2012年11月30日金曜日

停電


1127日の北海道の暴風雪で、停電があちこちに起こり、中でも、登別では、鉄塔の倒壊で、停電が何日も続いて、大変なことになりました。やっと、本日1545分に全面復旧したということですから、3日間も、この寒いときの停電は、さぞ震えあがったことでしょう。

私が12歳までいた当時の北海道は、殆どが石炭ストーブか、薪ストーブでしたから、冬場の停電があっても、震えることはありませんでした。(雪が降りますと、電線に雪が積もって、その重みで垂れさがり、停電するのです。)

今はもう石炭ストーブなど、ほとんどありませんし、薪ストーブも、田舎の薪が手に入るところでは使っているでしょうが、ほとんどは煙突を付けた石油の大型ストーブで暖をとっているので、停電となると、何の役にもたたぬストーブになってしまいます。幸いにも、電池で火をつける式のストーブでもあれば、少しはましでしょうが、なんせ、0度以下になる北海道では、あまり役にはたたないのではないでしょうか。

北海道の人達は、寒さには、あまり強くありません。ちょっと寒くなると、すぐにストーブをつける習慣なのです。真冬でも、裸になれるほど部屋を温めます。私の家でも、寒い日は、煙突の半分も真っ赤になるくらい石炭や薪をくべてガンガン燃やしていました。

私たち一家が、四国に来て初めての冬を迎えた時は、とても寒くて北海道では経験しなかった辛い思いをしました。火鉢と炬燵しかないのですから。冬の寒さ対策がこんなにも違うものかと思いました。

今のように、各家庭の暖房が十分整ってきたのは、戦後、かなりして、石油ストーブや冷暖房付きのエアコンなどが普及してからでした。

停電中、登別の方々は、「電気がこんなにもありがたいものかと、つくづく思いました」とおっしゃっていました。

私たちの生活は、電気がないと、水も使えない、トイレも使えない、ご飯も炊けない、電話も使えない、という状態になってしまうのですから、情けないものです。あまりにも、便利になり過ぎた生活に、慣れ切ってしまった私たちです。こうした生活を50年前に返すことは、なかなかできそうにありません。いろいろと考えさせられた【停電】でした。

2012年11月29日木曜日

小さな幸せ


「あなたは幸せですか?」と尋ねられたら、私はすぐに「まあまあ、幸せと思っています」と答えます。「幸せ」というのは、その人の個人的満足感というか、思いであって、他人の目では測れるものではありません。それぞれの持っている幸せ袋に、何を入れているかによって、違ってきます。

私の「幸せ袋」の中には、大したものはありません。でも、けっこう入っています。まず「自分も家族も、まあまあ健康」という幸せがあります。贅沢しなければ、何とか暮らしていけるという「生活の安定」といった幸せ。家族や周りの人たちと、いつも「心おだやかに過ごせる」そして、「まだやりたいことがある」「いい友人に恵まれている」などの幸せが入っています。改めて取り出して並べて見れば、袋の中身はいたって平凡です。でも、この平凡の中に満足できる自分があってこその幸せ、というのが本当のところでしょう。

身のほどを知る、もっと沢山を望まない、他人さまを羨まない、急がず、焦らず、自らの足にあった速度を守り、やりたいことだけコツコツとやっていく、……こうしたことが、私の生き方なので、体調を崩すようなストレスもなく、いたって平凡な毎日です。トシを考えず、欲張りすぎて忙しく、ゆとりのないことが、問題かもしれません。

誰もが行き着く先が、「死」であることを思えば、争うことの無意味さ、競い合うことの無駄、こうしたことをしっかりと噛みしめて生きていきたいと思っています。

世の中には、いろいろな老人がおりますが、多分、幸せ袋に詰め込んでいるものが、あるいは詰め込もうとしているものが、よく似たもののように感じます。
過去に詰めたものが抜け落ちたり、偽物だったり、思い違いだったり……ということがあったにしても、今は、それぞれが、ささやかであっても、「本物の幸せ」を求めていらっしゃるのではないでしょうか。


「幸せは歩いてこない だーーから歩いて行くんだよーー」という歌がありましたが、元来幸せになるためには、自分から歩いていくことが大切なんだと思います。目の前に落ちている小さな幸せを拾うことが出来るか、綺麗な小石を拾っても、いい音楽を聴いても、幸せを感じ、感謝できるか、そのへんで、どうもその人の『幸せ袋の重さ』がきまるのではないかと思うのです。 

 

2012年11月28日水曜日

寒い朝


寒くなると、身を縮ませているせいか、気持ちまで縮んでしまいそうです。徳島も、山間部の今朝は氷点下になっていました。と言いましても、平年気温を下回っているわけではありません。たかだか数十年前の11月末の寒さは、かなりの寒さだったように思います。
家の作り、暖房器具、衣服、といったものが、以前とはかなり違うこともあるのでしょうが、それでも平地であっても、洗濯ものが凍って、手ぬぐいが薄焼き煎餅のように固くなったこも、めずらしくはありませんでした。

今朝、テレビを見ていますと、この100年ほどで、海水の温度が1度以上あがっているとのことでした。たった1度少々、と思うのですが、そのおかげで、海中の生き物の生態系が、変わってしまうようで、私のような素人は、「へえー、そんなものなのかなあ」と驚きでした。
海の中の緑の海草が、少なくなつて、砂漠化しているのだそうです。

それは、アワビのような生き物にとっては、食べ物がなくなっていくということですから、死活問題で、すでに、アワビの捕獲は、ぐっと減少してしまったそうです。
その原因というのは、海水の温度が低かったときは、冬場は海の底でじっとしていたウニどもが、冬がきても、じっとしておらず、海草をたべ、どんどん増え続けた結果といいますから、【風が吹けば桶屋が儲かる】じゃありませんが、地球の温暖化が、ウニの増加、そうして海底の砂漠化、アワビの激減と、さまざまな変化をもたらしている、ということで、たかが1度、されど1度、でありまして、1度くらい、などと言ってはおれないのが現状のようです。ウニの捕獲作業もしているらしいのですが、この温暖化は、今すぐにどうにかなるものでもないだけに、困った現象です。

私は、死ぬまでアワビを食べなくても平気ですが、コトは、アワビだけの問題ではありませんから、いろいろな不都合が起こってきます。すでに、問題は出ています。せめて私たちの生活の中で、温暖化防止に役立つ省エネなどをこつこつと実行していくことしかなさそうです。

2012年11月27日火曜日

責任


以前、ブログにも書いたかもわからないのですが、何度でも書きたい思いなので、書いておきます。最近、一握りではありますが、戦争を知っている者の孫や曾孫たちが、「これが子どものすることか?」というような社会的問題を引き起こしています。親の責任を問うならば、その親を育てた祖父母の責任も問わねばならないかもしれません。考えようによっては、これも戦争に負けたための結果だと言えないこともない、と私は受け止めています。

戦後の親たちは、子どもに食べさせるだけが、精いっぱいでした。『鍵っ子』という言葉も生まれました。
そのうち、高度成長期に入って、ちょっと生活に余裕が出来てくると、贅沢の味を知らずに大きくなった親たちの愛情は、子どもに不自由はさせまいと、モノだけはどんどんと買い与えました。子どもの心を育てることは二の次になったように思います。
 
そうした子どもたちが、子どもを生んで親になったのです。はたして、うまく我が子の心を育てることが出来たのでしょうか……。ある記事によりますと、非行に走る子どものほとんどの家庭に、仏壇がないそうです。核家族というのでしょうか。母親たちは、経済的自立、あるいは生活を豊かにするためにと、家をカラッポにして働きました。仏壇はなくともテレビはどこの家庭にもある時代です。子どもたちは、毎日愛情の薄い、テレビやテレビゲームにお守りをしてもらっていたのです。そのテレビやゲームたるや、スイッチ一つで、極悪非道な犯罪、人殺しが、まるで日常茶飯事のように画面から放射されてきます。自分とは無関係なはずの事件が、何でもない、当たり前のことのように、幼い頭に刷り込まれていても不思議ではありません。
 
その結果、一部とはいえ、子どもでありながら、殺人、強盗、虐めと、まるで想像もつかないほどのことをやってのけるようになったのでは・・・と思えなくもありません。

こうした現実に追い討ちをかけてきたのが、戦後教育だったようにも思います。はき違えた自由主義や個性尊重がどういうことになったかは、結果が物語っています。

いやな予感も頭をよぎります。今は、わずかの子ども達の引き起こす事件ではありますが、将来は、もっともっと増えていくのではないかと思うのです。一部の子どもの悪事なども、まるで子ども全体の問題のように報じられることで、健全な子どもたちまで、汚染されて行くような危険を感じるのは、私だけでしょうか。

戦後六十数年とはいえ、長い歴史の中での、たった六十数年間での、世の中の変わりようが、あまりにも大きく、そしてあまりにも嘆かわしいことに、なすすべのない一老人です。

これはやはり、政治も、しっかりと教育に力をいれていただかねばと思います。

何もしていないと言われる民主党ですが、長い自民党政権時代になしえなかった教育の改革をしてくださいました。進学の格差を縮めたり、35人学級で、教育体制の充実を計ったり、こうした政治が、これからも、人作りに、まさにコンクリートから人への政治がつづけられることを、祈って止みません。そして、戦争の悲惨さを繰り返すような、平和日本を覆すようなことのないよう、私たちは、目を光らせていこうではありませんか。

 

2012年11月26日月曜日

軍隊を作るの賛成?


今朝の新聞をみて驚きました。自民党支持率が24%、民主10%だというのです。このまま、自民党の安倍さんが、一国の主になれば、平和憲法の中の第9条を改正し、自衛隊を軍隊にして、いくことになるのです。

日本は、こうした方向にすすんで行ってもいいということなのでしょうか。

出世魚と呼ばれている魚があります。成長すると名が変わっていく魚のことをいいます。

自衛隊も、名が変わってきました。自衛隊の元祖は、警察予備隊です。それが保安隊、自衛隊、そして今度は軍隊らしいです。

安倍さんが、はっきりと言っています。自民党は、恐ろしいことを考えている、と言っても過言ではないのです。自民党のお偉い方たちのほとんどは、世襲議員で、親も自分も戦争の苦労など知らないのでしょう。

自衛隊は、今のところ、憲法9条というイケスの中のものですが、そのイケスも取り壊してしまうらしいのです。

このイケス、かなりの犠牲でこしらえたものなので、その犠牲を強いられた者にとりましては、平和の有難さが身にしみこんでおるものですから、怖くてなりません。「戦争を怖がるのは腰くだけ」というようなことをいう太陽族もいます。そんな人たちは、戦争を知りません。昭和一けた生まれであっても、家が裕福であったりして、悲惨な生活はしていません。こんな人たちが、政治家になって、核をもったり、軍人を戦争にかりだしたりする。そんな人たちの子や孫だけで、戦争してくれるのでしょうか。平和ボケした人たちが巻き起こす戦争に巻き込まれるのは、まっぴらです。一時のパフォーマンスに目がくらんで、古い時代に逆行しようとしている大衆に、大手新聞もメディアも、何の警笛も鳴らさないのは、どうしてなのでしょうか。

せっかく、この3年半で、多くの庶民に優しく、人間らしい政治へと、足を地につけて民主党はやってきたと思います。せっかく変わりつつあったのに、残念でなりません。
(昨日に引き続き、私め、歯ぎしり古女となりましたが、お許しください。m(_ _)m)

 

2012年11月25日日曜日

討論会


皆さんに、無理をするなと言われているのですが、今日は、多くの方に、お薦めした関係で、私は、義理にでも出席しなければならない会がありまして、市内の駅前ホテルに出かけ、エネルギー問題、社会福祉、経済格差、その他についての、田原総一郎氏と、仙谷由人氏の討論を聞いてまいりました。
討論会といっても、田原氏は、冷静な政治評論家として、前々から仙谷氏を民主党第一の重要な頭脳であり、仕事をしてきた政治家として、高く評価していますから、私たちに、これも仙谷がした、あれもしたと、私たちの知らないような仕事ぶりを披露してくださり、仙谷氏に「間違いないね」と詰め寄ります。仙谷さんも、ご自分が公表していない働きを次々と言われると、恥ずかしそうに、「ま、そうしなければ、……」と、隠し事を暴かれたみたいに恥ずかしそうな仙谷さんでした。他人さんがしたことまで、自分の業績にしたがる人も世の中にはたくさんおられますが、そんな方には、少しでも見習っていただきたいものです。

田原氏には、仙谷氏のいない民主党など、魅力ないということで、心から仙谷を絶対に落とすなと真剣に訴えるわけですから、仙谷氏も、やつとおしまいには、「私も、この3年半は、この傾いた日本を何とかしなければと、全力で支えてきました。その働きは、自分では、それなりのことはやってきたと思っています」とおっしゃいました。(控えめでねえ。もっと威張ってくださいな)

ある時は官僚を叱り、ある時は煽て、また東電を怒鳴りつけと、ある時は法を無視して被災地を助ける、その手腕は想像が出きます。

私は初めから、こういう人物は、日本の国にとっては、大切な人であるし、将来は、大国柱になる方だ、という信念でしたが、間違いなかったことが、田原氏の口から、証明していただいたような、とても嬉しく思いました。
 
仙谷さんは、そうしたご自分がなさってきたことを、自慢したりしないので、私たちには、あまりとどきませんでした。ときおり、秘書さんや、他の議員さんから、聞くことができるのですが、あらゆる分野での改革や、行動は、仙谷さんがいなくては、できなかったことが、あまりにも多く、驚きました。これは何としても再び政界に戻っていただいて、引き続きやっていただかなくてはと、強く思いました。間違った評価をされ、(例えば「原発をなにがなんでも使おうとしているのが仙谷」と言ったように)叩かれることが多くて、非常に苦戦の選挙となる様子です。

まだ私は、「徳島県人だって、良識ある方は、たくさんいらっしゃるはず」という思いがあります。もし、そんな良識がない徳島ということであれば、私はもう、日本の政治は、いや、日本人はあかん、と、匙を投げるでしょう。そうなればもう一切政治には口を出さないつもりです。

2012年11月23日金曜日

休みます。

ちょっと無理してしまいました。
熱がでてますので、休みます。

2012年11月22日木曜日

いい夫婦 その1


今日は、ゴロ合わせで、【いい夫婦】の日だそうです。マーケットの食品売り場にも、この日のために、2人前のお刺身パックや、お寿司のパックが並べてあるので、イヤでも意識させられます。()

いい夫婦とは、どんな夫婦なのか、というと、それはもう、個人の好みであって、こうでなければならない、というようなものではないと思います。妻と夫の思うことが違うかもしれません。最近のように、離婚が多くなりますと、皆さんの結婚の理想が、かなり高度な難しいものなのかしらと思ったりするのですが、そうでもなさそうで、ただたんに、辛抱が無くなったのかもしれません。

ま、私らが一般的に【いい夫婦】だなあと思うカップルは、お互いの相性がよくて、尊敬し合っていて、それぞれに足りないところを、補いあっているような、そんな夫婦は傍目にもいい夫婦だと思います。

ただ、外目には、理想のカップルに見えていても、ご本人たちは、「忍の一字です」と仰る方もいますから、ご本人が、「私たちはいい夫婦だね」と思われている夫婦こそが、いい夫婦ということでありましょう。

以前、ある雑誌に載っていたのですが、「こんど生まれかわってきたときも、今のお連れ合いを選びますか?」という質問に、色々な答えがあって「一応は、声をかけてみます。断られたらもっといい女を探します」とおっしゃったのが井上靖さんだったかな。なるほどと笑いましたが、案外、「同じ相手を選ぶ」と答える方が多く、それは、「誰を選んでもそんなにかわりはないので、めんどくさい」と。ま、現状にあまり不満の無い証拠でしょうね。そんなものかもしれません。

夫婦というものは、長い山坂道を一緒に歩んで行く相手なので、月日を重ねていくうちに、味もでてくるし、燻銀のような夫婦になっていくものです。

高齢者のほとんどのご夫婦は、「支え合って」生きていらっしゃいます。どちらかが先に弱くなりますと、夫であれ妻であれ、支えて生きています。おたがいが、苦労をかけたという思いがあってのことでしょう。いい夫婦とは、お互いに感謝し合う事が出来る夫婦でもあるようです。

2012年11月21日水曜日

風邪


風邪のせいか、頭がはっきりしていません。首もまだ痛いので、泣き面に蜂といった日です。いつも体温が、高くないので、7度にもなると、ふらつくほどではありませんが、ぼーっとしています。ちょっと熱が高くなると、神経痛のような痛みがあちこちに出てくるという持病があります。

昔、お多福風邪になって、9度にもなったことがあります。何日も身動きできませんでした。幸い、インフルエンザには強いのか、高熱の出るような風邪は、ほとんどかかっていません。

今日は、坐骨神経痛のような痛みです。椅子に腰かけた姿勢が、長くは続かないので、立ったり、横になったり、と落ち着かない一日でした。
寝込むほどではなく、というより、寝ていると、よけいにあちこちが痛くなります。(::)

ま、仕事にならない、といった程度なので、明日は、熱も下がってくると思います。では、おやすみなさーーい。

 

 

2012年11月20日火曜日

熟柿


柿の美味しい季節です。以前ある村のお医者さんが、「柿の季節がくると、忙しくなる」とおっしゃっていたのを思い出します。子どもたちの胃腸の調子が悪くなって、お医者に駆け込んで来るとのことでした。食べ過ぎるのでしょう。一度に何個も食べるのですから、消化不良にもなります。

子どもでなくても、私でも食べ過ぎると、お腹の調子が悪くなります。
そういう経験をしますと、もう用心して、一日に何個も食べることはしません。

上を向いて柿を数回ちぎったことが原因で首を痛めたのですが、後の養生が悪いものですから、2週間過ぎてもまだ本調子ではなく、不愉快な思いをしています。まだ、というより、またぶり返した、ということなので、首を痛めた経験のある友人に、「無理すると、治らぬまま、一生病いになる」と脅されています。何となく実際にそうなりそうな予感がしますので、おとなしくしていようと思うのですが、用事が次々と出てくるものですから、どうしようもありません。
ま、無理はいけませんが、「することがある」という生き方は、有難いと思っています。

柿は、近くの方が、沢山ちぎってくださったので、もう上を向く仕事はしていないのですが、少し離れて残っている柿を見ていますと、ほとんどが熟柿になっていて、鳥たちの突いた傷ものの柿が口を開いたように幾つもぶらさがっています。鳥の餌食になった柿の穴ぽこは、だんだん大きくなっていきます。鳥たちは、あれこれと次々に突いているのではなく、突いたものは、最後まで食べてから次の柿に移っていくらしく、「お行儀のいい食べ方しているなあ」と感心します。どうも、突いたあとは、太陽の光があたって、よけいに甘みが増して美味しくなるらしいのです。

熟柿で思うことがあります。熟すというのは、魅力のある言葉です。熟年というのもいいですね。人間熟してきますと、若者にはない魅力が発散しています。と言いましても、柿と同じで、トシは熟年でも、中味は朽ちている、ということもありますから、人それぞれということになりますが。

私は、仲間の皆さんたちと、義務でもなく義理でもなく、また何の報酬を求めるのでもなく、この20余年間、【花の会】という【仙谷由人さん】を国会に送る会のメンバーとして、お手伝いをしたり、勉強会をしたり、会の運営のためのバザーをしたりしてきましたが、そうした方たちをみてみますと、自分から、何かをしようとしている姿勢こそが、年齢とともに、熟していける生き方のように思うのです。皆さん、とても素敵な方が多くて、輝いていなさるのです。いい刺激をいただいて、私も、熟年は過ぎましたが、朽ちないように、もう少しの間、頑張ろうと思っています。

 

2012年11月19日月曜日

七つ下がりの雨


七つ下がりの雨は止まない、という諺がある。これは、ある年齢からの、のめり込みを危惧したもので、よく使われたのは、トシをとってからの浮気、博打などに、のめり込むときに使ったものだ。あまり、よいことには使われない。

先日、NHKの顔見知りのアナウンサーが、ヘンなことをして捕まえられたと、新聞に出ていた。いいお年の、しかも全国にお顔を売っておられる方にしては、随分と大胆なことをしたものである。お酒に酔っての行動らしいが、いくら泥酔していても、ピンク系の悪戯は、そうそうできるものではない。そうしたことに興味を持たれていたのかと、思われても仕方がない。鼻血ブーのような、血気さかんな若造の仕業ならまだしもなのだが……。

そんなニュースを見て思い出したのが上に挙げた諺である。浮気とはまた違うのだが、何かのきっかけで、そうしたことに興味を持つようになった、いいトシのおっちゃん、……に当てはまるように思った次第。
ただ、この種の胸のうちは、行動さえ起こさなければ、他人さんにはバレはしないことなので、浮気や博打のような大事にはいたらないのだろうが、だからといって、頭の中がいつもピンクに染まっているようでは、困ったもの。酔ったら何をしでかすかわったものではない。どうかピンク系のおっちゃんたち、何とか雨は止んでほしいものである。

 

2012年11月18日日曜日

大変な逆風

昨日は、BS朝日で仙谷議員のTV出演(激論クロスファイア)をみて、さすがと感心したまではよかったが、夕方からは、役員会で、ご本人のお話を伺ったら、私が想像している以上に、今回の衆議院選挙は、大変な選挙になるということをひしひしと感じさせられた。

私の様なものには、市民の雰囲気などというものは、よくは解らないのだが、選挙を何度もした経験者には、道行く人たちの暖かさや、冷やかさは、すぐに肌で感じられるらしい。空港を降り立ってから、ずっと街宣車でマイクをにぎって徳島市内に帰られたらしいが、今までにない冷たい反応であったとおっしゃる。

私が思うには、いかに民主党の支持率が下がったとはいえ、日本のために、諸外国を奔走し、大きな問題解決のあれこれをやってきた、言うなれば、野党であれ与党であれ、これからもなくてはならない政界の頭脳というべき仙谷さんが、国会に帰れないといったような状況になることはないだろう、県民も、それなりの常識はもっていると思っていたのだが、そうではないらしい。

すでに、原発はいらないという方たちが、「仙谷さんは、原発に賛成してるから、あかん」などと言ってりしているのを聞くことがある。また、ある自民党系の支持者の方たちが、あらぬ噂を撒き散らしている、ということを耳にしたということも聞いたことがある。

問題なのは、実際に原発0を目指してあれこれと政府が知恵を絞ってやっている現実には、聞く耳をもたずに、実現不可能なことを叫ぶだけの人たちが、仙谷は敵、なんて思い込み、それを真に受けて、なびいている人たちがいるということだ。

「その国の政治は、その国の国民のレベルで決められてしまう」ということだろうか。

自民党の安倍氏は、もう首相気どりである。200兆円の公共事業を10年間でやると言明している。民主党の実現してきた「コンクリートから人へ」の「人にやさしい政治」は、安倍氏にはできそうにない。ストレスで下痢が続くことを【難病】などといいかげんなことをおっしゃり、新薬が出来たので治りました、なんて、子ども騙しもいいところ。難病とはそんなものなのか。そんなことで首相を投げ出した苦労知らずのお坊っちゃんの決断で、日本を沈没させてはならないと、つくづく思うのだ。

安倍氏をとりまくお偉い方々のほとんどは、苦労知らずで親や祖父の跡釜に座った議員たちらしい。そんな議員に、額に汗を流して苦労をし続けている国民のための真剣な政治が、うまくできるはずがない。だから、世襲ということが問題視されるのである。

ともあれ、闘いははじまっている。今回は、私にとっても最後の活動と思っているので、私なりの応援を、(と言ってもこのトシだ。たいしたことは出来ないのだが)悔いのないようにさせていただこうと思っている。

2012年11月17日土曜日

喪中ハガキ


ぼつぼつと喪中ハガキが届くころになりました。私のようなトシになりますと、ご本人であったり、連れ合いさんとか、姉妹とか、兄弟といった方たちが亡くなられている場合が多くなってきます。

また、喪中ハガキではありませんが、「来年の年賀ハガキから、失礼をいたしたい」という、年賀状のやりとりのお断りのハガキをいただくこともあります。

年賀状というものが、単なる儀礼であったり、習慣であったり、いうなれば、どうでもいいものもあれば、「どうしてなさるかなあ、お変わりないかしら」といった気持ちが、相手のところに飛んで行っているような懐かしさがこみあげてくるものまであるものですから、ピタリと止めることへの抵抗は大きいものがあります。

昨年、丁度一年前になりますが、ある一枚の忘れられない喪中ハガキをいただきました。詩人のA様の息子様からでした。それは、このような文章で始まっていました。

【座ったままで失礼いたします。思い出がいっぱいある人は幸せだなと思います。私達夫婦は、八十八歳になります。私たちにも思い出はたくさんあります。悲しいこともありましたが、二人で乗り切ってきました。たくさんの人と合って、たくさんの思い出を作り、そして暖かい心で私たちをここまで育てていただきました。ありがとうございます。私は、銀河鉄道に乗って冥土へ逝きたいと思います。汽車賃もいらないし、改札もありません。案内してくれるのは、童話作家の宮島賢治さんです。あの人が、好きなところへ連れて行ってくれます。ですから、夜空に長い影を引いて流れる星を見付けることがあったら、二人が乗った銀河鉄道だと思ってください。そして二人のことを思い出してください。どうも今日はありがとうございました。】
以上は、両親のための米寿の会における父Aの挨拶です。末期ガンでしたが、余命のないことをいささかも感じさせず、皆さまへのみごとなお訣れのことばでした。9月30日、父は自宅で家族に看取られながら、静かに彼岸へ旅立ちました。「悔いのない人生だった」と申しておりました。私たちに残してくれた「いっぱいの思い出」を大切にして生きて行きます。皆さまもどうかお幸せにお過ごしください。……

 

私はこのハガキをいただいて、はじめてA様のご逝去を知りました。徳島の作家・故田中富雄氏と仲良くして頂いていた私たち夫婦(文学とは、まったく関係なく)は、清貧に甘んじながら、多くの素敵な詩を書かれていらっしゃった若き日のA様とも、親しくお話をさせていただきました。
その後、京都に住まわれていたA様とは、ほとんど年賀状だけのやりとりでしたが、心温まる賀状をいただきました。
田中氏を通じてお知り合いとなりましたA様とは、田中氏の偲ぶ会でお会いしたのが最後となりました。
改めてA様のご冥福をお祈り申し上げます。

2012年11月16日金曜日

母の手


何カ月か前の徳島新聞の徳島歌壇に、こんな短歌が、3人の選者に選ばれて載っていました。〝母の手はいつも風呂敷抱えてたすべてを包む心のように〟その新聞を置いてあったのは、この短歌の作者が、藍住文芸協会の会員さんである渡辺健一さんとおっしゃる方のものだったからですが、そのとき私は、ふっと自分の母の手を思い出したのです。
それは、風呂敷を抱えた手ではなく、印刷インキで、薄黒くなった手でした。

私の両親は、小さな印刷工場を経営していました。何人か工員さんがおりましたが、その工員さんにまじって、母は活字を拾っていたのです。原稿と、小さな箱を左手に持ち、右手で活字棚から活字を拾って箱に入れていくのです。仕事中の母の手は、いつも、薄汚れて黒ずんでいました。ときには、顔にまでインキがついていることもあって、子どもながら、それは格好悪く思って、母に言ってあげたこともありました。

むろん、母の手に指輪が光っていたことなど、一度も見たことがありません。街中に住んでいましたから、着飾ったお母さんたちもたくさんおりましが……。

ですからたまに外出するときの母が、ヨソイキの着物を着て出かけたりすると、見違えてヨソの人かと思って「こんにちは」と挨拶しかねないほどでした。

母は、贅沢などあまりしたいと思ったことはなかったのか、髪飾りだの帯どめだの指輪だのいうものを、ほとんど持っていませんでした。買って買えない生活ではなかったと思うのですが、買わずに貯金をしていたらしいのです。
 
疎開で一家をたたみ、田舎に帰りそのまま住みつきましたが、戦後、お金の値打がなくなって、食糧もヤミで買うような時代になり、父の仕事だけでは食べてはいけず、【筍生活】という売り食いをしなければならなくなったとき、売るような品物は、ほとんど持っていなかったものですから、筍生活も出来ず、母は、ただただ内職をしたりしていました。

母の手は、私と違ってとても器用でした。女学校のとき、着物を縫っても皆より上手だったらしく、卒業すると、その女学校の助手にやとわれて、裁縫を教えていたこともあったほどですから、内職の仕立て物をしても、お客様に気に入られていたらしく、「ほかで縫ってもらったら、とても襟元がおかしくて着れないから、直して」と、よその方が縫ったものの直しまでしていました。

そんな母に似ても似つかぬ娘の私なので、だれに似たのか不思議です。父もとても器用で、大工のような仕事までするのですから。(笑)

母の手は、私の記憶の中では、とても美しい手とはいえない手で、晩年は、ことのほか節くれだった皺苦茶の手になっていました。
 
今、私の手は、そんな母の手と同じようになっています。手を見ると母を思い出すほど、節くれだった手は同じです。
母そっくりの手を眺めながら、中身?は似ずに、形ばかりが似るなんて、ほんとにうらめしい手、と思いながらも、苦労をした母を思い、あまり親孝行の出来なかったことを悔いております。

2012年11月15日木曜日

大揺れ


世界の至る所で大きくゆれているようだ。アメリカ、中国、韓国、北朝鮮と、日本とかかわりの深い国々も、大きく変わりつつあるようだ。

そしてとうとう日本も、野田総理の解散宣言。「うそつき」などと言われては、解散せざるをえないだろう。私は、まだまだ任期いっぱい民主党は頑張ってほしかった。

しかし、世の中は、いいかげんなものだ。一日も早く総選挙をして、国民に真意を問うべきだと、野党は口をそろえて吠えていたのに、いざとなると、文句のたらたらを述べている方の多いこと。どうすりゃあいいんですかなあ。何をやっても文句ばかり言うのは見ていてもカッコ悪いです。

カッコ悪いのはまだまだいらっしゃるようだ。もうこうなりゃあ、党もへちまもない。自分が当選できそうにないとなれば、なりふり構わず維新やら太陽やらの元に走り込む議員も出てきそうで、何とも言いようがない。

真面目に政治家をやっている方たちと、そうでない政治家と、よく解る識別方法というのはないものだろうか。こういう採点表は、新聞や週刊誌には出ないので、国民は、自分の手を握ってくれた回数の多い議員候補を選ぶことになるのだろうか。
 
ベテラン議員でなくても、やる気の議員は、どんどんと仕事をしてくれている。足元の方しか目につかないが、前文部副大臣だった高井美穂衆議院議員も、立派な改革の仕事ぶりで、おおくの子育て家庭では、助かっていることだろうし、一年生議員の元産婦人科医の仁木博文衆議院議員も、驚くほどの医療面での改革をしてくださっている。
これは、徳島県としては、誇りの議員さんだ。こうした若手の議員さんが、育って行くのも、先輩の仙谷議員という先輩の考え方が、おのずと後輩議員の身に沁みていると思う。政治家は、国民のために、勉強し、研究し、働かねばならないことを、きっちりと身につけていなさるのだ。ちゃらちゃらと、週刊誌をにぎわしたり、酒びたりになったりするような議員ではないのだ。どんな仕事であれ、真面目さという人間性は、基本的条件のはずである。

今日は午後から、【花の会】定例役員会で、出かけるのだが、いつもと違って、気持ちがひきしまっている。こんな、お婆ちゃんでも、お国のことは、心配なんです。あまりお役には立たないのだが……(笑)

2012年11月14日水曜日

冬茜の旋律


私と同じシニア演劇塾で勉強している仲間が、最近、亡くなった母上のことを書かれた【冬茜の旋律】という本を上梓なさいました。お名前は、河野佐知子さん。苦労の多かったお母さんへの愛情がそれこそどっしりと詰まったこの本は、長い介護を通して得た佐知子さんの宝物も、私たちにあますことなく感動という形で与えてくださっています。
 
「母のことを本を書きたいので教えてください」と相談をうけたときは、正直、たんに母親の介護の記録を書くのだろうか? 読み物として、モノになるのかしら、書けるのか?と心配したのです。今までに文章らしきものは、あまり書いていらっしゃらない、という印象を受けたものですから。

しかし、書いたものを見せていただき、ちょっとしたアドバイスをしているうちに、ぐんぐんと力をのばしていかれました。そして何よりも、ご自分が骨身を惜しまずにお母さんを介護なさった記録の内容が、ウソでないだけに、読む者に突き刺さってくるのです。文章が立ちあがって迫ってくるのです。読む人を感動させる、というのは、難しいものです。しかし、佐知子さんの書かれたことには、私は、胸を打たれました。

以下は、佐知子さんが書かれた本の前書きです。佐知子さんの気持ちの一端をお読みください。

 
母シマ子は、苦労の多い人だった。激動の昭和を生きたというだけでなく、結婚生活も、波乱万丈だった。娘として、母の苦しみを身にしみて感じとっていた私は、母と同じように悲しみを胸にたたみこんで生きてきた。歳をとるにつれて、状況は厳しさを増し、母は次第に心も体も病んでしまう。だが母は、「これでもか」といわんばかりの苦悩の連続にもかかわらず、生きることへの執念を最後まで失わなかった。病に倒れてからも、まるで天使に生まれ変わったかのように、明るく生き続けようと、賢明に努力した。

そんな母の人生を拾い上げ、生い立ちからを振り返り、晩年の介護を通して母と関わった日々を一冊の本にまとめてみようと思いたったのは、それを書かないことには、自分の気持ちの整理がつかず、私自身が一歩も前に踏み出せないと思ったからにほかならない。

そこまで介護しなくても……そう周りにはあきれられたが、私には母を守らずにはいられなかった。今まで忍耐ばかりを強いられた母を知っていたからこそ、どんなことをしても母の最終章は幸せなものにしたかった。人生の辻褄は、最後には必ず合うようになっていると信じたかったし、意地でもそうしたかった。人生、真面目に生きてきた母の勝ちよ。絶対にそう思いたかった。母の介護は、私の一番やりたいことだったし、母に寄り添った八年八カ月は、私にとってまさに一番自分らしく輝けた時だったかもしれない。そして介護を通して今まで知らなかった母の本質に惜しみなく触れることが出来、私はかけがえのない心の財産を山のようにいただいた。

介護が終わりに近づくにつれ、母のことを書く思いはますます強まった。私の息子、その子(母の子孫)にぜひ読んでほしい。母のことを多くの人に知ってもらいたい。もしかしたら、介護で悩まれている方のお力に少しでもなれたらこんな嬉しいことはない。本を書くことは、読書家だった母への最高の供養にもなるであろうとも思われた。

母との思い出は、今も鮮明によみがえってくる。母の魂や命のエネルギー、それは目には見えないけれど確かに私の中にある。この本を手にとってくださった方々に、母の声にならない声をいくばくかでも届けることができたなら……そんな思いで書いてみた。 佐知子

なお、本の購入をご希望の方は、お世話いただいた下記の原田印刷にお尋ねください。佐知子さんの連絡先は、ここでは控えます。

*出版先・徳島市西大工町4-5 原田印刷株式会社 ☎088-622-2356

2012年11月13日火曜日

ウソツキということば


「近いうち」ということばが、「ウソツキ」ということばに置き換えられる、とか、テレビで放送されている。
昨日来の国会の放送をみてつくづく思った。「ウソツキ」などということばを、少なくとも、私は人間に対して、面と向かって発したことはない。これくらいその人を傷つけることばがあるだろうか。いかに与党であれ野党であれ市民であれ、ウソツキなどという言葉を浴びせることは、実に失礼なことだと思うのだ。

私の生活の中でも、約束事が守られなかったことは、たくさんあった。

私は以前、お金に困っていた知人に頼まれて、お金を貸したこともある。明後日返すからと言ったその人は、お金の都合がつかなかったのか、2か月後に返してくれた。ウソをついたなどと思ってもみなかった。

本当のウソツキとは、返さないつもりでお金を借りる人であって、返すつもりで返せなかったのは、ウソツキとは言えない。
ウソツキと言われることが、どれほど人格を傷つけることか。野田首相の決断に、賛成、反対は自由である。批判罵声はしかたがない。しかし、ウソツキなどと言ってはその言っている人間が墜ちる。

国会で、次の首相にもなろうかという人物が、国会議員ともあろう者が、一国の首相をウソツキ呼ばわりするのは、実に恥べきことだと思う。品性を疑わざるを得ない。

【近いうち】というのは、それぞれの考えによって違うのは当然だ。4年間の任期の、残りの年月から考えての近いうちという事であるのかもしれない。「近いうちに東南海大地震がある」というのは、いつなのか。2年先か、50年先なのか、解らない。こんな近いうちもあって当然。「近いうちとは年内のこと」などと決めてかかることこそ可笑しな話だと思う。

言葉は神様、言葉は何でも作るのだ。使い方によっては、自分も相手も傷つけたり、殺したりするものなのだ、と私は思っている。

 

2012年11月12日月曜日

共有



私のきらいなカタカナことばで、【シェアリング】という動きが、色々な分野で広がっているそうです。何のことかといえば、何のことはない、物や空間を共有することらしいのです。ま、簡単なことでは、昔の学生などの下宿屋のような型。台所、トイレは共同。電話は、大家さんの電話、風呂は銭湯に、というようなものは、一種のシェアハウスということらしいです。私の息子は、家賃の安いこういった下宿で大学生活を送りました。
 
しかし、それから間もなく、そういう下宿型から、個室マンション型に変わってきたのは、時の流れといいますか、少しでも豊かな生活を望む人たちの憧れでもあったわけで、私などは、「学生の身分で、風呂付電話付きマンションなんて、贅沢だなあ」と思ったものです。
 
それがまた再び協同生活を求めだしたのです。ただ、昔と違うのは、経済的理由というのではなく、あえて他人といっしょに生活することを選んでいるわけです。
いうなれば、一つ屋根の下で、家族に近いような生活をするわけで、いつでもイヤになれば出ていく、といった自由な気楽さもあり、反対に、都会のマンションのような冷たさや孤独感がないので、けつこう居心地がいいのかもしれません。ほどよい暖かさもあって、家族ほどの絆はなくても、それがまた、家族とちがった居心地のよさがあるのかもしれません。
 
このシェアリングは、家ではなく、車のばあいなどは、すでに17万人もの人たちが利用しているとか。
 
考えてみますと、長い歴史のほとんどは、地域社会の中で、協同の部分はたくさんありましたし、助け合いながら生きてきたものです。困ったことは相談し、助け合っていました。労働者の住む長屋といったところなど、米、みそ、お金などなど、気軽に貸し借りやっていたのですから、新しいことでもなんでもない、ということでしょうか。
 
戦後の【個人主義】では満たされない何かが新しい動きを再発見したということでしょうか。
 
全く昨日までは知らなかった人たちが、一つ屋根に棲むこともできる、ということは、無論、だんだんと信頼関係が築かれていくのでしょうが、もし、知りあい同士が、こういう共同生活をしていくならば、十分可能ではないでしょうか。
例えば退職後、気の合った独り者同士、45人が、退職金を出し合って、家を建て、プライバシーを守りながら、協同生活をするのも悪くないと思うのです。ちょっとした病気も、あるいは痴呆になったとしても、何とか助け合っていけないだろうか、なーんて、想像してしまいました。けっこう楽しい老後を過ごすことが出来るのでは?(^^)


2012年11月11日日曜日

品位を落とす野党と私


黙って聞いておれば、よくもまあ、これだけヒトの悪口が言えるなあ、と思うことがよくある。裸の女性と、野党の国会議員さんだ。

温泉や浴場、サウナの中で、裸の付き合いというのは解放されるのか、あれこれとしゃべっているのを聞いていると、姑や嫁の立場の方たちが、うっぷんをはらしている。仲間の我儘をあげつらって)る人もいる。

ま、こんなことは、他愛も無いことで、相手にほとんど影響も与えないどころか、こうしてストレス発散して、仲間の前やお家ではにこにこしておられるのなら、こんな妙薬はないだろう。まったく腹の立つことではない。

野党さんだ、歯ぎしり女になっちゃうのは。自分等のお尻拭いをさせておきながら、よく言うよ、とあいた口がふさがらない。民主党が、今までに思うようにことが運ばなかったいくつかの問題は、そのほとんどが、あまりにも過去の政権のでたらめさに、土台までもが腐敗していたことに原因があったと言っても過言ではないのだ。

解散解散と、政権の椅子取り争いのような格好である。まるで権力亡者である。随分と品格を落としたものだ。今朝の日曜討論でもそうだ。各党、国のことなど、考えているのか疑いたいことばかりの集団としか思えない。

野党からは、原発を動かしていることへの反対の声も聞かれたが、この問題については、1125日に、ジャーナリストの田原惣一朗さんを迎えて、仙谷議員と【エネルギー大改革】という事で、現実的な脱原発依存を目指しての徹底討論会が、徳島駅前ホテルクレメント4Fで、P6時30分から行われるので、聞きに行こうと思っている。無料なので、お暇のある方は行かれて、どちらの考えが現実みがあるのか、考えてみられるのもいいと思う。

野党の品格云々などと、厚かましくも言う私め、どうしたわけか、自民だの民主だのと言いだすと、とたんに野党さんのように品格を落とす。私は、元々上品な家の生まれではないので、化けの皮が剥がれるということになるのだが、これも今更致し方のないことだ。すみません。落ちた品位のままなので、もうこのあたりで止めておきます。(^^;;

今日は何の日?なんて昨日書きましたが、ある広告に、靴下の日と出ていました。1という字を、靴下に見立てて、4つ、すなわち2足分並べて、間に月日の字を入れてありました。これも笑わせてくれますねえ。まだほかにも、何か出てきそうな日ですねえ……。

2012年11月10日土曜日

柔らかい話と硬い話


♪今日は何の日気になる日……という歌がありますが、11月10日は、いい手(ち ン)で、ハンドクリームの日なんだそうです。へえー、と笑っちゃいました。いろいろと考えるものですね。
 

ハンドクリームは、手が荒れるので、冬に限らず、年中お世話になっています。香りの有るもの無いものなど、ピンからキリまでありますが、用途べつに、家の中のあちこちに置いてあります。

季節を一番敏感に感じるのは手らしく、ちょっと秋が近くなると、手は確実にかさついてきます。感心なほどよく知っています。頭は鈍感になるのに、こうしたことだけは、敏感。不思議ねえ。

 
さて、ちょっと堅い話ですが、財務省は昨日、国債や借入金などの残高を合計した「国の借金」が9月末現在で9832950億円に膨らんだと発表しました。過去最大を更新し続けているとのことです。推計人口(12753万人)で割ると、国民1人当たり771万円の借金を背負っている計算になるそうです。大した金額です。まあ、日本人は、貯金が好きなので、外国から借金をせずにおれるのでしょうが、その貯金も、かなり減りつつあるというから安心はできないようです。
2012年度末には、1000兆円を突破する見通しとのこと。

バブル崩壊後の長引く不景気で税収が減少する一方、大震災の復興費、高齢化で増加している社会保障費を賄うために国債を発行しており、国の借金は膨張に歯止めがかからない状況ですらで、どうしようもないのでしょう。
これだけの借金となると、子や孫に迷惑がかかるのは明らかなことで、それを少しでも軽くしていかねばと思うと、消費税増税も、やむを得ないと思うものです。

消費税反対というのは議員さんまでが言ってますが、口先で言えても、無駄を省く、ということは簡単ではないことは、実感なさっているはずです。無駄はそんなに出てきません。どこも余分はなさそうですし、国民も、あれもこれも、国に要求ばかりしているのですから。健康保険を上げる、と言えば反対、医療費値上げも反対では、無責任というものでしょう。

明日は1111日は、1が4つ並ぶ日。何の日なんでしょう。また、楽しい日を設定しているかもわかりませんね。あ、今日は、もう一つ、いいトイレの日でもあるとか。(笑)

そうそう、明日は、朝早くから、毎日TV放送は、午前5時30分から6時15分、BS・TBSでは6時から645分、司会 御厨貴氏、民主党副代表、仙谷由人氏&自民党幹事長、石破 茂氏での時事放談があります。常識あるお三名の対談を楽しみにしています。お早いお目覚めの折は、ぜひ、ごらんいただけたらと思います。

 

2012年11月9日金曜日

解らないカタカナ言葉


日本人が、外来語が好きなのは有名だが、新聞のような、庶民の読み物に、たくさんの外来語がちりばめられているのは、大変迷惑な話である。

 以前ある新聞に、「スキーム」というカタカナ言葉が出ていたそうで、これが解らない人は、調査の結果2000人中、94%もあったという。こんな結果をみてみると、使う方が悪いと思うのは当然だろう。

以前、聞いた話だが、地方新聞は、小学校6年程度の学力。大手の全国新聞は、中学1年程度の学力を対象にして作っている、ということだったが、私など、小学校卒業の実力もないらしく、意味不明のカタカナことばや、英語の頭文字を3つ、4つと並べた造語が多すぎて、ひどく不愉快な思いをすることがある。

井上久さんが、ある新聞で、「外来語を日本語に直したら、どれだけの読者がよく理解できるか」といったようなモンクを言っていたのを思い出す。

新聞だけではない。街中のカンバンも、カタカナことばの氾濫なので、一体、何のお店か解らぬままに通り過ぎることがある。化粧品だって、私のよに、頬紅だの口紅だのと日本語で言う客は少ない。むろん、店員さんも、頬紅なんて言うことはない。チークとかフェイスカラーとか何とか言う。
そんなカタカナ言葉もやっと身に着いたと思う頃には、新しいカタカナ言葉に次々に言い換えて、変身してしまうから益々ついていけない。

日本のインテリさんは、何を考えているのかと思う。ひとりよがりのインテリ根性とけなされても致し方ないだろう。
こうしたカタカナ言葉は、専門家同士だけに限って使うことにしてほしいものだ。

テレビでしゃべっているインテリさんたちも、どうか美しい情緒豊かな日本語でお願いしたいものである。

2012年11月8日木曜日

今日という日


朝6時に目覚めたが、いつものようにぐずぐずと30分ほどして起床。夜寝るときは、「お前さんもおトシなんだから、明日は目が覚めなくても不思議ではないのだよ。最低の身辺整理はしてから寝るべし」ということが、いつも頭のうちにあるものだから、散らかったまま、というようなことはない。

でもこの4、5日は、脱いだ服は椅子に引っかけたままだつたり、台所には流しの洗い物が残っていたりしていて、だらしがない。やはり気持ちがたるんでいて、首に関係なく出来ることまで、ほったらかしているのだ。こうしたことが慣れてしまうと、『年寄りは汚い』などといわれるようになるのだから、きちんとしておくべきである。

さて、まだ少し残っている肩や背中の突っ張り感と痛みには、温めたのが良かろうと、お風呂に入る。小原庄助さんの気分で出てくる。

衣服を身につけ頭を乾かしていると電話が鳴った。仲良し仲間からだ。仲間のSさんの夫さんの名が、新聞の死亡欄に出ているという。それ以外、何も分からないので分かったら教えてくれとのこと。

10年前、病気で倒れ入院、幼児のようになってしまった夫さんを、Sさんは毎日病院通いをしてよくお世話をしていた。とうとう亡くなったと聞いて、Sさんの気持ちを思い涙が出てきたのだが、その反面、私は気持ちの中でほっとしていた。88歳というお年である。多分ご家族にとっては、いつまでも生きていて欲しかったに違いないのだが、Sさんのことを思うと、「もういいよね。十分お世話していただいたものね」と夫さんに語りかけていた。

さあそれからが大変。S家も、その近くに住む知人も電話が通じない。慌てると、そばにあるものを探すのと同じ。本人の携帯にかけるということを思いついたのは10分もしてからだ。やっと通じたのはいいが、向こうも大変なのだ。親戚一同と、門出の膳に着いているという。930分から葬儀が始まるのだという。急ぎ友人たちに知らせの電話。間に合うかどうかという時間だ。用意を始める。MさんとIさんに香典を頼まれる。下手な字で書くのだが、慌てて字を間違える。

てんてこ舞いの末、やっと間に合って葬儀に参列。お見送りしてきた。
Sさんも、お疲れの様子もなく、何よりだった。

お葬式というのは、どなたのお葬式であれ、悲しみの式典だが、居合わせた方々が、「幸せな一生をおくられたなあ」と、見送ってあげられるのが何よりと思う。やはり、十分な年月を生きられて、子孫も幸せ、何の心配も無く旅立たれた、という葬儀に参列させていただくのが、最上だと、思った。

午後、友人が訪ねてきて、ブログの首云々を読んだので、柿をちぎってあげましょう、ということだった。感謝。50個ほどちぎって、くれたので、たくさん持って帰って貰おうと思ったが、10個でいいとのこと。柿は、食べ過ぎるとお腹を壊すとか。(笑)

夕食後は、Sさんの様子を心配していると友人に報告。

あんなこんなの慌ただしい一日も、何とか終わる。感謝。

 

2012年11月7日水曜日

首が…その6


昨日は、かなりよくなったと思って、パソコンの前で、急ぎのたまった仕事をこなしたりしました。(但し、集中力はなし)

夜も、定例のシニア塾に出かけ、遅く帰ってきたものですから、そのまま、寝てしまいました。
無理はいけませんね。年寄りの無理は。()

ちょっと後戻りして、いや、たいしたことはないのですが、やはりお医者さまのおっしゃる通り、2週間はおとなしくしていなければ、と、反省しています。

 

2012年11月5日月曜日

首が…その5


お天気が優れないせいでもないでしょうが、何となく体全体がしんどい日です。(首は、よほどよくなりました。上は向けませんが)こんな日は、寝ているに限りますが、腰がこわる、というのでしょうか、起きてじっとしている方がマシなので、テレビの前で、録画の映画を見ていました。
高倉健、吉永小百合の【海峡】。古い映画ですが、何度みてもいいですねえ。小百合フアンは、たくさんおられることでしょうが、男の方にとっては、ほんとにかわいい理想の女性でしょうね。小百合さんが、結婚した当時、男性の方々のがっかりした様子が今も思い出されます。

2012年11月4日日曜日

首が…その4


少しずつ快方にむかっておりますが、首の役割って大きいものなんだとヘンな感心をしています。左右というのは、身体ごと動かせますが、上は、どうしようもありません。薬を飲みこむのも、なかなか飲みこめない始末。ペットボトルのお茶も、ストローで飲まないと、こぼれます。こんな頑固な首の傷みは初めてなので、色々と新しい経験をさせてもらいました。()

もう、傷みも首だけになりました。背中や肩の傷みは、有りません。普通のコリだけです。さいしょ、揉んでいただいて、ひどく傷みがひろがったので、怖くて揉むことはせず、お医者さんのおっしゃるとおり、安静にしています。貼り薬に負けて、首や肩が赤く痒くなりました。(;;) 
このトシがきても、厚いのは面の皮だけのようです。

2012年11月3日土曜日

首が…その3


【我慢をする能力】の発育が、ここ30年あまりで、4~5年遅れているということが、実験で判明しているらしいのですが、最近の子どものことも考えますと、そういうことかもわかりませんね。いわゆるキレやすいということ。これは、脳の前頭葉の機能が低下していて、それによって行動の抑制が効かなくなるということで、ま、前頭葉が、ブレーキの役目もはたしているということでしょうね。

痛いということの我慢だけは、私はお医者さんにあきれられるほど我慢強いのです。昔、お腹を真一文字に切って、その傷が膿んでしまったことがあります。ウミが流れ出てはじめてお医者さんが驚きました。「こんなになるまで、痛くなかったんですか?」「痛かったけど、手術しているので、こんなものかと我慢していました」「我慢にもほどがありますよ」と。そしてまた半分ほど切りなおしでした。

だから、首が痛くて、眠れなくても、大丈夫の私です。()(;;)

2012年11月2日金曜日

首が…その2


昨夜、前から予定の藍住文芸の役員定例会があったので、夕方まで妹を呼んで、いろいろと手伝ってもらい、夜の会も無事にすませました。そのとき妹は、「いつでも言ってくれたら手伝ってあげるから」と親切に言ってくれました。優しい妹です。「ありがとう。これからは、こんなことがときどき起こるかもしれないけど、頼むね」と言って、帰らせたのですが、あとでふっと思いました。

傷みに耐えることも人生、何とかしてすればできないことではなかったなあと、反省しました。掃除、茶菓子の用意、スリッパを並べる……、など等、これらは、何とか辛抱してゆっくりと自分で出来る範囲のことをしたらいいのであって、たとえ妹だろうが、人を頼ってしまったことを後悔しました。

ま、機会をみて仕事も減らしていくことが大切だとうこともしきりです。こんなことがありますと、「出来るうちは何とかやろう」と思ってしていることも、案外人に迷惑をかけることになっているのではないか、と思うのです。〝自分の能力が劣ってきたら、生活を縮める〟ことは、原則だと思っているのですが、自分のことは、よくわかっていないのかもしれません。(^^;;

 

2012年11月1日木曜日

首が……


お金はないけれど借金だけはしていないのに、一昨日から、首と肩が痛くなって、回りません。治るどころか、日がたつほど頭まで痛くなり、とうとう我慢できなくて治療にいきました。理由は、頸椎が悪いのに、上を見て3日間毎日柿をチョキンチョキンとしたのがいけなかったようです。(たくさんちぎったわけではありませんのに)上をむくことをしばらくしないことと、パソコンも、首の痛みがとれるまで、しないのがいいと言われてしまいました。首が痛いのに、パソコンをしたので、なお、悪くなったようです。1週間もしたら治るだろうとのことなので、その間、ご挨拶程度にしておきます。