以前、旅行先の公園で、一人の女性に声をかけられたことがある。
「すみませんが、あなたの血を清めさせてくれませんか」
「…………」
「お願いします。ほんの一分でいいのですが……」
「はい、どうぞ」
私は単純人間なので、傷つけられるわけじゃない、そんなにお望みなら我が身献上、ということになる。
何もしなくていい……ということだったのに、私は目を瞑って合掌するように言われた。言われたとおりにしているものだから、相手が何をどうしているものやら分からない。彼女が発光体のような格好で、手を翳してでもいるのだろうか……。そんな図を想像すると、おかしくてしかたがなかったが、ことがことだけに私は笑いを堪えていた。
「有難うございました。奥さんの躰の血も、たいへんきれいになりました。血圧もさがりますよ。お躰の調子もよくなられますからね」
「あ、それは嬉しいです。どうも有難うございました」
私は正直に、(あっ、これ以上血圧さがったら、私は倒れてしまうんですが……)とは言わなかった。また拝み直されでもしたら面倒である。
ある宗教団体の方がよく小冊子を持って玄関先に見えられる。「この世はもうじき、戦争も病気も死もなくなり、地球上の生きもの総てが仲良く、永遠に幸せに暮らせる世の中になります」と断言なさる。
この方たちは、どういうときも輸血は拒否、どんな選挙も、この世は神が治めるものという理由から棄権されるとか聞いたことがある。聖書も解釈のしようでは、こういうことにもなるのだろうか……。
実はこんな話を思い出したのは、歯医者さんの待合室で、ある青年が、こんなことを話しているのを聞いたのだ。
「ぼくは、以前交通事故で、半年?ほど意識不明になっていたのだが、ある宗教に誘われた母が、拝んでもらったところ、『おたくの息子さんは、必ず意識がもどってくるから、しっかり信仰しなさい』と言われて、信仰した。そのお蔭でぼくは助かった」……というようなことだった。
常日頃あまり信仰心のない私などは、そういう話を聞いても、それが信仰のおかげとは、なかなか信じられないのだが、その青年も、不思議な出来事のように話していた。
我が家の宗教は、先祖代々の法華宗で、私は毎朝一度はお線香を立てて「南妙法蓮華経」と二、三度唱えて手を合わせる。ただそれだけのことで、決して信心深いとは言えない。
しかし、宗教を全く軽蔑しているわけではない。進化論や科学の発達で、あの世の極楽や天国を否定しつつも、生まれた以上、どうしても死なねばならぬ人間には、何らかの宗教的救いを求めて生きていくことのほうが、幸せなことだと思っている。だから私には私なりの宗教に似たものが、根を張っている。
私は、この地球という大きな生きものの中で、全ての生きもの、物体は、生かされたり還元されたりしている……と考えている。ちょうど、水の泡が消えて水になるように、私たちは、死んだら地球の一部分になる。そしていつか植物になったり石になったり生物になったり循環していくだろう。そこに脳細胞というものが生じるならば、自然発生的に(生きている自覚のできる)命・感情も発生する。どの命も、全て根源はひとつの地球であるから、地球の続くかぎり、私は生き続けられるということになる。この場合の「私」というのは、むろん今の私とはまったく無関係な別の「私」なのだが。
こういう私なりのテツガク? によると、誰かの言ではないが、地球上の人間は、みんな兄弟であって、……いや、自分自身といってもいいのかもしれない。(この循環説、ちょっと大きすぎて、いつでも誰でもには語れないのが欠点だが……)。
以前、新聞で梅原猛さんの小文を読んだことがある。近代的合理主義や世界観によって、あの世を失ってしまった現代人は不幸だ。昔の年寄りには、亡くなった人たちとの再会と、生まれ変わりという、二つの楽しみがあった。
こうした「循環の思想」にたつと、この世で我侭勝手はできなくなる。自分が生まれ変わって出てくると思えば、環境破壊にもブレーキがかかるというもの。昔の考えをもう一度学び直して、今の技術文明と両立させることが大切ではなかろうか。自分も現代人だから、循環の世界観に、全面同化しているわけじゃないが、年を寄せてきて、だんだんと躰の中にしみ込んできた。顔も知らない実母や、可愛がってくれた義父母、その他親しい人たちにいずれあの世で会えることが、少しずつ楽しみになってきた……。
たしかこんな話であったが、私にはとてもおもしろい話だった。私の循環説と、相容れぬものはあるが、(吹き出さないでください!)現実的な楽しみがあるというのは実にいいなと思った。