2012年9月30日日曜日

台風17号


殺人的猛暑から脱出、と思うまもなく、招かざる客、大型台風がやってきました。

現在、我が家の西の窓ガラスは、雨風に叩かれています。稲の刈り跡から伸びたひこばえが、大きく波打っています。

このあと、速度を速めるらしいので、今日中には、荒れもおさまるようです。

台風といえば、こんな思い出があります。

新幹線に乗っていたときです。もうじき富士山が見えるかと、キョロキョロしていたら、隣の男性が、話かけてきました。

「どちらから?ご遠方ですか?」「はあ、徳島です。阿波踊りで有名な」「「ああ、あの踊りは有名ですねえ。しかし、徳島みたいなところに、よく住んでいますねえ」……「えっ?どうしてですか?」「四国の徳島といえば、いつも台風が来てますねえ。毎年恐ろしい台風がくるでしょう。僕らのような者からすれば、よく住んでるなあと思うのですが、徳島を離れようとは思いませんか?」

こんな会話を交わしたのです。台風に縁遠い方には、徳島も沖縄も同じなんだなあと、思いました。
「徳島」を「沖縄」に入れ替えると、そのままそっくり私の心中ではあります「沖縄のように、台風銀座には住みたくないなあ」と思うし、住めば都とはいうけれど、よく住んでるなあといつも思ってしまいます。

人間は、自分の住んでいる足元は、信頼しているものです。それでなくては、とうてい安住してはおれません。
その方は、かなり雪深い所に住んでおられるようでしたが、屋根の雪下ろし、道の雪かきと、冬場は大変なはずですが、『住めば都』なのでしょう。
住めば都とは、よくいったものです。

 
あれれっ、台風で、駐車場の屋根がパタパタと音を出しはじめました。見てみると、屋根の片側が50センチくらいはがされています。
ああ、これ以上きつくなると、片屋根が吹き飛んでしまうかもしれません。そろそろ遠ざかってもいい時刻ですが、どうなりますか……。

2012年9月29日土曜日

小説を……


知人とこんなことを話し合ったことがあります。

 
☆…古女さんは、小説は書かないのですか?

★…小説は書いたことありませんねえ。第一、書こうとは思っていませんよ。書けないのが分かるから。(笑)

☆…そうなの。私は書いてみたいと思うことはよくあるんだけど、書けないわ。(笑)

★…書いてみたいと思うのであれば、書いたらいいじゃないの。何かに発表して賞を狙うとかいう目的で書くのであれば別でしょうが、楽しみとして書くのはいいじゃないの。だれに憚ることなしよ。

☆…いえね、私の人生が、小説になるほど、いろいろとあったものだからよ。

★…素人は、楽しみながら書くのでなければ、書けないでしょうね。苦しみながら小説書こうなどと思うのは、プロを目指す人か、何かの賞を狙うときぐらいですよ。

☆…楽しみながら書くことが出来れば、いうことありませんね。

★…その通りと思いますね。

☆…構想としては こんなものを書いて見たいという意欲とアイディアは十分あるのですが、さてそれを小説モドキに書こうとすると 知識がまるでないことに気づかされます。

★…それが当たり前なんでしょうね。だから、自分の経験とか、自分の良く知っている世界のことしか書けませんよね。だって、知らない世界のことを書こうとすれば、その世界のことをまず調べてでないと、取り掛かれないと思います。

☆…だからプロの方たちや、セミプロの方たちは、かなり取材に時間をかけていますものね。

★…私は、まったく小説を書いてないのですが、脚本は下手なりには書いたことがあります。つまらぬ小品ですが、人物は、ひとりひとり、どんな性格で、どんな環境で大きくなったか、出てこない親までも設定してかからないといけないこともね。なかなかそこまで考えられないのですがね。たぶん、小説もそうじゃないかと思います。

☆…楽しみが楽しみでなくなっては続けられませんね。。

★…だれでも、一生に1本は、小説が書けるとも言いますから、書いてみたら?楽しみながら…。

☆…自分の人生の総決算ですか。

★…そんなに堅苦しく考えずに、独りで遊んでみる、くらいで書いてごらんなさいな。

☆…考えてみます。(笑)

 その後、☆さんが、小説に取り組んだかどうかはまだ聞いておりません。(^^)

2012年9月28日金曜日

本当のこと?


日本が9月11日に尖閣諸島の土地を買い上げて国有化する方針を決めて以来、中国では、日本を非難するデモが各地で行われた。

このことについて、世界の情勢に詳しい、田中 宇という方が、こんなことを書いている。

前略……中国では、日本が尖閣の土地国有化に踏み切った背後に米国が黒幕として存在するという見方が強い。米国が、日中対立を扇動しているとの見方だ。今回の尖閣土地国有化の動きの始まりは、今年4月に石原慎太郎・東京都知事が米国ワシントンのヘリテージ財団での講演で、東京都が尖閣の土地を買収する計画を唐突に表明したことだ。

米政界のいずれかの筋(*多分軍事産業筋)が、石原に対し、尖閣を買収して日中対立が激化したら、米国は日本を支持し、日米同盟を強化できると入れ知恵(提案)した可能性がある。

米国は、南シナ海の南沙群島問題でも、フィリピンやベトナムが領有権の主張を強めるのを後押しし、これまでASEANと中国の間で棚上げ状態にしてあった南沙問題を再燃させた。
米国は、比越などを代理にして中国包囲網の戦略を展開し、比越に最新鋭の兵器を売り込んでいる。

そして、南沙と同じ構図が尖閣でも起きている。米国は、石原を誘って、日本が尖閣問題で領有権の主張を強めて島を国有化するのを後押しし、これまで日中が棚上げしていた尖閣問題を再燃させ、日本にミサイル防衛関連の新型兵器(レーダーなど)を追加で買わせた。
中略…日本では「日本の領土である尖閣諸島の土地を国有化するのは日本側の自由であり、中国側がそれを非難するのは100%間違っている」という世論が強い。だが、先日日中を歴訪したパネッタ国防長官は日中どちらの肩も持たず中立の姿勢をとった。尖閣問題について、米国の姿勢はあいまいだ。…後略

一部をきりとったものであるが、大まかに言うと、陰で力のあるアメリカの黒幕に、石原知事が踊らされたのがはじまりで、高額な兵器を買わされたという。本当かしら?

2012年9月27日木曜日

佐野洋子という作家


昨夜は、早めに寝ようと思って床についたのだが、眠り薬の本がおもしろかったので、つい夜更かししてしまった。

本は、以前に一度読んでいる本。再読である。眠り薬には再読がいい。一度読んでいるということで、あまり神経を高ぶらせることもなく読める。とはいうものの、昨夜のようなこともあるので、一概にはいえないのだが……。

本棚から手にした本は、佐野洋子(19382010)著 『神も仏もありませぬ』だった。8年も前に読んでいるので、内容はほとんど忘れていた。

彼女の本職は絵本作家。絵本だけではなく、エッセイも書いている。なかなかの書き手、つまり読ませる文章を書く。(昔、朝日新聞に、随筆を書いていた時期があった。それを読んで、おおっ、と思ったのだ。)

彼女の書くエッセー・随筆には、難しい理屈がない。それでいて、何となく人生の哀歓がにじみ出ていて、うなづける。

【読ませる文章】にも、いろいろあるが、彼女はユーモアたっぷりの表現で書くものだから、随所で「くすり」と笑ったり、「ぷーっ」と吹きだしたりしながら、ほとんどの本は、飽くことなく、一冊を一晩で読破してしまう。

この本の内容は、意に沿わぬ65歳というトシを、不機嫌に迎えた彼女の、驚きと鬱憤をぶちまけている。そして、「他人が物忘れすると、どうしてこんなに嬉しいのだろう」といったように、正直この上ない書きぶりであるから、とても親しみを感じてしまう。

彼女の書くものは、過激で大胆な発言も多いが、そのなかにも、人間味あふれるコトバが光っているし、文章を書くことに興味のある者にとっては、とても新鮮で魅力ある表現が、どっさりとつまっているので、大いに満腹感を味わうことができる作家と思う。

私は、この作家が好きで、彼女の書くエッセイはほとんど読んでいるのだが、彼女は、ガンを患って、2年ほど前に最後を迎えた。そのいさぎよさにも脱帽した。「死ぬ気マンマン」の彼女だったが、私も、そんなときがくるかしら。そんな気持ちにはなれそうにないのだが……。

2012年9月26日水曜日

ネズミ嫌い


私は大のネズミ嫌いである。とにかく気持ちが悪い。蛇かネズミか、といわれたら、蛇がずっとマシである。漢字のネズミという字をみてもイヤなので、いつも、カタカナを使っているほどだ。(笑)

どうしてそんなに毛嫌いするのかといえば、幼いころ、家にネズミが住み着いていて、よく、金網のネズミ捕りを仕掛けていたことが原因のように思う。

我が家だけではない。隣近所、同じようなネズミ捕りの中に、ネズミが入ったものを、家の前を流れていた下水に綱をつけて釣りさげてあるのを、毎朝のように目にしなければならなかった。時には、ネズミの断末魔のようななき声を耳にした。

それがたまらなくイヤだった。

嫁に来た家にネズミがいなかったのは幸いだった。大きな猫を飼っていたからだと思う。たまにネズミを咥えて家人に見せにくることがあったが、私は戸外に飛び出してしまうので、その後の処理はみたことがない。

古い家を建て替えてからは、もう、ネズミの入る隙間もなくなったのか、チョロリともみかけなくなった。

ある日、勤め先で一人で日直をしているとき、ひょいと床に目を落とすと、ネズミが1メートルほど先をチョロチョロと走った。

気が付くと私は、ギャーとか叫んで、机の上に上履きを履いたまま飛び乗っていた。運悪く、そこへ教頭先生が入ってこられた。教頭先生の驚いたようなお顔。慌てて降りようと思っても、ネズミがどこにいるやら分からないものだから、降りられない。机の上に仁王立ちしたまま、「ネズミが走ってます」とか何とか言って、そっと降りたのだが、とても恥ずかしかった。

家にはネズミは居なくなったのだが、あるとき、物置にネズミがいるらしいと夫が言う。

「もう、物置には入れない」と言うと、「薬を買っておけ。簡単に退治できるわ」といって外出した。私も、さっそくネズミ捕りの薬を買いに行った。

この話の結末は、前にもブログに書いたのだが(7月12日・粗忽者ーその2)夕方、私がトントンと野菜をきざんでいるときだった。

「浅田飴って、ヘンな味じゃなあ」
と言う夫の声に振り向いた。

なんと夫は、私の買ってきたネズミ捕りの薬を片手に口をモグモグさせているではないか。

その薬の箱、薬屋さんが、浅田飴の宣伝用の袋に入れてくれたのだ。慌て者の夫は、その袋だけを見て、中のネズミの絵のついた箱に入っているネズミ獲りの薬を確かめもせずに、口にほうりこんだのだ。

食いしん坊の夫は、てっきり浅田飴と思ったらしいが、それにしても大の大人とは思えない。箱のネズミの絵は、まるでミッキーマウスのような大きなマンガ顔だ。私はおかしさをかみ殺して洗面所へ夫の後を追った。

口の中の清掃をすませた夫が大声で怒鳴った。「ばかもん。ネズミ捕りを、こんな机の上において置くヤツがあるかっ。見てみろっ、浅田飴と書いてあるじゃないかっ」と。

私は、叱られながらも、床にうずくまって背中やおなかを、こんにゃくのようにびびらせて笑った。やっと、「箱にちゃんと、ネズミ捕りと書いてあるじゃないの。ネズミの絵までかいてあるのよ」と、反撃したが、そんな理屈は通らない。しこたま叱られてしまったが、どうにも笑いが止まらない。おなかの筋肉が痛くなるほど、笑ってしまった。今でも思い出すと笑ってしまう。

ネズミのことで、こんなに笑ったのは、初めての終わりである。

ネズミを可愛らしいと言う人もいる。私は、ミッキーマウスも、ネズミと思うといい気はしない。ディズニーランドも、一度はお付き合いで行ったことがあるが、楽しくてたまらない所ではなかった。何かにつけて、本物のネズミを思い出してしまう。多分、もう行くことはないと思う。(笑)

 

 

2012年9月25日火曜日

日野原先生のことば


日野原先生と言えば、もう知らぬ人はいないほどに有名になられています。1911年生まれですから、もう100歳を超えられています。色々と、本を書かれたり、公演をされていますので、ご存じとおもいますが、含蓄のある言葉をちょっと書きならべてみます。

 
75歳から100歳まで、ゆるやかに老いていくというのがひとつの理想だと思います。そのために大切なのが音楽、美術などのアートなのです。

☆豊かな人生に、友人は欠くことができません。

☆私の家の老齢の梅の木は、幹は割れて折れそうだけど、毎年綺麗な花が咲く。人間も同じ。体はぼろぼろになっても、咲くものがある。

☆人生というのは、何年生きたか、という長さが重要なのではなく、どう生きたかという深さや濃さを含んだ全体としての量が重要です。

☆立ち止まらずに、行動し続けることが、自然とエネルギーを育んでくれるのです。

☆未知の世界に飛び込むと、それまで使ったことのない脳が動き出します。その刺激を受け、常に考え、感動していれば、歳をとっている暇などありません。

☆文明にはリミット(限界)がある。言いかえると、便利さにはリミットがあるんです。

☆この歳で、こんなに忙しく働いていたら、過労死してもおかしくないくらいです。そうならないのは、生きがいを感じてやっているからだと思います。

☆人の元気というものは「気」が、「心」がもたらすのであって、カロリーがもたらすのではありません。

☆まだまだ、僕にとって新しいことはたくさんあります。

☆自分の可能性というものを信じて、いきいきと生きようではありませんか。

 
日野原先生ならではのおことばですね。

2012年9月24日月曜日

習い事


田舎の子には少ないと思うのですが、幼い小学生が、1週間が足りないほど、習い事をしているというのを聞いたことがあります。ピアノに習字に絵画にバレエに学習塾に……と。親ごさんも大変でしょうが、子どもも大変なことでしょう。

私の子どもの頃も、習い事をする子はいましたが、クラスに5人もいたでしょうか。算盤とか、習字くらいで、たまに踊りを習っている子がいたくらいでした。

小学校4年生のとき、隣の席のA子ちゃんが、踊りを習っているのを羨ましく思って、親に無理をいったところ、「芸者になるんでなし、踊りなんかダメだ。お前は親に似て、字が下手だから、習字に行け」と言われ、有無を言わさず、近所に出来た習字の塾に行かされました。

そもそも習字の嫌いな子が、塾に通ったからといって、皆が皆、上手になったり好きになったりするとは限りません。好きこそものの……ということは、今も昔も変わらないでしょう。

10人程の生徒がいましたが、私はいつも一番後ろの長机の端っこで、身を縮めていました。センセの書いてくれた朱色のお手本を見て書くのですが、いつも直されてばかり。おまるがいただけることはありませんでした。

無理もありません。いやいや書いているし、自信はますますなくなっていくばかり。

習字のセンセは、一見、温厚そうな方でしたが、ときたま、ひどくヒステリックな声をあげました。生徒にではなく、若い娘のような奥さんに、です。

禍転じて福となる、というか、家に帰って父母にセンセのことを何度かつげて、行きたくないと言うと、「止めたいなら止めなさい」とお許しが出たのです。子どもの前で夫婦喧嘩などされたら教育にならぬと思ったのでしょう。

そのとき、親が付けくわえたことばは、「大きくなっても、字の下手なこと、親を怨むでないぞ」ということでした。怨むでないと言われたって、恨みたいので怨んでいるのですが、それにしても私は職業柄、字は毎日書いていました。それでもとんと上手くはならずじまいだったのです。血筋とは恐ろしいものであります。

私はセンセの夫婦喧嘩のおかげで塾を止めることが出来たのですが、A子ちゃんは、間もなく父親がいなくなって、踊りの稽古を止めざるを得なかったのです。「大きくなったら、また習う」と、言ったA子ちゃんの悔しそうな顔は、今も忘れられません。

 

2012年9月23日日曜日

政治家という仕事は……


政治家という仕事は、どちらに転んでも悪く言われるものなのだ、ということ、しみじみと思うこの頃である。

それはどうしようもないことらしい。
原発にしても、消費税にしても、反対する人がいるのだから、文句はいくらでも出てくる。あちらもこちらも立てることができないので、いや、中間をとっても、文句は両方から言われるのだ。

原発稼働と言えば反対され、ゼロにしていくと言えば反対され、何をしても反対は付き物と思わねばならないようだ。

早く計画を、と言われ計画を急ぐと急ぎ過ぎだと叱られる。言いたい放題の国民の意見。しかも、その都度、政府のやることに反対する意見を、殊更大きく報道しているマスコミ。

民主党がこつこつとやってきたことには、知ってか知らずか、口をそろえて「何もしてこなかった民主党」としたり顔でいう識者たち。国民も、「騙された」ということばかりを唱えている。

私等民主党を応援してきた者は、しっかりと、その仕事ぶりは見ているので、政権交代後、変わったことは、色々と知っている。学校教育一つ取り上げててみても、随分かわってきた。生徒数を減らして、先生も増やしている。貧富の格差で進学をあきらめるような子どもたちへの配慮もやってきた。

原発問題も東電問題も、多くの大問題は、長年のツケがプスプスと吹き出してきた後始末で、本来なら、50年の不始末の尻拭いをさせられているもので、自民党が民主党の悪口など言えた義理かいなと、思うのだが臆面も無く民主党をこき下ろす。長年踏み固めたヘドロを2年や3年で撤去できたり、改革できるものではない。

しかも、未曾有の大災害が起こったりして、てんやわんやの時代であるのに、まるで対岸の火事のような顔で批判ばかりを繰り返す野党。

私のような素人が考えても、誰が政権をとっていても、だれがやっても、どんどんと巧くことが運ぶとは思われないのだ。同じ国民の代表たる議員が、一歩も二歩も身を引いて、対応が遅いだの何だのと、言えた義理かと思う。野党だろうが与党だろうが、国民にしてみれば関係ないこと。こんなときこそ、経験の少ない民主党を、皆が一丸となって助け合っていくのが議員の仕事だろうし、正直に、「私らの後始末してくれてます。大変な仕事ですが、ようやってくれてます」と、言うべきやないの?と言いたい。
外交がうまくいかなくなったなら、日米関係がこじれたなら、経験豊富な人が、文句を言う前に、繕いができないのか、それくらいの働きができないのかと思うのだ。同じ日本の国会議員じゃないの。「失われた3年間」などと、よくいうよ、元総理のアベさんよ。(今、日曜討論のTVから、聞こえた)

こうなれば、民主党も、「この難題は自民党の後始末です」ということを、大きな声では言えないでしょうが、小さな声でいいから言ってもいい。あんまり紳士すぎるのもどうかと思う。紳士と野人では、闘いは勝負にならない。
これだけ多くの議員が、政権奪還に魚の目鷹の目になるのであれば、もう党など失くしてしまっていいとさえ思う。もし、これで民主党が終わり、再び自民党政権に戻るのであれば、日本の国は、永遠に政権交代は不可能な国になりかねない。自民党の体質は、なかなか変われないものが沈殿している。民主党を長い目で育てるのは、国民の義務でもあるはず。

古女が拳をふりあげて怒っても、しかたないのだが、ちょっとばかり、パンパンの腹の内のガス抜きをさせて頂いた次第。

再選された野田総理。党内での評価は大きいらしい。やることはやっていなさる証拠だろう。どうか、世論など気になさらずに、子や孫の将来を幸せにするような政治を、よろしくお願いします。

2012年9月22日土曜日

命日


今日はお彼岸。昼と夜の長さが同じになる日で、いつもなら9月23日だが、今年は、116年ぶりの22日だそうだ。

この、めったにないお彼岸が、夫の命日と重なった。

もう、まるまる17年。正直、17年もたつと、当時のことのほとんどを忘却の彼方に消してしまっている。何の心準備もなく旅立ってしまった夫を、ただただ可哀想に思って泣いたのだが、もう今となれば、私も夫のように、暖簾でもくぐりぬけるように、あっとあの世に逝きたいと思っている。

もう何年も前の話になるが、マイカーに夫の写真と位牌、そして夫の姉二人を乗せて、1週間ほど九州を走ってきたことがある。

夫や義姉たちは、たまたま父親がある会社の建築技師だった関係で、九州で生まれ大きくなっている。だから夫にしても姉にしても、九州は少年・少女時代の〝思い出宝庫〟なのだ。

そんな、思い出がずっしり詰まった場所を、気ままに尋ね歩いてきた、というわけである。

夫が生まれた長崎県佐々村(現在佐々町)の生家跡(借家)は、夫の戸籍謄本で、番地まで分かっていたのだが、なかなか見当らず、役場の方にお世話になって捜し当てた。新築の立派な家に変身していた。

小学校も、鉄筋の校舎になっていたが、運動場や中庭あたりの様子は昔のままらしく、「特別誂えの大きな学制服を着た一年生の弟の手を引いて、この中庭まで毎日連れてきたなあ……」という姉のことばに、〝相撲取りの子ども時代〟といったような、夫のランドセル姿が、ありありと見えてくるのだった。

また、家族でよく出掛けたという佐世保も見逃せなかった。「玉屋デパートで、玉屋ライスとアイスクリームを食べるのが楽しみだった」という姉の思い出を〝地で行こう〟と、玉屋をさがし、食堂に足を運んで、目的を果たした。

佐々村から、転勤で移った福岡県飯塚市外の社宅は、修理の跡はみられたが、その家だけが、そのままの形で残されていたから嬉しい。

「この家は、お父さんが設計したのよ」と、懐かしそうに姉は呟いていた。あまり、家の周りを行ったり来たりしたものだから、家の中から、老夫婦が出てこられた。理由を言う姉の気持ちが通じたのか、老夫婦が「中にどうぞ入ってください」と言ってくださる始末。それはご遠慮した。

家の裏には、昔は草の一本もなかったというボタ山が三つ、青い草を生やし、優しい山になっている。ここでも、腕白時代の夫の様子が、風のように運ばれてきて、昔日を彷彿とさせてくれた。

姉たちも、幾十年も昔のことをそうそう憶えているわけではないのだが、目にするものすべてが、歳月の裂目から飛び出してくる思い出と重なり、心は陽を吸い込んだ布団のように、温かく膨らんだことと思う。「この坂、こんなに低い坂だったかしら」などという姉、巻き戻したフイルムの中で、暫く心を揺らせていた。

「こんな素晴らしい旅行があったとは……」と、ひどく感動してくれ、誘いがいがあったというものである。

旅の途中、姉たちの希望もあって、観光地にも足を延ばしたが、それはそれとして、またいい思い出となった。なんせ九州は丸ごと火山というところだから、景色は大物だ。行くところ温泉だらけ。気のすむまで大自然を満喫することが出来た。

さすが九州ともなれば、どこも観光バスが横付けされている。この日のために働いてきたんだ……といいたげな、還暦を過ぎた顔の観光客が多い。そんな面々が、トントンとガイドさんの後を追い掛けていく。そんな人たちも、「ああ、極楽はこの世にあるもんや」と言いたげに、湯煙の中でにんまり足腰を伸ばしているのを見ると、団体さんであれ何であれ、旅は誰にとっても心の古里なのだ、ということがよく解る。大自然の前に頭を垂れ、出会いやふれあいに感動することで、心と躰に掃除機をかけたような気分になつてくるのも皆同じらしい。

夫が亡くなるちょっと前だったろうか。夫に「あなたの生まれた九州と、私の生まれた北海道を、車でゆっくり巡ってこない?」と持ちかけたことがあった。話が煮詰まらぬうちに、急に夫が先立ったものだから、この旅は、私には格別の思いがあったのだ。

うまく言えないが、家の中に居るようで居ないようで、私のなかで生きているようでいないようで……そんな風のような夫だったが、やっぱりこのような旅をしてみると、私のなかでいつまでも居座っているなあ、と思ったものだ。

心の底に細々と灯っていた〝人生を照らす灯〟も、ちょっとばかり明るくなったような気分で旅を終えたのを思い出している。

2012年9月21日金曜日

西田幾太郎の逸話


 
西田幾太郎といえば、私のような者でも知っている偉大な哲学者である。

彼には面白い有名な逸話がある。

京都大学教授時代のこと。

毎日、決まった道を散策していた。

巡回していた警察官が、毎日おかしなヤツが歩いているので、ある日、西田を捕まえて尋問した。

「お前、毎日何をしちょる。名は何と言うのか? 勤め先は?」

「・・・わしは、京都大学の西田というものだ」

警察官、それを聞いて京都大学の事務室に出向いた。

「あのう・・・こちらに、西田というコヅカイ(今は用務員という)はおるかね」

事務官は、「・・・西田というコヅカイはおりません。西田という、教授はおりますが・・・」と。

西田幾太郎が、毎日散策しながら思索にふけっていたという小路を、『思索の道』とよばれていたのが、いつしか『哲学の道』とよばれるようになった。

後世に名を残した偉大な哲学者も、その昔、警察官に用務員さんに間違われたというお話。()

堅い哲学者らしい、そして微笑ましい逸話である。

 

2012年9月20日木曜日

住まい~その2


私は、もう10数年前から、右膝を痛めていて、正座ができない。どうしても座らなければならないとき、たとえばお通夜にいって、亡くなられた方の御顔近くでお焼香しなければならないときは、お行儀が悪いが右足を横にずらせて横座りになるか、お尻をちょっと持ち上げて、中腰になるかしなければ出来ないのだ。

それとやはりトイレである。和式のトイレでは、何とか用がたせても、立ち上がるのがひと苦労で、よいこらしょ、ということになる。なかなか立ち上がれない始末。

おかげで今は、どこへ行っても洋式トイレが幅をきかせていて、不自由はないのだが、それでも築何十年というようなところでは、和式のトイレのままという事が多い。

戦後のしばらくは、洋式トイレはほとんどなかった。「外国人は、あんな腰かけた格好で、よくできるものだ」と言っていたのを思い出す。

その頃、旅先で、こんな話が耳にはいった。「あの腰掛けるヤツでは、出るモノも出んわ。しかたない、上にのぼってするしかない」と。土足で上にあがって用をたしたというのだ。

そんな時代でも、腰のまがった、膝のがくがくしたお年寄りはいたのだが、一体、どんな工夫をしていたのだろうか。

それが、いつとはなしに、じわじわと洋式トイレが侵入してきた。

今では、和式トイレの家庭は、ほとんどなくなっている。

最近出来た近くの大型店舗内のトイレは、ずらりと8つのトイレがならんでいても、そのうちの1つだけが和式で、あとの7つがお尻洗浄付きの洋式というようになっていて、和式でしかできないという方にとっては、まことに不便なトイレ事情となっている。ちょっと以前と、まるで反対になっているのだ。

最近の子どもたちは、和式トイレで用をたすことが出来ない子どもも多い。
まだ幼稚園に、洋式トイレがなかった時代、ある子どもが、昼休みに青い顔をして走ってかえってきて言うには、ウンチがしたくなったけど、学校のトイレでは出来ない。ひっくり返りそうで怖い、と。親は、それから何回か子を連れて、和式トイレのあるデパートに、トイレの練習に通ったという笑えない話もあった。
また、マーケットの和式トイレに入った子どもが、上手く出来なくて、汚してしまい、親が後始末していることもあるとか。

ホテルでも、もうウォッシュレット付きの洋式トイレに改善しているところがほとんどである。
「○○さんちのお便所は、お尻まで洗えるらしい」「へえー。どんなにして洗うんだろう?」なんて噂話をしていたのは、50年も前だったろうか。随分と進化してきたものだ。

洋式が増えると、トイレの汚れ方も違ってくる。旅の途中、列車や公衆トイレが汚れているくらい気持ちの悪いことはなかったが、今はもう、そんな心配はせずに旅ができる。ありがたいことだ。

今も、中国から帰った人の話では、一歩田舎にでると、とてもじゃないがトイレだけは……という声を聞く。中国旅行など、お金をくれても行きたくないと思う。

ただ、こんな話も聞いた。「日本人の足腰が弱くなったのは、ベットになって、蒲団の上げ下ろしをしなくなったことと、和式トイレを使用しなくなったからだ」と。
ほんとかなあ……。

 

2012年9月19日水曜日

芸術の秋


そろそろ芸術祭だの、秋の展覧会・・・といった行事が目白押しにやってくる。もう、手元には、何枚かの案内状がとどけられている。案内状を頂くと、万難を排して出かけることにしているのだが、現代書道などのように、見てもよくわからない・・というような、相手様に失礼なときもある。でも、書いた方の努力にくらべると、見て差し上げることくらいは・・・という気持ちがあって、理解できずとも気軽に出かけていくことにしている。

 

でも、気の重いのが「書道」と「活け花」展覧会である。なぜかというと、このふたつは、たいてい入り口に、美しい着物を召された受付の方が何人か並んでいて、立派な芳名簿に筆を添えて待ち構えていらっしゃるのだ。

 

もうそれだけで、私のような悪筆者は、字どころか、躰全部が萎縮してしまう。それでも、度胸をふるい立たせて、(たかだか住所・氏名ではないかぁっ!)と、気合を入れて筆を握るのだが、その間中、彼女達は、とてもお行儀よく、じいーーっと私の手元を見つめたままなのだ。心の内では、何を思っていらっしゃるかは、私にもようく分かる。その恥ずかしさったらない。

「すみません。下手な字でお帳面汚したわ」と、愛想笑いの一つもしながら、関所を通過する。きっと私の肩は、お尻あたりまでガクンと落ちているにちがいない。

 

「字がヘタぐらいで、何を言っているの?お前さんの字は、下手でも読める字じゃないか」と、私の中のもう一人のヤツが言う。字を書く商売だったと言ってもいいくらい、毎日書いてたのに、それでも巧くはならなかったのが字。巧くなるためのお稽古は、とうに諦めているが、いかにヘタをごまかすか・・・のお稽古は、毎度心掛けてきたのだが……。

でも、ごまかしはどこまでもごまかしで、ヘタはどこまで行ってもヘタなのだ。

 

こんな私だが、夫が生きていたときから、赤熨斗袋、蓮熨斗袋の表書きは、私の役目としてきた。夫は、私に輪をかけた悪筆だったし、一人前になった息子も、更に大きな輪をかけなくてはならないほどの折れ釘流である。

そんな一家だったから、少なからず、息子の結婚相手に期待していたのだ。

 

やがて息子も家庭を持ち、同じ庭に住んでいるのだが、期待通りにはならなかった。やはり、お隣りさんの熨斗袋まで、しばらく書いてきた。お嫁さんがどうも私を立ててくれているようだった。私ほどの悪筆ではない。(笑)

ところがである。どうしたわけか、孫ふたりは、なんと、字を書くのが好きで巧いのだから驚く。特に下の孫は、金文字で『特選』と書かれた賞状をもらってきたことも何度かあった。

こういう現象を、「とんびが鷹を産んだ」というのだろう。とんびは、鷹の持ち帰った賞状に目が眩むらしく、目を糸のようにして何度も眺めていた。

今は、自分独りの熨斗袋書きで済んでいるのだが、早晩嫁か孫の手にお願いすることになるだろう。手の節々がそう言っている。

 

2012年9月18日火曜日

優しい人たち


台風の余波で、昨日は一日中、雨と風に見舞われました。

そんな中を友人のかっちゃんが、15Kの道を車をとばして、散らし寿司を持ってきてくださいました。優しい友達を持って幸せです。私が、大の散らし寿司やトウモロコシ好きということを知ってから、手製の美味しい散らし寿司やトウモロコシを持ってきてくださるのです。

手製といっても、かっちゃんが自分で作るのではありません。隣家の弟のお嫁さんF子さんが、かっちゃんの姉妹やら、私のような友達のために、たくさんの散らし寿司をつくってくださるのです。かっちゃんは、それを運んでくださるのです。かっちゃんは、こんな美味しい散らし寿司は、よう作りません。聞かずとも分かっています。

F子さんは、気の優しい方です。ほんとに神様みたいな方なのです。F子さんにとっては、かっちゃんのお姉さん、その小姑さんが病に倒れて、その連れ合いさんが、介護をしているそうですが、その方がちょっと体調を崩したと聞くと、「そらいかん、何かおかずつくるわ」と、すぐにそんなことばが出てくる方なので、心からの優しさでしょう。同じ小姑のかっちゃんも、義妹のF子さんには、感謝の気持ちで頭はあがりません。

こんな絆って、本当にいいものですね。

ま、こうした家族の方々は、皆さんが優しい方なのです。かっちゃんも、とても優しい方です。私が散らし寿司を頂くので言うのではありません。彼女は、筋ジスの生徒を教える学校に勤めていました。私もここでかっちゃんと2年、一緒でした。学校と病院は隣接していて、生徒は、病院から通学しているのです。彼女は退職後も、毎日のように、病棟をおとずれて、生徒の相手をしたりしていました。生活が大変な卒業生の援助もしてきました。私より年下のかっちゃんですが、教えられることはいっぱいあります。

 
毎年行っているのですが、今年もまた秋のよい季節になると、かっちゃんを乗せて、高松まで行きます。高松には、卒業生が病と闘っていて、行くたびに感動の一日となります。
筋ジスという病気には、タイプがあるのですが、進行の早い、命は短いとされているタイプの筋ジスの青年I君が、愛する人と結婚し、パソコンを使って、独自の絵画を描いています。そうした前向きの生き方が、医師がおどろくほどの生命力を生み出しています。人工呼吸器をつけながらも、まわりのボランティアの方々の力も借りながら、素晴らしい人生を送っています。

I君を見舞う、というよりは、私は生きる力を頂く、というのが正しいでしょう。こうしたことも、私ひとりでは考え付かなかった事です。かっちゃんのおかげです。

I君とよく似た方が、仙台に居られます。Y君です。この方も教え子です。彼も、筋ジスという病と立ち向かいながら、絵を描いています。もう、立派な絵を描いています。

二人に共通していることは、愛する人と、家庭を持ったということと、生命力のすばらしさです。愛する人のために、頑張るということは、何かが違うのでしょうね。生きる目的でしょうか。

このY君も、かっちゃんの応援に、感謝していることでしょう。かっちゃんの部屋には、何枚ものY君の昔の絵が眠っているはず。多分、Y君の生活が大変だった頃、かっちゃんが買い取ってあげた絵でしょう。

かっちゃん、きっとそのうちY君の絵、すごい値がつくよ。(^^)

 

2012年9月17日月曜日

反日デモ


中国で、えらい反日デモが起こっている。デモというより、暴動、強盗というようなことだ。そもそも、尖閣諸島の買い取りを言い出したのは、石原慎太郎東京都知事だが、国が買い上げということになったことで、火に油をそそいだのだろう。眠れる獅子の尾を踏んで、獅子をゆり起してしまったのか。

それにしてもひど過ぎる。貴金属目当てに、計画的に破壊、侵入したりしているところもあるらしい。現地の日本企業の中には、再起不能の会社も出てくるのではなかろうか。

石原さんが、4月にワシントン市で「日本人が日本の国土を守るために、東京都が購入する」と発言して、東京都で寄付金を15億円近くも集まっているということは、日本人も、「こんちくしょう」と、中国にたいしてハラを立てているからだが、日本人は、そういう野蛮なことはしない。

民主党がとろとろしているからだと言わんばかりの世論だが、この問題は、民主党だけの責任ではない。いや、正しくは、今までの歴代の自民党政権は何もしてこなかった、問題を先送りしてきたためのツケだろう。
何かにつけて、溜まっていたウミが去れ目からふきだしているが、
悪い時に政権交代したものよ、と民主党を気の毒がってくれる方がいる。しかし、悪い時だからこそ、交代したのだから、お尻ぬぐいはいたしかたないと思うほかない。

ある評論家の方のおっしゃるには、中国政府がそういう暴動に強く取り締まりをしないのは、日本とアメリカの関係がよくないところに付け込まれたのだと。日本とアメリカの関係がよくない、だから日本に対して多少変なことをしても、アメリカは文句を言わないだろう、と思わせてしまったのだ、とおっしゃる。そしてさらに、日本とアメリカの関係を悪くしたのは鳩山さんだとか。鳩山さんの言動は、もう信じがたいが、鳩山さん独りの責任転嫁は気の毒なことだ。

まあ、我々のような者には、真偽のほどはわからないが、それにしてもだ。中国の暴動は呆れてしまう。いくら中国人が、政府に対して不満が爆発寸前にまで膨張しているからといって、このような暴挙でガス抜きされたのではたまったものではない。つくづく野蛮な人種と思う。
 
こうした大変な時、民主党も自民党も代表選に目の色が変わっている。こうした選挙にも、総理の器には?と思うような、売名行為のような立候補者が出てくるからこまったものだ。
誰がふさわしいリーダーなのか。結果を待つしかない。

 

2012年9月16日日曜日

芸術と愛と奉仕


私の手元に、一通の手紙がとどいています。ケニアからの「モヨ・チルドレン・センターを支える会」からのモヨ・通信22号が送られてきたのです。
このセンターの主宰は、松下輝美さんという日本人です。そして私は、その会を支える会の賛助会員の一人です。年会費3.000円で、気持ちだけのことをさせてもらっています。

彼女は、昔、徳島の神山町に住んでいました。傍目には、不便不自由な神山の山中で、古家を借りられて、お連れ合いさんとつつましく暮らしておられました。

電気はありましたが、裸電球1つ。ラジオ1台。水は山から落ちてくる水をカメにためていました。トイレは、外の掘立小屋のような昔のトイレ。

生きる目的を、「芸術と愛」に、ぐっと絞り込んでおられ、お連れ合いさんは絵を、彼女は陶芸をされていました。そして生活のため、お連れ合いは1週間のうちの4日ほどを山の中でのアルバイトをなさっていました。

無垢な青年のような理想を、幾つになっても失わずに生きてきたお二人でした。当然のことながら、お二人はいつも輝いておられました。仲の良い友人同士といったようなお二人。照美さんの誕生日には、宝石ならぬ、宝石のような詩を贈る、といったような、素敵なお二人でした。

私は、まったく知らなかった彼女のところへ、一度お伺いしたことがありました。私の友人が、彼女のことを知っていて、こういう方がおられるから、一度、連れていってほしい、ということで、私の車で出かけたのです。

見知らぬ私どもを快く迎えてくださいました。私はその生き方に感動したものですから、その後、何度か文通いたしました。

そんなお二人に、突然の不幸が起こりました。平成4年の9月、お連れ合いさんが、アルバイト中、機械もろとも谷底に転落して亡くなられたのです。

実のところ、残された照美さんが、はたして立ちあがれるのかと、心配しておりました。が、見事に立ち上がりました。

照美さんは、お二人の『二人展』を、徳島と東京で開くというのです。一年間、それに向かって歩まれました。私は、知人たちに、その展覧会をぜひ観ていただきたいと、手紙をあちこちに出したのを憶えています。

展覧会を、無事になしとげられて間もなく、照美さんは、彼の遺骨を持たれて、遺骨を埋める場所探しの旅に出られたのです。それは、アフリカと聞いておりましたが、どこをどう回ったのかは、よう聞きませんでした。

便りのないまま、何年か過ぎました。あるとき、彼女のことを知り、驚きました。

ケニアの貧しい部落で、恵まれない孤児たちのために、命の危険もかえりみずに働いていたのです。

その甲斐あって、今はケニア政府より、国際NGOとして「ヨモ・ホーム」が、正式に認可登録されています。

日本からの寄付をつのって、学校もたてたり、その活動は、素晴らしく、日本とケニアを何度も往復して、支援活動につとめられています。

ここまで書きますと、もうご存じのお方もいらっしゃると思います。何度かテレビでも、紹介されたりしましたから。

世の中には、素晴らしい方がいらっしゃること、あらためて感心しております。

私ごとき者には、真似ごともできませんが、せめて彼女のご健康を祈らずにはおれません。

 

2012年9月15日土曜日

温暖化


もうじきお彼岸というのに、昨日は真夏日のような陽射しでしたが、今日もそうなることでしょう。

TVで、全国の天気予報図を見ると、北海道でも、30度の真夏日のところがあるではありませんか。平均気温の5度から8度も上回る気温が続いているようです。

北海道で子ども時代を送った経験があるので、想像できない暑さです。

温暖化の原因については、CO2とは関係ない、太陽が、活動期にはいったのだ、という節もあって、私らには、その真偽のほどはわからないのですが、これだけの人類が、電気や石油を使っているのですから、地球を取り巻く空気の温度が変わりないはずはないし、CO2の影響だって、無いとは言えないと思うのです。

「地球が危ない」ということは、肌で感じられるほどになっている昨今です。ようは、どちらのせいだろうが、確実に温暖化のすすんでいる地球ですから、やはり、少しでも、地球温暖化防止を意識して生活をしなければならないと思います。

少なくとも、私も、温暖化に加担している犯人のひとりなのですから、なんにせよ私個人は、電気代、灯油代、ガソリン代、水道代、ガス代、ゴミ袋代を減らすことが大切なことだろうと思っています。

これは、大袈裟に言ってますが、「地球のため」とか「温暖化を食い止めたい」という意識というよりは、言ってみれば「自分のため」でもあります。
ある方が、こんなことをおっしゃっていました。
「腹八分のほうが、お腹いっぱい(もしくは食べ過ぎ)よりも100倍気持ち良いものです。この真実が身にしみてからというもの、何事も『~し過ぎ』の生活は、もう考えられなくなりました」と。

こうした考えは、立派なことと思います。
そこまで真似はできませんが、少しは腹八分の生活を見習うべきかと思うこの頃です。


2012年9月14日金曜日

高倉健さん


役者に惚れることは、めったにないのですが、高倉健さんだけは、大好きな役者さんです。先日NHK番組で、高倉健さんのスペシャル番組がありましたが、私の知らなかった一面も写されていて、益々好きになりました。

私は、あまり映画を見ないのですが、高倉健さんの魅力は、どの俳優さんもかなわないと思っています。

早く観に行きたいと思いつつ、行っていなかった彼の映画「あなたへ」を、やっと今日(9月13日)見てきました。すばらしい映画でした。

彼は、20年くらい前に、「あなたに褒められたくて」という随筆集も出しました。実にいい本でした。その中の『ウサギの御守り』という散文詩をここに転写します。彼の性格がようく分かると思います。

 

『ウサギの御守り』

  人が人を傷つけるとき、

  自分が一番大切に想う人を、いや、むしろ

  とっても大切な人をこそ、

  深く傷つけてきたような気がする。

  この人はかけがえのない人なんだ、

  もうこんな人には二度とは会えないぞ

  と思うような人に限って、深く傷つけるんですねえ。

  傷つけたことで自分も傷ついてしまう。

  そしていつのころからか、本当にいい人、のめり込んで

  いきそうな人、本当に大事だと思う人からは、できるだけ

  遠ざかって、

  キラキラしている思いだけを

  ずっと持っていたいと考えるようになってますね。

  卑怯なんですかねぇ。

  くっつかなければ、別れることはない。

  全然その人に会うこともできない、電話すらできなくても、

  自分の胸の想いというのは、

  全くなにかタイムカプセルにでも入ったように

  変わらないんですよね。

人にはそれぞれ、いろいろな、しがらみとか事情とかあって。

そのときには自分はこうですと言えない

というのありますよね。

何年かたったとき、

今なら言えるんだけどと思うこともあるんですが、

時の流れが早すぎて、

向こうはもう切り替えて違うパートナーを

探しているとかですね……難しいですね、世の中。

男と女の話を語る資格は、僕にはありませんが、

でも女性を想わない訳ではないんです。

うまくいかなかったことが、

みんないやな思い出かというとそうでもなくて、

うまくいってない、いや、いかなかったんだけど、

ちょっとした瞬間、昔よく聴いた曲とか、

立ち止まった景色とか、

目をつぶって思い出すと

ジンとしてくることがあるんです。

 

そしてこれからお話しするそのウサギの御守りは、

ある人からのお土産でした。

その人が海外へ出たとき、

空港の売店で買ってきたものだという。

この御守りをその人がぼくだけに

買ってくれたものなのか、

それとも何本も買って、そのうちの一本を

ぼくにくれたものなのか、ぼくは知らない。

でもぼくにとって、

それはただの御守りにはどうしても思いたくなかった。

いつも身近なところに置いておきたい

と思っていつも使うカバンに取り付けた。

どんな丈夫な毛皮でも毛が抜ける。

それがたまらなく勿体なくて、考えたあげく、

御守りをすっぽり包むカバーを皮革屋さんに頼んで

作ってもらった。

何をやっているのか、めめしいことをして、

と自分自身がおかしくも思った。

でもそのときはただの一本の毛も

その人の気持ちを減らすような気がして惜しかった。

そのウサギの女性と

なんとかまたなりたいなんて思って、

その御守りを持ち歩いてるわけではないんです。

ええ、かけらもないんですよ、そんな気持ち。

でもあのときのあれをもらったときの、ぼくの想いは、

ぼくにとっては

宝石のようにキラキラしているということです。

アメリカ・ヨーロッパ・南極・北極・アラスカ・アフリカ

五カ国、辺境の国々への数十回を超す旅で乗った

飛行機の離着陸する瞬間などは、

無意識のうちに、その御守りを握りしめたりして、

ずいぶん一緒に旅をしました。

そんなに大切にしていたものなのに、

1990年の7月、

映画祭で中国へ行ったとき、失くしてしまった。

自然に取れて落ちてしまったのか、

誰かが持っていったのか、

あんなものを盗る人はいないはずだから、

落としたに違いない、

懸賞金をつけるから捜してください、などと

同行の人たちに冗談めかして頼んだが、

ついに出てこなかった。

 

そういうことなんですね。

自分でもどうにもできない心。

……人を想うということは。

 

「愛するということは、

その人と自分の人生をいとおしく想い、

大切にしていくことだと思います」

『幸福の黄色いハンカチ』の北海道ロケ中に、ぼくが、

山田洋二監督に、愛するということはどういうことで

しょうかと、その質問に対する答でした。