新芋が出始めた。鳴門金時という徳島県のブランド品である。鳴鳴門金時に因んだ「鳴門金時」というお饅頭やお菓子もある。さつま芋の産地は、いろいろあるが、鳴門金時はけっこう名が通っている。
さつま芋と聞いただけで、イヤな思い出につながる人もいて、「イモは、たべたくない」と言う人もいる。それは、戦時中の食糧難時代、ご飯の代わりに芋を食べさせられた、というのだ。
終戦の2年位前から、いよいよ食糧難になり、土地の空いたところには、カボチャや、さつま芋を作って【代用食】としたのだ。それは、今の家庭菜園のようなものではなく、趣味だの楽しみなどといったものとは程遠いものだった。何しろ、配給されるものだけの生活では、栄養失調になったり、病気になったりして、死んでしまうという、時代だった。
土地のない人たちは、法を破って闇で食糧を手に入れなければ生きていけないのだから、命がけなのだ。
当時の代用食のさつま芋は、今のように、品質改良された美味しい芋ではなかったから、思い出の芋を連想して、食べないというのは、ちょっとおかしいのだが、分からぬでもない。
私にも、さつま芋には苦い思い出がある。
北海道の帯広高女から、美馬女学校(今の穴吹高校)に転校したときのこと。丁度夏休みが終わり、2学期が始まったときだ。
運動場は耕されてさつま芋が植えられていた。当時は、「農業」という時間があって、生徒は、1平方メートルの土地をあてがわれ、それを耕してさつま芋を植えてあった。
転校生の私は、もう空き地がなかったので、一番隅っこの石ころだらけの土地をあてがわれて、芋苗を植えさせられた。
他の生徒は、もう蔓が青々と茂っている。いくらなんでも遅すぎるのだが、仕方ない。
そして収穫の日、自分の芋を抱えて先生のところに持って行き、目方を計る。私は、親指の細長いような芋を両手に握って秤の上に載せた。恥ずかしかったがしかたがない。先生は、何もおっしゃらなかった。いつも、にこにこしている、どこかお百姓さんのような先生だった。ホッ。でも、そのあとがいけない。
何と、2学期、始めての通信簿を見て驚いた。通信簿の点は、農業=可と付いていたのだ。優・良・可の可だ。何の情状酌量もない判決だ。どの教科でも、可などいただいたことがなかったものだから、通知表を見て涙がでてきた。
今でも、にこにこしていた農業の先生が、目に浮かぶ。(笑)