集まることはいいことだと思う。

女学校の同窓生にも、声をかけた。集まれる範囲の方たちが、10名ほど集まっていたのだが、2年ほどで今は、半分になってしまった。もう、遠方(といっても、車なら20分ほどだが)動けない、とか、体調が悪くて施設に入ったとかで集まれないのだ。そういうトシになってきたのだなあと、寂しい思いがする。

 
田舎でもご近所付き合いが、昔よりも稀薄になってきた現代なのだが、これからは、遠方に出て行けなくなることを思うと、ご近所というのは、大切な絆と思う。少人数からでも、そうしたことがはじめられたらと思っているのだが……。

2013年9月24日火曜日

若者


以前、ある工場の前でうどん屋を営んでいたお爺ちゃんが、こんなことを言っていた。「まったく近頃の若い衆は何を考えとんかいな。安月給のくせに、ええ車に乗って、走り回りよるのに、ツケのうどん代が払えんのじゃ。ボーナスまで待ってくれなんて言う」

それを聞いて、若者らしいなあと思った。ピカピカに磨いたオートバイや車に乗って、得意になっている若者は、どこにでもいた。

しかし最近は、ちょっと違うらしい。モノを欲しがらぬ若者が増えているという。車も、「電車ですむ」と言って買おうと思わないのだそうだ。運転免許をとろうとしない若者もいるという。

ま、田舎の若者は、そうはいかないだろうが、都会なら必要性が無いということで、それですむのだろう。

 
考えてみると、それだけ現代の若者は、裕福ではないということでは?と思ったが、経済的にはまったく困っていない人達でも、いっ時のように、高級ブランド品には、見向きもしない人達が多くなったとか。車にしろ、ファッションにしろ、若者が消費を引っ張ってきた時代と、ちょっと違うかたちになってきたのだろう。

こうした若者を、「活力がなくなった」とか、「草食系」とか言うが、価値観が違ってきたという感じがする。

私のように、若い時から、ブランド品などに、興味もなく、また財力もなかった者は、そうした若者が、活力が無いとも思えないのだが……。

ともあれ、消費に対する価値観の変化をさぐりながら、若者に適応していき、若者を引き付けていく商売が、これからは大切なのだろうと思う。

2013年9月23日月曜日

秋分の日


暑い秋分の日です。昼間の会があって、2時間程出掛けていましたが、真夏のように暑く、汗をかいてしまいました。会場は、節電で、エアコンの温度がちょっと高かったのかもしれませんが、つくづくと温暖化という現象を、感じさせられます。
新聞などによりますと、この温暖化の責任は、人間が95%原因をつくっているとのことですから、私たちも反省しなければいけないことのようです。
このまま何の対策もせずにいきますと、今世紀末の気温は、何と4.8度も上昇して、海面は、81センチ高くなるということですから、陸地面積は、かなり狭くなりますし、人の住めるところも、限られてきそうです。私たちの文明のツケが、孫やひ孫の時代におよびます。どうなるのでしょう。C02濃度が低くおさえられるシナリオでは、最大1.7度の上昇におさえられるということですから、そのようにしていただかねば困ります。何となく対策が遅れているように思えてなりません。

これからの夏は、今年のように、いや、それ以上に異常気象になる可能性があるとのことですから、怖いことです。

2013年9月22日日曜日

命日


今日は、夫の命日だ。亡くなって18年になる。64歳のとき、まるで、暖簾でもくぐり抜けるようにあっけなく急逝した夫を、暫くは可哀想で仕方がなかったが、18年も過ぎると、私も夫のように着地したいと思うようになっている。

もう、私ほどのトシになると、殆どの方が、ぽっくりと逝きたいと思うようになる。夫のように、まだ60そこそこの者が、ぽっくり逝くと、残された者は諦めきれないし、さぞ、心残りだったろうと思って悲しみからなかなか抜け切れない。

夫の墓に参りながら、いつも思うことがある。「お天気がいいので、今頃こんなところにはいないだろうなあ」と。釣りキチだった夫なので、もう海に出ていると想像するのだ。【漁師になる】というのが夢だった。
退職後、県の仕事を頼まれてしていたので、まったくの自由の身ではなかったが、それでも暇をみつけては、海に出ていた。退職前から古い漁船を手に入れて、エンジンも交換し、自分でも修理しながら、気に入った船に仕上げていた。

夫の釣りは、釣りというよりは、漁というのがいいようだ。ま、竿で釣るのだが、漁師のようにたくさんは獲れないので、市場に卸すほどではない。それでも、あちこちの知人に配ったりしていたものだ。貰ったほうも、困ったのではないかと思うときもあった。(笑)

お蔭で、家族は新鮮な魚ばかりをいただいていた。その代わりといってはなんだが、食べながら、「美味しい美味しい」を何度も言わないと「どうだ?」という。しばらくすると、また「旨くないんか?」と言う。何度も「美味しいなあ」と言いながらいただいたものだ。(笑)

亡くなってしばらくは、マーケットの魚は、拙くて仕方なかった。それに、魚を食べていると、思い出して嗚咽がふきだしたりした。

歳月というものは、ありがたいもので、悲しみは無論のこと、ハラのたったことも、理由もなく叱られたことも、すべて忘れたり、赦せたり出来るものだ。

明日は秋分の日。お彼岸中に逝った者は、極楽もチケットなしで入れるらしい。夫も間違いなく、極楽で、楽しくやっていることだろう。

 

2013年9月21日土曜日

読書


昨日は、気が付いたら12時をまわっていたので、お休みでした。
何日か前に、昔いろいろとお世話になったK先生(お医者様)が、ご本(エッセー)を出版され、その本がとても面白く、早く読みあげて、感想とお礼の手紙を、と思って読み終わってから、すぐ書き始めたところ、暦が替わっていました。()

先生とは、住む世界が違うのは無論ですが、何といっても、教養と、頭の構造の違いが大きすぎて、私の知らないことがたくさん書かれてあって、興味しんしんでした。趣味の音楽も、もう玄人はだしですから、学ぶことが一杯です。

読書というのは、やはり幾つになっても大切なことなのに、最近は、忙しさにかまけてなかなか進みません。
もう10日近くも前から手元にある【孤愁】が読み上がりません。
新田次郎が書き始めたモラエスの伝記。その半ばで急死されました。その時、息子である藤原正彦が、父の無念を晴らすため、必ず将来、続きを書くと誓い、30年後の昨年の暮れに完成させて出版したものです。
ご存じの方も多いと思います。668ページという重たい本なので、寝ては読めません。(笑)しかし、書いた方の努力を思うと、読むくらいのことは、たいしたことではありません。そう思って読みかけたのですが、なかなか読めない。
昔から、随筆・エッセーが好きだった私は、トシをとってからは、小説を読むことは、あまりありませんでした。そういうわけか、小説は苦手なのです。でも、小説には小説の面白さがあります。特に、モラエスさんには、興味がありますし、数学者でありながら、いろいろなエッセーなどを出されている藤原正彦さんのフアンでもありますから、頑張って、早く読みあげたいものです。

2013年9月19日木曜日

お月見


締め切った部屋の中で仕事をしていたら、むし暑くなってきた。運悪く、昨日エアコンが壊れてしまったので、扇風機の風に当たっていたのだが、さっぱりしない。

そうだ、今夜は中秋の名月だと気が付いて外に出た。庭の真ん中あたりで東の空を見ると、丁度我が家の屋根の上に名月の名に恥じぬ月が笑っている。しばらく見とれているうちに、月と一緒に歩いてみたくなった。

私が行くところに月はついてくる。お隣の家の前まで行くと、月もお隣の屋根の上に来ている。(当たり前だが)月に向かっていくと、月は「ここまでおいで」とばかりに逃げていく。月を残して帰ると、また後ろから追ってくる。

こんな遊びをしながら、お月さんの歌をいろいろと思い出した。童謡、唱歌、歌謡曲、随分沢山の歌に歌われたものだ。昔から、月に思いを寄せる和歌も多い。

小さな声をだして、【荒城の月】を歌ってみた。歌詞は4番まであるが、2番までしか憶えていない。土井晩翠作詞、滝廉太郎作曲は、あまりにも有名だが、滝廉太郎はこの曲を創った翌年、23歳でこの世を去っている。後に、山田耕作が編曲したものが、今は歌われているようだが、滝廉太郎の曲と少しちがう。「春高楼の花の宴」の宴の『え』の音が、原曲は、半音高いし、長さも♪で半分の長さになっている。その点ちょっと歌いにくい感があるのだが、どちらを歌っても、間違いではないのだ。

滝廉太郎が心に描いて作曲したのは、子どもの頃、2年あまり住んでいたという、大分県竹田市の岡城跡だったので、竹田市の方たちは、原曲のほうを歌いつづけているという。
 
横道に逸れてしまったが、お月さんはやはり子どもの頃からの思いがつまっていて、月面着陸の映像のような、殺風景な月ではなく、兎がいたり、かぐや姫の故郷であったりの月がいい。そんなことを思いながらの月見でした。

 

 

2013年9月18日水曜日

諦める


諦めの悪い人がいます。「こんなはずじゃなかった」なんて、昔までさかのぼって愚痴をいうのですから、諦めの悪い方です。(笑)

私は自分ではあきらめがいいと思っているのですが、他人さんは、どう思っているか分からないので、近しい人に「私って、諦めがいいほうよね」と聞くと、「そうやな。過去のことでも、何でもあんまり愚痴ったことないなあ」と言ってくれました。
ま、モノによったら、諦めないほうが、立派なこともあるでしょう。オリンピックでメタル取るような方は、諦めたりはしなかったはず。偉い!と思います。

しかし一般の生活の中では、諦めなければならないことは、一杯あるのです。

昔、宝くじで100万円が最高額だった頃、お隣のおばさんが「まあうちの父ちゃんの諦めの悪いことったらありゃしない。毎日毎日外れた籤を眺めては、『ああ、あと3枚買っとけば100万円当たっていたのに』とそればっかり言うのよ」と言い、おばさんと母が笑っていたのを思い出します。これは私でもなかなか諦められそうにないですが、でも諦めざるを得ないのです。(笑)

何でも諦めたら解決することもたくさんあります。お隣同士、とても仲がよくない方がおられます。お互いが、ソッポをむいて、一生暮らすなんて、ほんとにイヤなことと思うのですが、その原因は、どちらか、あるいは両方が、意地の張り合いをしているのでしょう。「あの方は、そういう性格なんだから、こちらがその気で付き合えばいい」と諦めてしまえば、そんなに角を突き合わなくても暮らせそうです。

【思いようだ】ということがあります。お金を10万円落としても、【10万円ですんでよかった。自動車事故起こして人さまを傷つけていたら、10万円どころじゃない】と思ったら、にこにこして諦められます。

私は、よく【思いようだ】と思って諦めます。だから、諦めるのも早いのでしょうね。

 

2013年9月17日火曜日

Sさん


庭の草取りがどうしても出来ないので、Sさんにお願いして、していただいた。ひょんなことから、Sさんを知った。76歳という女の方だが、朝早くから、涼しいうちに、3時間ほどしてくださる。今日で4回目なので、12時間ほどで、私のして頂きたいと思っていたところがきれいになった。私なら50時間かけても出来なかっただろう。やっとお彼岸が迎えられる。(^^)

Sさんは、草取りが大好きとおっしゃる。小柄で、か細い身体だが、健康だとのこと。今は一人暮らしなので、時間があるから、いつでもきてくださると。これから、時々お願いして、少し小ざっぱりとした庭で住むことにしようと思う。

それにしても、私より若いとはいえ、76歳は高齢者だ。何となく気が引けるのだが、草取りの様子は、とても高齢者には見えない。休んでくださいと言っても、休まれない。

若い時から、真面目に働いてきたけれど、あまり経済的には恵まれず、働き通しだったという。長い間、お寺に雇われて、庭の草取りもしてきたけれど、草取りが好きなので、仕事が楽しかったとおっしゃる。深いお付き合いをしたわけではないのだが、Sさんの優しいお人柄が私には仏さまのように思えた。

世の中には、Sさんのような善人を騙したり、利用する人間もいるのだ。しかし、Sさんは、そうした人たちにも、いいところもあると言う。心底憎んではいない。

「気持ちの持ち方で、幸せを拾うことが出来る」というのは、Sさんのような方だとつくづく思った。

2013年9月16日月曜日

大変な敬老の日


荒れた一日でした。私の住むあたりは、たいした被害もなかったのですが、同じ町内では、避難しなければならない方もあったようです。多分、川の近くの方たちだと思いますが。

京都、滋賀、福井の特別警報地区の方、その他台風18号の風雨で被害に遭った方たちは、大変だったことでしょう。犠牲者の少ないことを祈っています。

今日は敬老の日。有難い日ですが、年寄りも、今日のような日こそ、自己反省する日にしたいと思っています。

自分でも分かることですが、色々なところに老化現象というものが現れてきます。身体だけではありません。気持ちや考え方にもあらわれてきます。やはり気持ちにも手入れということを怠ったらいけないと思うのです。

ま、私は今のところ、医者の薬を飲まなければいけない状態ではありませんが、色々と傷みはありますが、少々の傷みは、このトシなので、当然のことと思いますし、それを悔やむ気持ちもありません。

問題は、身体以外です。よく言われることに、【トシとともに、悪年寄りになる】ことだけは、気を付けなければと思うのです。身体が硬くなるように、心も硬くなりますと、ひがんで来たり、頑固になってきたりします。年寄りだからといって、親切を当然と思ったり、だらしない生活をしたりしていては、そうしたことが習いとなってしまいます。何であっても、立ち止まってしまうと、坂道を転がり落ちるのが老人です。お洒落にしても、「もう、どこにもいかないのだから、どうでもいい」と思い始めると、お化粧はもちろん、顔も洗うのがたいそうになるのが年寄りです。そして【汚い老人】になっていくのです。

私は、仕事を辞めた頃、これからの人生について色々と考えました。その時思ったのは、【どんな老人になりたいのか?】ということでした。いうなれば、自分の将来の自画像をえがいてみたのです。その通り出来る、出来ないは別にして、理想のお婆ちゃん像です。そうしたことによって、いつか、その理想の自画像に近づこうと思うようになりました。「優しい心を忘れない」「少しでも人のためになることが出来たらいい」「おしゃれを忘れない」「我儘を言わない」「くよくよしない」「心を広く」「信じる心を」「何でもいい方に解釈出来る」「何をしても代償を求めない」「ユーモアを忘れない」「学ぶ心を忘れない」「若い人に学ぶ」……などなど、出来そうなことも、難しそうなことも、何であれ、「こんな自分を作りたい」と思っての自画像です。

こうした自分を作ることを心のどこかに住まわせていますと、何となく自然にその自画像に近づいて行こうという思いが、無意識の中に根づくようです。例えば、ちょっとしたことに騙されても、「悪気があったわけではないだろう」と思うとハラはたちませんし、赦すこともできるのです。こうしたことは、やはりなるがままにしていては、心は枯れていくのを少しでもくい止められると思います。

まだまだ、自画像には程遠いのですが、自分を創っていく楽しみもあって、楽しい老後になっていると思います。

ご参考になれば、と思って書きました。

2013年9月15日日曜日

未練・執着


以前、あるお坊さんが、『死にとうない』と、言いながら死んだという話を聞かされたことがある。お坊さんらしくない、ということで、皆がそんな噂をしていたのだろう。お坊さんも人の子。万人と同じ気持ちであっても不思議はないのだが、それを口にするというのが、坊さんらしくなかったということだろう。

私の生き方としては、くよくよせずに後ろを振り向かずに生きていこうと心掛けているので、日常【未練執着】はあまりないと思っているのだが、人生最大の出来事である【死】については、どうだろうか、と考えてみた。

このトシになるまでに、色々な場面で、死ぬことへの予行演習的な思いを教えられたり喋り合ったりしている。しかも、誰もが遭遇しなければならないことなので、死ぬこと事態はそんなに辛いことではないのだが、何であれ、心残りがあると、やはり「まだ死にとうない」の心境になるだろう。

例えば、私が今、死ななければならなくなったなら、どうだろう。

未練執着というよりは、【困る】ことがたくさんある。しかし、そんなことは、どうにかなることばかりのようにも思う。身辺の整理ができていない、頼まれているモノができていない、こんなことは知ったこっちゃない、と言ってもいいだろう。

本当に困ることなどは、後々残った人に多大な迷惑のかかることだけだろう。その点、預金もないが借金もない。整理の出来ていないことの後始末くらいなものだ。それくらいは、勘弁してもらおう。

やはり問題は、未練と執着だろう。それは、別れへの未練というか、親しい人たちへの執着だろう。もう2度と会えない、話すことも出来ない、将来、どんな生活が待っているのか、幸せになるのか、孫たちは、どんな人生を歩むのか、そうした心配ということが、未練執着となりそうだ。

私は自分の一生を不幸とは思っていないし、やり直したいとも思っていない。私なりに、夢も希望も掲げながら、歩んできたので、満足している。【己を知る】ということは大切だ。私ごとき人間が、これだけの一生を過ごせたことに感謝をしたい気持ちなのだ。

ある方が『未練や執着を去るには、大切なものから手放すこと』と言ってたが、それはモノであって、未練に思う家族や身内を手放すことはできないことなので、これもプラス思考でいくしかない。「今まで、長い間愛してこられたのだから、有難いことだ。どちらが死んでいても、仕方ないことだった。長いあいだ有難う」と。死ぬことをいたづらに嘆くことはないのだ。
こうした気持ちが萎えたり、忘れたりしたら、また、考えたらいいのだ、と。
 
ああ、まったく前向きの極楽とんぼ的人生を歩む私であると、つくづく感心してしまった。()

2013年9月14日土曜日

2013年9月13日金曜日

御厨貴氏と仙谷由人氏


今日、友人が昨日の毎日新聞を持ってきてくださった。仙谷さんのことが、紙面に大きく書かれているので、読ませてくれるためである。

 
御厨 貴(みくりやたかし)氏の第6回『政界人物評論・仙谷由人』である。御厨 貴氏は、もう日本の政治学者としては、第一線の学者である。その御厨氏が、落選した仙谷氏を、ベテラン政治家として認めていることをまず、嬉しく思った。

以下、略しながらだが、あらましを抜き出しておこう。

民主党政権を「決められない政治」とひとくくりにしてバサッと切り捨てるのが、先の衆院選、そして今回の参院選の折の国民の気分であった。鳩山、菅、野田という3代の政権の政治への取り組み方の相違は、ほとんど無視されている。それはまた民主党の政治家たちが、官僚や国会やメディアと切り結んだ生々しい体験をきちっと自分の言葉で語れないからでもある。

 仙谷由人は、その点落選したベテラン政治家という、非常にモノを言いやすいポジションにいる。またひとくくりにされがちな3代の政権との距離感が、これほどはっきりしている人も珍しい。鳩山内閣での行政刷新・公務員制度改革担当・国家戦略担当・「新しい公共」担当の特命大臣、次いで菅内閣での内閣官房長官、民主党代表代行、内閣官房副長官、そして野田内閣での民主党政策調査会長代行、副代表と、ポストは目まぐるしく変わっている。しかも仙谷自身は、鳩山政権ではまったく主流意識はなく、大勢の大臣の一人という感覚だ。菅政権では、菅総理の内懐(うちふところ)的存在でありながら、どこか異邦人としての感覚が抜けない。野田政権では遠ざけられた印象を否めない。

 ◇首相の「弁護士」に

 しかしそこに共通しているのは、仙谷にとっての「政治家」のあり方だ。依頼人=総理があって自らのポジションを固め、打って出るという姿勢である。弁護士は99人に罵倒されても1人を守る仕事と語る仙谷の職業観はそのまま政治家のそれに連なる。だからそこでは、理念や理想はどうあれ、まずはリアリズムに徹するということになる。

 仙谷流リアリズムは、意外にも権力の館の捉え方に表れる。内閣府特命大臣として仙谷は、トイレとロッカーの付いた大臣室における自足性が密室性と閉鎖性とイコールであることに気づく。だからオープンドアにし、スタッフルームの壁の撤去を行う。平場の議論で官僚を含めたスタッフと情報交換することが大事なのだ。しかも仙谷はやがて立派な大臣室に大臣は終始いないことを、官僚から期待されていると分かる。要は権力の館はハリボテで、大臣はそこでは仕事をしてはいけないのだ。何とここで、仙谷流リアリズムは反転を迫られる。

さらに国会に四六時中拘束される実態に、仙谷は驚きを覚える。これでは自分のスタッフと綿密な打ち合わせをする時間も奪われてしまう。現場感覚を離れて職業としての政治家は務まらぬ。しかし仙谷は自らいう「国会のとらわれ人」の渦に結局巻き込まれずにはいられなかった。かくて国会の現場は仙谷流リアリズムをもはねつける。

 だが明らかに政権交代をしたらなすべき重点項目の一つが、仙谷にとってはガバナンスそのものであった。仙谷の比喩は巧みだ。いかなる企業にも人事労働担当重役がいて、労働組合と対等に話さねばならない。この発想が政治家と官僚との関係にも必要だと言う。自民党の政治家はこんな発想をしない。しかし仙谷は、追い打ちをかけるように、企業のコンプライアンス重視の流れの中でも、政党には「政党経営術」「政党経営学」すらないと言い切る。しかもその点では自民党も民主党も同じであると。

 民主党3代の政権の中で、仙谷が最も仙谷たりえたのは、菅政権で首相官邸の司令塔になった時であろう。あらかじめ目をつけておいた人物を官邸に秘書官クラスで引きずり込む。官僚や民間人も考え方と人柄を知って活用する。彼らは何よりも情報のアクセスポイントとしてかけがえのない存在だ。そこでチーム仙谷を始動させていく。それは、あたかも裁判に臨む仙谷弁護団といった趣になる。

 官邸のガバナンスは、一方で多くのステークホルダーに目配りしながら統合を進めること、他方で民意を聞くという民主主義の精神を反映させること、この二つの案配で決まるというのが、仙谷流ガバナンスに他ならない。しかしメディアと共に常に民意が動くのにどう対応するかが難しかったと仙谷はふり返る。この点で仙谷流リアリズムは、理念・理想・イデオロギーといったアイデアリズムと際どくせめぎ合っている。しかし民主党の中にあって、仙谷は野党時代との峻別(しゅんべつ)を常に考えていた。運動論は野党ならばいい、与党になったら「遠望するまなざし」を持ちながら現実対応ができなければ、それは仙谷流の政治ではないのだ。

だからそれは菅の政治への批判に転ずる。原発問題で再生エネルギーと原発ゼロに賭ける菅の行動は、仙谷にはあまりにも現実離れしたものに映る。二者択一で語れるほど原発を含めたエネルギー問題は容易ではない。もっと重層的、波状的に連関しているからだ。それを総選挙の争点化に利用しようというのは、いかがなものか。逆に菅を筆頭とする原発ゼロ派は、政治がすべてを仕切れるという幻想に陥っているのではないか。持続可能な政治体制を作るために、国民が自律的に動ける環境整備ぐらいしか政治にできることはないというのが、仙谷の政治観であり、彼流の「プラグマティズム」(実用主義)なのだ。

 だがこうした仙谷の政治へのまなざしでは結局は党内の原発ゼロ派の動きを封じられなかった。さらに、ねじれをおこした国会での野党への対応においても、功を奏さなかった。仙谷が参議院の問責決議を受け官房長官辞任に追い込まれたのは、その典型例だ。追い込まれている与党席を救わんがため何でもかんでも答弁に立つ仙谷の姿は、弁護士活動ならばかくあらんという弁論術にたけた答弁になり、時に自衛隊を「暴力装置」とつい呼んでしまううかつさを伴い、与野党を共に納得させる「熟議デモクラシー」とはほど遠い結果を生んだ。それこそ野党自民党を、政治のリアリズムの達人、仙谷さえ倒せばとの大合唱に集結させることになってしまった。弁護士としてのリアリズムの限界が、そこにははっきりと見える。仙谷流ガバナンスは、官邸では生かされたものの、国会では文字通り空転してしまったのだ。(略)

 野田政権は、仙谷流の政治を全面的に退けた。野田のある種の保守感覚が、仙谷を危ういと認めたからに他ならない。落選した今、道半ばの思いが、仙谷には強いはずだ。

仙谷に残された課題は多い。まずは、自民党の似姿にはならぬ民主党独自のプラグマティックなガバナンス論、すなわち「政党経営学」を構築せねばならない。そして見るも無残な「決められない政治」からの脱却を図ることだ。

 新橋のちょっとワイザツで昭和30年代を懐かしむようなビルの一角で、「仙谷流」にいかなる花が咲くのか。仙谷によって今度こそ国会に大輪の花を咲かせてみたいと願うのは、私ばかりではないはずだ。

と、いうことだ。仙谷氏の政界復帰を望んでいる人達も、多いことを嬉しく思う。

2013年9月12日木曜日

自殺


910日から16日まで、日本では「自殺予防週間」となっています。
驚いたことに、近年は、 “就活自殺”と呼ばれる就職活動がうまくいかなかったことが原因の一つとなって自殺で亡くなる若者たちが増えているというのです。

大人の私たちからみますと、たかが、「仕事がうまく見つからない」と言うことで20代もの青年が、そんな理由で自殺されたのでは尾やでなくてもたまらない、と思うのですが、事実なのです。

これは警察庁が、「就職失敗」が原因・動機となっているとした20代の自殺者数の年次推移を踏むまえて、こんな記事があります。転写します。

 5年前(平成19年:60人)と比べて、昨年は2.5倍にまで急増しています。ただ、これはあくまでも氷山の一角に過ぎません。自殺未遂者は、実際に亡くなる人の10倍はいると言われていますから、少なくとも毎年1000人以上の20代が、「就職失敗」を理由に、自殺を試みている計算になるのです。
 
うーむ、と唸りたくなります。
就職活動には、雇うほうにもルールがあるはずですが、それが建前だったりして、真面目な正直者がバカをみるようなことがたくさんあるので、ひょっとして、そうした真面目な人達が、世をはかなんでしまうのかもしれません。

就活をしている学生たちが受け取るメールに【お祈りメール】というのがあるそうです。これは、不採用の通知だそうです。

「あなた様とは残念ながらご縁がありませんでした。今後の就職活動のご成功をお祈りいたします」とか「これからのご健闘をお祈りしています」といった文章で終わっているため、不採用通知が「お祈りメール」と呼ばれているのだそうです。

もっと驚いたのは、「サイレントお祈り」といって、サイレント、つまり「音沙汰がないお祈りメール」不採用通知すら送られてこない、ということだそうで、ひどいことです。
 
 ただ、こうした嬉しくない経験をしながらも、どこかの会社から、内定をもらって希望通り正社員になれれば安心です。 

ところが、今の学生は違うんです。30社、50社、あるいは三桁、100社回っても、一つも内定がもらえないという学生も少なくありません。
 
更にこんなことも書いてありました。

有る調査機関が、「就活に失敗して自殺する若者が増えていることをどう思うか、理解できるか」と尋ねたところ、全員が理解できると答えました。「理解できるといのは?」と、さらに踏み込んで聞いていくと、
「自分たちは、小さい頃から周りの目に怯えながら生きてきた。小学校、中学校と、どうやったら学校でいじめられずに済むか、いじめの標的にされることなくどうすれば無事に学校を卒業できるか、ずっと怯えながら生きてきた」
また、「自分がこれをやりたい、あれをやりたい」などということではなく、できるだけ目立たないように、周りから排除されないためのキャラを、ずっと演じて生きてきたと。
さらに、「中学高校と進学するにつれて、先生や親からの評価も気になるようになっていった」また、大学進学を希望するなら、演じてでも「やる気」をみせていかなければならない。大人の顔色をうかがいながら、作り笑いをして、「いい子」を演じ続けてきた」というのです。
それで、やっとの思いで大学に入って、ようやく周囲からの評価や同調圧力からも少し解放されて、ホッと一息ついた頃に、就職活動が始まる。
 
就活で企業を回ると、面接で必ず聴かれることがあるんだそうです。「あなたの夢はなんですか?」「他の人にできないことで、あなたにできることは何ですか?」という問い。
 
学生たちが言っていました。これまで生きてきて、はじめて「あなた」が問われたと。小さい頃から、周りと同じようにしていなさいと言われ、自分の存在を消すように努力して生きてきたのに、いきなり就活で「あなた」を問われて驚いたと。
 
 そこで必死になって、「自己分析」や「自分さがし」をして、おぼろげながら見えてきた自分のことを、必死になってエントリシートに書いて、しかもそれを何十社分もやって……。
 
 
面接でも、面接官にどうやったら評価してもらえるのか。なんと言ったら内定をもらえるのかと、相手の評価を気にしながら答えて……。
それなのに、回る企業がどれひとつとして自分を受け入れてくれないのだとしたら……。小さい頃から、言われたように生きてきただけなのに、それでも自分の居場所や出番を与えてもらえないのだとしたら……。
学生たちが「理解できる」といったことの意味は、決して「積極的に死にたい」「自殺したい」ということなんじゃなくて、「こんな人生、もう馬鹿馬鹿しくて生きるのを止めたくなる」そういう気持ちはよく分かります、ということだったのです。

今回の調査でも、就職活動をはじめてから「本気で死にたい」「消えたい」と思ったことがあるという学生は、実に21%にも上りました。5人に1人。これは驚くべき数字です。

様々な問題の歪みが、就職活動をしている学生たちに集中的に襲いかかっているようです。 転写 以上

 
就活自殺の背景にあるのは、私たち大人社会のあり方の問題でもあるようです。年寄りの自殺も多いようですが、これからの若い方たちの自殺は、何とも言えぬ気分にさせられます。困ったことです。

 

2013年9月11日水曜日

老化を遅らせる その1


いつも火曜日の夜は、劇塾の日だ。ストレッチをして、身体をほぐし、それから発声練習を450分する。それからいろいろと台詞の練習だ。

声を出す仕事をしている人は、長生きすると言われている。
歌手や、役者、アナウンサーなど、いつも声を出しているのだが、中には短命な方もいる。そんな方の死を知らされると、お酒の飲み過ぎ、夜更かしなどの不摂生をしたのでは?なんて思ったものだ。

カラオケが健康にいいというのも、よく解る。声だけではなく、歌詞をおぼえたりするのも、頭を使うことなので、いいはずだ。
特に、腹式呼吸でお腹から声を出すというは、全身運動に近い。

先生がよくおっしゃるのは、「トシをとると、滑舌が悪くなるので、しっかり口を動かして、相手に分かるように発音すること」ということだ。サシスセソがタチツテトに聞こえたりしないように練習したりしている。また、早口言葉も練習には欠かせない。

こうした基礎練習のまとめは、【ういろう売り】だ。この「拙者親方ともうすは……」で始まるあの歌舞伎十八番【ういろう売り】の台詞を憶えておくと便利だ。どこでても練習が出来る。車の運転中、夜、蒲団の中でだって出来る。憶える気になれば、だれでも憶えられる。めっぽう記憶力のない私がそのつもりになれば憶えられたのだから、間違いない。

(自慢じゃないが、私は、無意識にでも必要性を感じないものを憶えようとしても、憶えることがとても苦手で、カタカナことばの単語一つ憶えることが出来ないのだ)

こうしたことの練習の積み重ねが、はっきり話すことのくせに繋がるし、老化を遅らせることにもつながると思うのだ。ぜひ、挑戦してみてはいかがだろう。(ネットでういろう売りの台詞は、すぐ出てきます)

2013年9月10日火曜日

もったいないこと


先日のNHKTVで、沢山の残飯や、食料品が、捨てられていることを放映していました。驚きました。

戦中戦後、お腹をすかして、しゃもじにくっついたご飯粒1粒も捨てることなく、口に入れていた者にとっては、【ああ、もったいない】と、涙が出るほどの思いでした。

私たちの食生活は、昔と大きく変わりました。食べ物も、国内だけではなく、外国から半分以上輸入しています肉や卵を食べる量は 10倍になり、えさとして使う穀物の量も急増しています。現在、えさ用のトウモロコシや大豆は98%が輸入しているそうです。

そうした外国から買っている食糧というのに、廃棄量は3000万人分(途上国の5000万人分)の年間食料に匹敵しているとか。日本の食品廃棄の実に半分以上が家庭から捨てられているそうです。

ネットによれば、この家庭からでる残飯の総額は、日本全体で年間11兆円。これは日本の農水産業の生産額とほぼ同額です。 さらにその処理費用で、2兆円が使われています。

日本は食糧の半分以上を輸入しながら、世界一の残飯大国なのです。

捨てられているのは、残飯ばかりではないのです。賞味期限切れのものもありますが、まだ、賞味期限前のものまで、捨てられているのですから、これも驚きです。
流通の中で、卸屋さんが、商店に収めるのは、賞味期限の長さによって、収めることが出来ないものが出てくるので、そうしたものを、捨てるか、安く売るか、ということになるそうです。

簡単に言うと、、私たちは、牛乳でもお菓子でも、ちょっとでも賞味期限の長いものを選んで買っていると、賞味期限の近い物が売れなくなる、ということなのです。

そういえば、いつもお菓子など安売りの店があります。よく見てみると、賞味期限が普通の商店では、3か月あるものが、1か月だったり、2か月といったものが多いのに気付きました。仕入れが、安くなっているのでしょう。

今日は10日。私たちに出来ることは、たとえば、牛乳でも短い期間に使い切るようなものは、奥に並んでいる日付けの20日ではなく、賞味期限に近い15日というのがあれば、その品物から買っていくことだと思いました。返品や廃棄が少なくなるはずです。

こうしたことで、店からの廃棄量を少なくしたり、冷蔵庫の中につめこんで、腐らせたりすることのないようにして、【もったいない】ことをしないように、気をつけねばと思っています。

2013年9月9日月曜日

9月9日


私、長い間、9月9日という日は、栗節句といっていたのだが、インターネットで見ても、暦で見ても、そんな呼び名は、一つもなかった。重陽の節句、即ち、陽(奇数)が2つつく9月9日は、大変めでたい日とされていて、菊の花をかざったり、お酒を飲んだりして祝う日、ということで、菊の節句とも言われているとか。

お恥ずかしいが、この歳になるまで、そんな節句があることを知らなかった。

どこかの暦に『栗節句』というのがないだろうかと使っていない暦の幾つかをみていたら、【小つち】ということがのっていた。これも、何のことか分からないので調べてみると、大つち小つちというのがあり、土いじりの凶日ということで、土をいじらない日ということらしい。

暦はもともと農作業のために作られたものらしく、【大つち小つち】は、土公神様が土の中で休んでいる日とされている日で、【土用】は、土公神様が土の中で活発に働かれている日だそうで、どちらも土を動かすと、障りがあるとされていて、種が芽をださなかったり、不作になったりすると言われているようだ。ちなみに、【小つち】と書いてあるカレンダーは、農協から頂いたカレンダーだ。

そのほか、凶日というのは、さんりんぼうとか、そのほかにもいろいろある。

迷信だろうが、昔は、そういうことで、ちょっと骨休みの日をつくったのかもしれない。

ま、この頃は、こうしたことは関係ないのか、今日も、近所の田では、稲刈りをしていた。
農業がいけない日ではないので、土を動かさない農業であれば支障がないのでいいのかもしれない。

今朝、涼しいうちにと思って、庭の草取りをしたのだが、草取りは、土が動くのでしてはいけない日らしい。家の中に入って、お茶を飲もうと思って戸棚のコップを出そうとしたところ、手前にあった珈琲カップが落ちて割れてしまった。久しく食器など割ったことがなかったのだが、とんだところで、土公神様のお怒りをかってしまったのかな?()

栗節句は、どこにも見ることはできなかったが、それにしても、【栗節句】って、皆さん言ったことない? 

2013年9月8日日曜日

東京オリンピック


いよいよ、オリンピック・パラリンピック開催の地が東京と決定されました。スポーツ音痴の私も、素直に喜んでいます。

ふと、思いました。7年後の東京オリンピック開催まで、生きていまいなあ……。いや、生きとりたいなあ。()

ま、せいぜい長生きして、元気でテレビの前に座れるようであれば、この上ない幸せでしょう。

7年後のその時に思うことは、多分こんなことと思います。

「ああ、7年なんて早いものだ。ついこの間、『東京か、いや、マドリードかな』なんて言っていた。決まったときは、ほんまに皆が大騒ぎして喜んどったなあ。あのときは、福島の汚染水がどうのこうの言われて、心配したけど、安倍はんが、『責任もって、心配ない国にします』と、たしか言うとった。やっぱり日本の国は、たいしたもんや。立派に片付けたわ。7年後までは生きとるやらどうやら、なんて言ってたけど、生きとれたなあ。幸せなことや。ええ冥土の土産話ができたわい」

ああ、こうなれば、言うことありません。(^^)

 
*このブログの字が小さくて見にくいとおっしゃる方がおられるかもわかりません。特に、コメントの字は、小さいので。

友人のお六さんが、メールで教えてくださいました。
私もうっかりしておりましたので、もし、字が小さくて見にくい方は、変えていただければと思ってお知らせしておきます。

ブログを開いたとき、右下に、+100% ▼が出ていますので、その▼をクリックして、+125とかにしますと、コメントの字も大きくなって、見やすくなります。お試しください。

 

2013年9月7日土曜日

東京? それとも……


オリンピックの開催地が、明日には分かるそうな。なんとなく、政治がからんで、大袈裟とも思えるほどの騒ぎになっている。

あまりスポーツには興味がないので、東京だろうがどこだろうが、どうでもいいのだが、これだけ皆さんが東京誘致に期待しているのだから、私も大いに賛成している。

東京に誘致できれば、日本の国にいいことがあるようなので、それを期待したい。

しかし、どちらになっても、この騒ぎをプラスにもっていかなければいけないだろう。外れたからといって、ガタガタと何もかもが、悪い方向に偏ってしまったら大変だ。そこは、政治の力で、好い方向に舵をとってほしいものだ。

もう何か月か前のことだが、銀行で、日経新聞を開いて番をまっていたら、「オリンピックは、もう東京はあかん。マドリードに決まりだ」という内容が書いてあった。東京都知事の発言のあとだったように思う。えっ、こんな決断、今頃新聞がしていいの? もし、東京に決まったら、どうするのかしら」なんて思った。それから、何となく東京有利の風が吹いていたのだが、今に来て、福島原発の汚染水問題が持ち上がってしまった。早く福島の人達が安心出来るような対策をとらないと、意味は違うが日経の書いた通りになりそうだ。

日本人は、【熱しやすく冷めやすい】ようだが、これだけ盛り上がっている熱を、どちらになっても冷ますことなく、原発問題、復興問題などに、役立ててほしいものだ。

2013年9月6日金曜日

有名人 その2 沢村貞子


☆沢村貞子 引き際の美学

平成元年1181歳で女優を引退。その時の記者会見のやりとり。

「私は華のある女優じゃなかったから、引き際が肝心。60年もやったから、もう十分。寂しくも悔いも全然ありません」

「普通のおばさんになるんですか?」

「私はもともと普通のおばさんです」

実は聴力の衰えがあり、最後の出演ドラマは、補聴器を髪の毛で隠しての収録だったという。脇役人生を語ったことばに、

「主役も、脇役もそれぞれ……生まれながらの美しい花を舞台で咲かす人もいるし、その後ろから上手に枝葉を添える人もいる」

花の動きに合わせて枝葉をあやつる芸をわきまえていたから、溝口健二、小津安二郎、成瀬巳喜男といった名匠たちに重宝がられた。

引き際が見事なら、死に際も潔かった。常々「惜しいなと嘆かれるうちに逝きたい」と口にし、七の世話を人にさせないことに最後までこだわった。用を足すたびに病床から起きあがり、それが出来なくなったとき、自ら点滴を引き抜いた。平成884歳で没。

 

書かれているのを、そのまま転写した。女優の傍ら、エッセイストとしても、知られている。(【私の浅草】は、エッセイスト・クラブ賞を受賞)

立派な最後だが、なかなか真似のできることではない。