昨日、『親の顔が見たい』という演劇を観に行きました。
今、ちょうど世間を騒がせているいじめ問題を取り上げたお芝居です。
自殺した生徒の遺書に名ざしされた子どもたちの保護者が、学校に呼ばれます。
そこで繰り広げられる【我が子可愛さ】のための言動。真実の究明などそっちのけで、我が子を庇う親や祖父母の顔が浮き彫りにされていきます。
子どもたちのいじめの根深い原因、学校の対応なと、ちょうど大津の自殺問題と重なって、観るものの心に響くお芝居でした。
大津問題にしろ、このお芝居にしろ、友達を死に追いやったことへの反省、罪悪感は、ちょっと理解に苦しむような薄っぺらなものです。
いじめの内容を聞かされても、まさかうちの子が、そんなひどいことをするはずがない……と、親も理解できないのです。
何の不自由もさせていない家庭の子。反対に、子どもだけには希望の学校にと、頑張っている母を見ている子ども。どちらも親からみれば、「うちの子が、そんな子になるはずがない」のです。
ほんとうなら、常識で考えたなら、その通りなのです。
今の子どもたちは学校では、ほとんどの子が何人かのグループで仲良くやっています。そんなグループから、何かの原因ではぜのけられると、すごく落ち込みます。そのような子が、昨日まで仲良しだったグループの仲間にいじめられることが多いのではないでしょうか。
いじめは1対1ではなく、主犯格の子がおり、その子に嫌われるのを恐れて、仲間は主犯のいうがままに犯罪を重ねていくことも多いと思います。
子どもたちは群れからこぼれることを恐れます。いじめなければ、自分がいじめられると思うでしょう。
昔から、子どものいじめはありました。でも、いじめられて死ぬ子も、死ぬまでいじめる子もいなかったように思います。
自分のしたことは、遊びの範囲だったとか、ふざけていただけとかは、子どもらの弁解で良く聞くことばです。
本当に子どもらは、ゲーム感覚で友達をいじめ、殺すこともゲームの延長だったのかもしれません。
皆が皆、そういう子どもに育っているわけではありません。
しかし、何かが、どこかで、育つものが育たなかったということでしょうか。
私は以前から思っていたのですが、TVの影響は大きいと思います。家に帰って友達と走り回って遊ぶことをせず、塾に通うかTVを視るか、ゲームをする、といった毎日。
しかも、TVは、殺し合いや殺人など、いつもどこかの局でやっています。ゲームも同じです。
脳がまだ未発達のうちに、そうした人殺しを日常茶飯事のように頭に刷り込まれていく恐ろしさ。
ニュース報道にしても同じです。
マスコミがこぞって報道するおぞましい事件を、何度も繰り返し見せられ、そのようなあと、派手な報道の影響を疑いたくなるような、類似の事件が後に続くということが何度もありました。
報道は病原菌をばら撒いているのではとさえ思いました。
こうしたことに、一緒にみている親や祖父母は、こうしたことが決して現実ではない、当たり前ではないことを、強く言い聞かせねばならないと思います。
今もいじめ報道が止まりません。この報道が新たな連鎖を生み出したりはしないだろうかと心配です。
いじめに苦しんでいる子が、「自分もこのように行動すれば、テレビや新聞がとりあげてくれる、敵討ちをしてくれる」などと、とんでもない考えをおこしたりしはしないか。
報道は、いじめに耐えながらも、必死になって頑張る、生きようとする姿こそを、しっかりと伝えてほしいものです。
悪いことに、最近の子どもは、本物の死を家の中で見ることは、殆どなくなりました。子どもたちは、現実の死を知らないのです。
こうしたことも、死を軽くみることの原因かもしれません。
……思うままにあれこれと書きなぐりましたが、ただただ、子どもを絶対に自殺などさせてはならないと思うのです。
最後に未来ある子どもたちに大きな声で叫びます。【どんなことがあっても死ぬな!産まれて来たのは生きるためだ!生きるんだ!】