今、4日連続のNHKTVドラマ「東京裁判」を放映していますが、この裁判、当然のことですが当時の大人たちは、随分関心を持ってラジオ・新聞で見聞きしていました。戦後も遠くなり、「戦争を知らない子どもたち」という歌が流行ったのは、昭和四十年頃でしたが、今や戦争を知らない大人たちの時代となりました。戦争を知っている大人たちは、後期高齢者という枠に入って、表社会からは、ほとんど身を引いています。たまに、戦争体験を皆さんに聞いてもらい、平和の有難さを説いて居られる方を見ますが、そうした活動をされている方も、僅かとなりました。
私は、終戦時は15歳だったので、戦中戦後の記憶はまだはっきりと記憶に残っています。父は召集令状で戦地に赴きましたが、無事帰還していますし、直接女子挺身隊に行ったわけでもなく、空襲で丸裸になったわけでもありませんが、戦争の苦しみや馬鹿らしさは、骨身に沁みています。
懐かしいコトバに、戦後の【筍生活】というのがあります。持っているもの、身に付けたものを一つ、二つと売りながら生きるための食糧を求めたりしながら、生活していくことです。私の家などは、インフレで、財産の殆どが紙屑のようになってしまい、お金も売るものも無かった時代を、何とか生き抜いてまいりましたから、それは大変でした。
やっと食べる物に不自由がなくなり、自由にモノが買えるようになったのは、私が教員になって、しばらくしてのことだったと思います。父や母が、がむしゃらに働いて、子どもたちを大きくしてくれたのです。
こうした苦労を知っている私は、今の時代の贅沢な生活を、喜んでばかりはおれない気持ちにさせられます。
戦後、家庭は、核家族というかたちに変容していきました。独立した若者たちは、高度成長期ではありましたが、共働きをしながら子どもを食べさせるだけが、精いっぱいでした。母親たちは、経済的自立、あるいは生活を豊かにするためにと、家をカラッポにして働きました。『鍵っ子』という言葉も生まれました。そのうち、ちょっと生活に余裕が出来てくると、贅沢の味を知らずに大きくなった親たちの愛情は、子どもに不自由はさせまいと、モノだけはどんどんと買い与えました。子どもの心を育てることは二の次になったように思います。
そうした子どもたちが、子どもを生んで親になったのです。はたして、うまく我が子の心を育てることが出来たのでしょうか……。
ある記事によりますと、非行に走る子どものほとんどの家庭に、仏壇がないといいます。仏壇はなくともテレビはどこの家庭にもある時代です。子どもたちは、毎日愛情の薄い、テレビやテレビゲームにお守りをしてもらっていたのです。そのテレビやゲームたるや、スイッチ一つで、極悪非道な犯罪、人殺しが、まるで日常茶飯事のように画面から放射されてきます。自分とは無関係なはずの事件が、何でもない、当たり前のことのように、幼い頭に刷り込まれていても不思議ではありません。
その結果、一部とはいえ、子どもでありながら、殺人、強盗と、まるで想像もつかないほどの犯罪をやってのけるようになったのでは・・・と思えなくもありません。
こうした現実に追い討ちをかけてきたのが、戦後教育だったようにも思います。履き違えた自由主義や個性尊重がどういうことになったかは、結果が物語っています。
いやな予感も頭をよぎります。今は、わずかの子ども達の引き起こす事件ではありますが、将来は、もっともっと増えていくのではないかと思うのです。一部の子どもの万引き、援助交際といったことなども、まるで子ども全体の問題のように報じられることで、健全な子どもたちまで、汚染されて行くような危険を感じるのは、私だけでしょうか。
戦後七十年とはいえ、長い歴史の中での、たった七十年間での、世の中の変わりようが、あまりにも大きく、そしてあまりにも嘆かわしいことに、なすすべのない一老人です。