2014年9月29日月曜日

ある会話から……


親しいAさんと電話で話をした。「物忘れがひどくなって、自分ながら可笑しくて笑ってしまうことがある」とおっしゃる。私もよく忘れるので、「もうそれは当たり前で、忘れないほうがおかしいわよ」と言うと、「出掛ける前など、鍵をしてから、何度も忘れものをして、部屋にもどるのよ」と、かなり気にしている様子だ。

私だつて、出掛ける前は、「何か忘れ物はないかしら」とあれこれ調べないと、大切なものを忘れて引き返さねばならないことがある。お互い、【物忘れ恐怖症】にかかっているようだ。()

以前、Bさんを誘ってあるところに出かけたのだが、家から出てきたBさんの顔が、何となく痩せたように思ったので、「あなた、ちょっと痩せたみたいだけど、体調は大丈夫?」と、バックミラーを見ながら問うたところ、彼女、笑いながら「少し痩せたら嬉しいけど、痩せない」と。その笑顔を見て原因がわかった。彼女、入れ歯なのに、その入れ歯がない。「あっ。あなた、入れ歯忘れてるわよ」と言うと、すっとんで家の中に入っていった。()

入れ歯といえば、上顎用の総入れ歯を飲み込んでしまった方がいるらしい。あんな大きなものをと、不思議に思うのだが、世の中には、喉の広い方もいるのだ。お医者さんは、案外平静で、「ま、1週間か10日くらいしたら、出てくるでしょう」とおっしゃったとか。そんなに珍しいことでもなさそうな話だが、入れ歯の方は、お気をつけあそばせ。

 

2014年9月27日土曜日

帰ってきた愛車


先日、市内でちょっとした狭い道で、車の事故にあった。渋滞で止まっていた私の車にバックしてきた車がゴツン。運転席側のドアがちょっと凹んだ。最近は、板金といって、凹んだところを叩いて元のようにすることは、あまりせず、ドア自体を取り替えてしまうらしい。勿体ないなあと思う。
修理に出している間は、軽のレンタカーを貸してくれた。最近の軽は、普通車並みの大きさもあって、とても乗り心地はよい。といっても借り物。傷を付けたり、付けられてはいけないと気になるし、私のように、毎日何だかんだと車に乗って遠方までも走っているのも気がひける。
私方には、落ち度がないということなので、相手さんが、保険で直してくださるのだが、レンタカー代だって、バカにはならないだろう。何となく気の毒になってしまう。

ちょうど連休がはいったりしたものだから長引いて、やっと今日修理を終えて愛車が帰ってきた。ホッ。

考えてみれば、私にも落ち度があった。バックしてくる車に気が付いて、クラクションを鳴らしてあげたらよかったのだ。でも、そういうことは、問題にはならないらしく、私の車が停車していたということで、100%相手が悪いことになるのだが……。以前、私がバックしていたとき、クラクションをならして下さって助かったことがあったのだ。

こんどからは、気をつけたい。

2014年9月25日木曜日

家計のやりくり




ネットにこんなことが載っていた。
世帯収入が平均以上あるのに、「毎月家計は火の車」の家庭があるらしい。余裕があるはずなのに、お金が貯まらない理由は、いったいどこにあるのか、と、アンケートを取ったところ、まったく貯金ができない妻の特徴がでたらしい。
思うのだが、こんなことは、別に統計やアンケートをとらなくても、原因は分かっていると思うのだが、一応読んでみた。やはり、思っていた通りだ。
  1. 結婚して家庭を持っても、子どもができても、独身時代の生活を忘れられない。以前は自分の収入が全部お小遣いみたいなもの。出産後も、子なし共働き時代の感覚が抜けず、財布の紐を緩めっぱなしになっている人。
  2. 月々の「あまったお金」を貯金すればいいと思っている。
    あったらある分だけ使ってしまうから、いつもお金が残らない。
  3. 「換気扇を掃除したからエステに行く」など、自分へのご褒美の基準が甘い。
  4. 夕食作りが面倒だと、すぐにファミレスへ向かう。
  5. 主婦の間で流行りのトートバックなど、必要ないものをすぐに買う。雑誌に出てるものに弱い。
  6. お目当てがなくてもセールに足を運び、いらないものまで買い込む
  7. エステやネイル、美味しいものの食べ歩きなどを生きがいだと思っている。                              ……といったようなことらしい。ま、常識的に考えてみても、こうしたことでは、お金は、貯まらないだろう。まずは、貯めようと思わなければ、貯まるものではないのが、お金なのだ。             ちなみに、私は、どれもあてはまらないのだが、共稼ぎ家庭だったけれど、貯めたいと思っても、お金は貯まらなかった。(::)

     



2014年9月23日火曜日

昨日のこと2題


昨日のことを、書いていきます。

☆平成7年9月22日、夫が急逝しました。心筋梗塞でした。思い出しても、当時は悪夢を見ているような感じで、ただただ茫然としていましたので、あまりはっきりとは記憶にないのですが、夫は何秒かの苦しみはあったでしょうが、まるで暖簾でもくぐり抜けるようにあの世に逝ったのは、今となれば、私もあやかりたいような気持です。
当時も、64歳という年齢は、若すぎたので、まだまだ生きていて、したいことがいっぱいあった人なので、ただに可哀想でしかたがありませんでした。

今はあちらで、すきなことが出来ているだろうと、思うしかありません。合掌

☆昨日、久しぶりに仙谷由人氏のお話を聞く機会がありました。今も、世界をまたに、(特にミャンマーなど)活躍なさっています。以前国家戦略大臣のときに、やりかけた仕事を、自由になられてからも、引き続いてなさっています。一言で申しますと、日本にとっても、ミャンマーにとっても、成長していくための必要な領域です。
その一つは、今の日本は、いくらお金を用意しても、どこにプロジェクトをこなす労働力があるのか、ということが深刻な問題になっていることを心配されて対策に力をいれられています。分野は、農業にしろ、建築にしろ、介護、福祉、その他10万単位で人手不足しているらしく、自動車整備士にしても、長距離トラック運転手にしても、いよいよ心細くなってきているのです。
これは、少子化問題、高齢化問題などがからんでいるのは当然ですが、こうした現実は、毎年深刻度は高まっていくわけですから、5年、10年先を見通しての対策をしなければ、この国は、どうなるのか、素人の私たちでも、心配です。

そのための対策の一例として、ミャンマーの、即ち外国人による労働力と、外国の技術向上のための、ま、どちらの国にとっても有利になるような計画をたてられています。今の政治では、手をつけられていないことでしょうが、さすがに先をみた政治家的な働きは、ミャンマーにとってもとてもありがたいことのようです。

やはり、日本にとっては、ぜひ、政界に戻って頑張って貰わねばならない方だと、つくづく思いました。

2014年9月21日日曜日

稲刈り


家の周りの田んぼが、やっと稲刈りが終わった。いつもの年よりも、出来が悪いらしく、稲穂は垂れてはいたものの、何となく十分実っていないような垂れようだつた。

機械での稲刈りなので、またたく間に刈ってしまうので、ちょっと出掛けている間に、景色が変わっていたりする。

農業の跡取りがいないので、総てを人任せにしている家もあり、これからの農家には、色々な問題もあって大変だろう。

台風16号が、大したことなさそうなので、ほっとしている。雨であれ、風であれ、先の台風のような被害に見舞われるようなことにでもなれば大変と思っていた。

私の住むところは、お蔭さまで水害も山崩れの心配もあまりないのだが、TVであちこちの被害を見せられると、心が痛む。

どうか、何事も無く、いい季節のまま、冬を迎えられるよう祈りたい。

 

2014年9月19日金曜日

秋の庭


庭の片隅に、彼岸花が咲きだした。今年のように燃えもせず、ただむし暑い夏であっても、カンカン照りつける夏であっても、彼岸花は、きっちりと彼岸に花を咲かせるから、実に律儀な花である。

ちょっと横に目を移すと、白萩の花も今を盛りと咲き競っている。草かんむりに秋と書いて萩と読むのは、秋を代表する草花であることの証拠だろう。

裏庭に回ると、栗の古木が二本。イガを付けたままの栗が一面に落ちている。そのほとんどが虫食いの栗なので食べられそうにもない。消毒をしないので虫の付き放題だ。実の入らない時期から落ち始めるので、もう殆ど落ちてしまった。栗は食べられないし、花を咲かす頃は、へんな匂いをまき散らし、そばには洗濯物など干すと、べっとりとしてしまうし、ろくなことない栗の木だが、さて切ってしまうのも可哀想な気がする。

そういえば、今年も柿は不作のようだ。2本の柿の木を見上げると、実は数えるほどしか止まっていない。花は沢山さいて、小さな実がべったり枝にしがみついていたのだが、大きくならぬうちに、ポタポタと落ちてしまった。自分の体力に合わせて実を落としてしまうらしい。植物も、我が身大事ということだろう。

この柿の木も、20年も前、ぱったりと実をつけぬ年が4,5年続いたことがある。私が、「実のならん柿の木なんかいらんのでよ。今年生らなかったら切ってしまうからな」と言いながら幹をポンポン叩いた。そうしたら、その年から実を再び付け始めたのだ。私のことばが通じたわけではないのだが、こんなことがあると、ついついことばをかけてしまう。「今年はもう実をつける元気もなくなったんかいな。年寄りになったなあ、あんたも」と。

そして台風が来るときは、「頑張って倒されんように、ふんばっとるんよ」と。(笑)

ま、手入れもしてやらず、下草も伸び放題の悪条件の庭に生き続けなければならない木々たちだ。たまには優しいことばのひとつもかけてやらねばと思っている。

 

2014年9月17日水曜日

年金その月暮らし


偶数月の15日は、年金日である。私の会計簿は、1日から始まるのだが、お金は、年金の日に合わせて出し入れをしている。いや、出してばかりで、入れることはまずない。

年金日というのは、銀行はかなり混んでいて、待たされることが多いので、次の日16日から、翌月の15日までを1か月の生活費でやりくり、ということにしている。機械で出すのは簡単だが、新札にしていただいたり、使いやすいように、両替したりするので、窓口の方で、ということになる。

以前は、面倒なので、年金が入ると2か月分の生活費を一度に出していたのだが、最近は、毎月出すことにしている。一度に出すと、どうしても最後は足りなくなって追加しなくてはならなくなることが分かったからだ。通帳から、直接引き落とされるものがかなりあるので、それらを考えて、赤字にならないように、現金での生活費は、きちんと決めた範囲内でと心掛けているのだが、手元に現金が多くなると、気も大きくなるのが人情というもの。

ということで、昨日16日が銀行へ行く日だったのだが、忙しくしていて、今日になった。しかも、時間が過ぎていて、窓口には行けなかった。

心細かった財布の中身が、やっと息を吹き返している。(笑)ただし、1か月分の半分を入れた。これで今月末までをやりくりする。特別な出費の予定のある時は別だが、普段の生活では十分だ。……と、計算上ではなる。

とは言いながら、きちんと予算を立てているわけではない。どんぶり勘定というのは、計画的な使い方ではない。

こんなことを書いていると、いかにもやりくりに気を使っているように思われそうだが、事実はまったく違うから【書くこととすること】は、当てにはならないものなのだ。(笑)

 

2014年9月13日土曜日

思い付くままに


9月ももう半ばがくる。9月といえば、早くも一年の三分の二が過ぎたということだ。すぐ年末が追いかけてくる。1年がとても短く感じるのは、人生の残された歳月が常に覆いかぶさっているためだろう。一日一日を大切に過ごさねばならないと思うのだが、そんな黄金の日々を、物探しなどの時間につぶされるのは、甚だ勿体ないことである。そう思いながらも、今日も買い置きしてあったあれがない、どこにしまったっけ……と捜す。

行事だけではなく、今は使わないモノの置き場所までメモしておかねばならなくなりそうだ。いや、そんな物は、いる時に買うことにするのが一番手っ取り早いということらしい。

 

★このトシがきても、世の中の殆どのことを知らない、ということが良く解るのは、他人様の書いたものを読んでいると、実感できる。自分の生活範囲、専門範囲のことは、少々知っていても、目から鱗、ということはよくあることだ。

本を読む、ということは、人間に与えられた有難い行為。でも、「もう、本を読むのも体力気力がいるので億劫になった」なんて思うことがある。そんな時、「これを書いた人の苦労と、読む苦労、どっちが大変?」と、言い聞かせている。書いた方のご苦労を思うと、読むくらいは容易なこと。とはいうものの、もう分厚い、字の小さな本は、買うことはなくなった。

 

 

 

2014年9月11日木曜日

敬老の日


今年も「敬老の集い」の案内を頂きました。私の住む町では、たしか75歳から、敬老会の招待状が届きます。「おめでとう」と祝ってくださるらしいのですが、今まで行ったことはありません。あまり関心がなかったと言うのが本心です。

案内は頂いても、出欠の返事を出す必要もないし、気がむいたら、出掛けたらよいだけですが、出席された方のお話では、特に講師さんがいらっしゃって、これからの老人の生き方とか、役に立ついいお話を聞くということもなく、お偉い方々の形式的なお祝いの言葉を受け、中学生などの演奏を聴いたり、阿波踊りを見たり、タオルなどの記念品を頂いて帰ってくるらしいのです。

借金を抱えた町の財政を考えますと、無理は言えないのですが、それならば、こんなことよりも、だんだんと厳しくなっていく貧困家庭の教育予算にでもタオル代だけでも回して欲しいと思うのです。

招待には欠席しますが、これを機会に、色々とこれからの生き方を考えてみました。
残された日々がどれほどのものかは分からないのですが、「精一杯、自分らしい生き方をしなくっちゃあ」と思いました。ま、これからの残り人生が、私の総仕上げのようなものになればいいのですが、「よいこらしょ・どっこいしょ」と、転げ落ちそうな厳しい坂をのぼっていかねばなりません。でも、どんな時も、健康な心身でありたいと思います。

先日、TVで健康についての講演を聞きました。中国の太極拳や、いろいろなことも研究なさっているのですが、要は、体を動かすことと、深呼吸をする、ストレスを溜めないで、いつもにこにこしていることがいいと。

そして姿勢は、いつもでなくてもいいのですが、時々気にかけて背すじを伸ばすことが大切なようです。
私も数年前までは、外を歩くときは、背筋をのばし、誰かに見られていると思って、さっさと歩くようにしていました。そうすると、ほんと、元気になったような気分になれました。

でも最近は、外を歩くときは、【転ばぬように】ということに、神経を集中させていて、姿勢のことは、忘れがちです。ときどき、鏡やガラスに移る姿を見て、「ああ、お婆さん歩きになりつつある」なんて舌打ちして、背すじをのばしていますが……。(笑)

 

2014年9月10日水曜日

眠たくなるまで……


どうも仕事がいろいろあって、ブログまで手が回らない。今日も、朝から、印刷所に行ったり、あれこれしているうちに夜になり、マデーラ劇塾の最後の追い込み(12日の公演)のお手伝いに出かけ、11時過ぎまで。帰ってからいつもは簡単なシャワーくらいしかできないのだが、久しぶりにゆっくりとお風呂に入って頭も丁寧に洗っていたら、こんな時間だ。午前1時過ぎだ。こうなると、すぐには寝付かれない。日記でもと思ってパソコンに向かった。

今回は、頼まれての公演で、30人程の集まりの会場(ホテル)での公演。ま、お座敷がかかったわけだ。台本は、専門家の書かれたものなので、私は何の苦労もしていないので、せめて苦労なさっている方たちのお手伝いをしている。4人ほどの希望者が練習しているのだが、何しろ台詞が多くて出演者は大変なのだ。私も猫よりましなので、台本片手でプロンプター役をしたり、来られない方の代りをしたりと、最後までお付き合いしている。

役者になりたかったような方3人が主役のような役なので、台詞はさすがに早く憶えられている。しかし、演出の先生が事細かく動きのご指導をなさると、台詞が出てこない、といったような塩梅だが、皆さん熱心で、時間を忘れて練習なさる。先生の演出も、そこまでも……、と思うほど、細かい指導をなさるので、とても勉強になるのだ。私も時間を忘れ、少々体調が悪くても、大丈夫なのだ。

さて、もう寝ないと、明日の体調もあることだ。お休みなさーーい。

 

2014年9月5日金曜日

詩心


地方の小さな文芸誌であっても、事務局をしていますと、いろいろと雑用はあります。今日は9月4日、書いている間に日付けが変わりそうですが、昨日は、何人かの役員で、印刷所から頂いてきた第1校の校正をしました。
今日は、それを持って、印刷所へ行って、直しの部分の説明をしてきました。土曜日の午後、それを頂きに行き、月曜日は、第2校正をします。校正は、作品ばかりではありません。名簿、目次、扉、空いているところのカットや埋め草、広告などなどで、3回、4回の校正が必要となります。ちょっとした雑誌も、なかなか手間ひまのかかるものです。

こうしたことを一人でなさっていて、グループの冊子を作られている方もおられます。短歌、俳句、詩等の冊子作りです。好きでなければ゜出来ないことですが、頭が下がります。

そうした冊子が、私たちの事務局にも贈られてきます。冊子その他個人的に出版された本など、いただきますと、出来る限り目を通して御礼状を差し上げています。そして、年4回発行している文芸便りに紹介して、みなさんにいつでも貸出しするような仕組みになっています。

そのおかげで、詩、短歌、俳句などの冊子を読ませていただく機会があるので、自分では作れない短詩型文学にも、興味はあります。俳句はいっときあるグループに入れていただいて学びました。しかし、「難しくて奥が深い」ことが良く解り、主催の方が止められたのを機会に、離れてしまいました。短歌は、自己流に作ることはありましたが、何でも勉強しないとモノにはなりませんので、【作れる】なんて言えません。本気で作りたいのなら、周りに先生はおりますのに。(笑)

詩はとても難しくて書けないもの、と、初めから決めてかかっています。理由は、自分でもよく分かっています。詩には難しく解りにくいものが多いので、自分には、こうしたセンスがない、と。

詩は、心中に隠された思いや、感覚、感情などの、微妙なゆれや、美的感動などを、表現する省略の文芸です。その省略されているものが、何であるか、読み取れなければ、分かりません。ただただ、難解なものとなります。

しかし、考えてみますと、俳句にしても、短歌にしても詩になるか、単なる日常雑事の断片的記録になるかは、やはり作り手のセンスというか、詩心というか、その違いでしょうから、私にはムリとあきらめています。

むろん省略の文芸といっても、実用文や、散文エッセイを省略していっても、けっして詩にはなりません。たんに、文章をあいまいにさせるだけです。

ただ、このセンスというもの、ある程度磨くことはできても、持ってうまれたものが多分にあるように思うのですが、どうでしょうか……。
ま、何であれ、努力せずに、センスが無いから、何て、言っていたのでは、なーんも、ものになりそうにありませんが……。(^^;;

 

2014年9月3日水曜日

大臣という仕事


第二次安倍内閣が発足するようです。この時期になぜ内閣改造なの?と言う気がしました。災害続きの夏です。大変な目に合っている人たちがたくさんいます。

何やら、もっともらしいことをニュースでいっていましたが、

ある新聞の編集長は、こう言ってます。【基本的に自民党の政治家は、当選回数順で大臣や副大臣などのポストが割り当てられます。自民党は民主党政権時代には野党でしたから、与党が続いていれば、とっくに大臣や副大臣になっていたはずの人がたくさんいるわけです。選挙の時には、元○○大臣という肩書きは重要ですから、なるべく多くの政治家をポストに就かせることが重要となります。このタイミングで内閣改造を実施する最大の理由はここにあります】と。

ま、そうだろうと思います。より力強い内閣なんていってますが、まともに聞きますと、首になった大臣さんは、力不足だつたように聞こえます。(笑)

自民党にだって、頭の切れる人物は、たくさんいらっしゃるでしょう。どんな仕事ぶりなのか、私には分りません。新しい大臣さまは、皆さん立派な方たちと思います。でも、何となく、官僚の傀儡大臣になるのでは、と思われる方もいらっしゃるような気がしてなりません。第一、当選回数順で大臣や副大臣などのポストが割り当てられるなんて、どう考えてもおかしいです。地盤とお金で当選出来る自民党議員は大ぜいいらっしゃいますから、保守王国県などから出ている議員さんは、そんなに実力が無くても、ずっと当選してきました。そんな方が、官僚を指導出来るとは思われませんもの。その点、仙谷由人さんは、心ある官僚の方たちから、尊敬されていましたし、出世主義のしょうもない官僚からは、嫌われていたと思います。

自民党は、脱官僚は、ほとんど言いません。言えないと思います。官僚になにもかも お任せですから、当然です。大臣になるくらいの方たちは、官僚の一段上に立っていただきたいものです。専門的なことを教えて頂くのはいいですが、批判力や、総合判断力がないと、官僚のいうままに傀儡人形になってしまいます。

仙谷氏のように、官僚を指導せよとは無理かもしれませんが、せめて、官僚のか考えていることを見抜いたり、間違いを正すことくらいはしていただきたいと思います。
あの東北の大震災のとき、災害を受けた市長さんや県知事さんが、色々とお願いしても、法律の壁とか、条例の壁で出来ないという官僚を、「こんなときに何を言う」と一喝できたのは、仙谷さんだけ。ですから、インテリヤクザなんて、ありがたくない名をいただいたりもしたわけてす。でも、【仙谷危ない】の報道で、驚いて飛んできた東北の市長さんや有志の方、元自民党の大物議員さん等が選挙運動に駆けつけてくださり、仙谷氏自身が言っていない様々な業績を徳島県民に教えて下さいました。でも、自民党こぞって【仙谷落とせ】の大作戦にとてつもない出鱈目のデマを飛ばされて、破れました。

ま、その県民のレベルで、議員のレベルが決まるというのは、なんとも言いようのない悔しさです。

さて、徳島2区選出の山口氏が、何とか大臣になられました。私は失礼ながら山口氏が、そのようなご立派な方とは知りませんでしたが、どうか、頑張ってください。いざ選挙となりますと、2区から出る予定の高井美穂さんは、苦戦をよぎなくされるでしょう。大臣の笠を被った山口氏と、若くして実力を買われた文部科学副大臣では、やはり笠の大きさがちがいますものね。

ま、美穂ちゃん、こんなときこそ、「大臣なんて怖くない」と、胸張って、堂々と闘ってくださいね。

2014年9月1日月曜日

難しい質問


もう9月になった。夏も後ろ姿を見せている。大きな爪痕を残し、暴れまくったた夏なので未練はないが、秋こそは、静かに静かにやってきてほしいものである。

「性根って何ですか」という生徒の問いに、「根性のことや」と答えた先生。別の子が、「根性って何ですか?」と聞くと、先生「性根や」(笑)

先生も子供も笑っていた。昔、隣の教室から聞こえてきた漫才のようなやりとりだ。

先日、本屋での会話を盗み聞きした。小学生の中学年くらいかな? 女の子が「魂って気持ちのこと? 心のこと?」と、母親に聞いている。母親は、「うん」といいながら、自分の読んでいる週刊誌から、目を離さない。(笑)

そういえば、昔これと同じような質問を、だれかに受けたことがあるなあと思ったが、だれかはっきりとは思い出せない。孫か、教え子だろう。

うーーん。相通ずるものはあっても、簡単にイコールで結ぶことも出来ないように思うが、ま、相手は小学生。難しいことはわからないだろうと、詳しくは言わなかったにちがいない。

【気が変わる】のと、【心変わり】はちょっと違うし、まして魂ともなれば、その重みはぐっとちがってくる。

気持ちが変わることは別に咎められることはあまりないし、よくあることだ。心変わりはそうはいかない。よい場合もあるが、ちょっとした騒動のおこりそうなこともあるやもしれない。魂となると、人の真価を問われる精神の核ともなるものだ。神や仏の分身の宿るところと説く人もいる。

柳沢桂子さん訳「般若心経」によれば、この宇宙に存在するものは、すべては粒子から出来た一枚の布のようなもの。肉体も心もないとおっしゃる。魂も無であり空なのだ。

私は、魂も肉体も全てが無・空という悟りとは程遠い人間なので、この齢がきても、死ぬことはイヤなことである。イヤなことから何とかイヤでなくなるために、あれこれと思いをめぐらせている凡人である。

でも、魂が肉体を離れて、千の風に乗って自由にとびまわれるならば、そななにイヤなことでもないなあ……なんて思ったりもする。