2012年3月31日土曜日

倚りかからず

自分では「やってみたい」とか、「作ってみたい」と思っているのに出来ないことはたくさんあります。その一つが詩を書くこと。
私の不得手なことをなさっている方を羨ましく思ったり、尊敬したりするのは当たり前のことですが、その中の一人が、詩人『茨城のり子』さんです。

彼女の書かれた詩集『倚りかからず』は、1999年秋に出版されているのですが、何度読んでも背すじがピンとしてくるような、とても気持ちがシャンとしてくるのです。
本のタイトルになった詩をご紹介します。(ご存じの方も大勢いらっしゃると思いますが)

   もはや
   できあいの思想には倚りかかりたくない
   もはや
   できあいの宗教には倚りかかりたくない
   もはや
   できあいの学問には倚りかかりたくない
   もはや
   いかなる権威にも倚りかかりたくない
   ながく生きて
   心底学んだのはそれぐらい
   じぶんの耳目
   じぶんの二本足のみで立っていて
   なに不都合のことあるや
   倚りかかるとすれば
   それは
   椅子の背もたれだけ

易しい言葉なのでよく解ります。ですからなおのこと圧倒されるのでしょう。
彼女のリンとした声まで聞こえてくるようです。
倚りかかった生活をしている自分の足元を見つめさせられます。
自分の生き方を反省させられます。

現代詩は、難解なものが多くて、手がとどかないものが多くありますが、こんな詩に出会いますと、『詩っていいなあ……』と、心の洗濯をしたような気分になって、元気もいただけます。

あ、こんな詩もあります。

『笑う能力』
「先生お元気ですか
我が家の姉もそろそろ色づいてまいりました」
手紙を受け取った教授は
柿の書き間違いと気付くまで何秒くらいかかったか
                    略
 
ふふふっ。私の書いた「ニキビ」(3月13日)より、ずっとマシな手紙だと思いませんか?



2012年3月30日金曜日

芝居 『静かな落日』

先日、劇団民芸の『静かな落日』という芝居を観た。作家広津和郎(伊藤孝雄)が、ふとしたことがきっかけで、社会正義のために、あの有名な松川事件(1949817日福島県松川を襲った列車転覆大事件)の冤罪と取り組んでいく和郎を中心に、その父広津柳浪(安田正利)や妻松沢はま(仙北谷和子)別居している妻と住む娘広津桃子(樫山文枝)と、複雑な家庭環境、温かい友人等のあれこれを交えながら、広津家三代の、生き様を淡々と描いていく、という芝居である。

初めっから、滋賀直哉(松田史郎)だの、宇野浩二(小林勇二)だのと、懐かしい文士が出てくるので、引きつけられていったのだが、若い世代の観客は、ひょっとして、退屈な芝居であったかもしれない。何しろ、松川事件など、知らない人には、舞台の上で、事件の取調室(初めから罪をでっちあげていく)の場面だけでは、冤罪の恐ろしさは分かっても、事件そのものは理解しにくかったと思う。

それはそれとして、広津家のいろいろを演じる役者の、ちょっとした動作で観客の笑いをとることや、少ない動きの中でも、心の動きを演じ分ける役者さんに、さすがだなあと、感心。シニア演劇塾生として、色々と学ばせていただいた。

それにしても、このブログでも以前、映画で観た『布川事件』の冤罪映画のことを書いたが、再び冤罪の恐ろしさを観て、身の毛もよだつ思いであった。

徳島市民劇場の会員は、毎月2.200円の会費で、年5回の演劇を楽しむことが出来る。運営は大変らしいが、何とか続いているのは有難い。会員を増やしていくことが続けて行くことの基本なのだが、それも課題だろう。なかなか、簡単には増えていかないようだ。

音楽、演劇、芸術、その他文化というのは、生活の中で、贅沢の部類に入るのだろうか。
私はそうは思わない。文化という栄養が、心を育てていることは間違いない。
一見、役に立ちそうにない芸術や文学、いわゆる教養と言われているようなものを体験することによって、心の成長というか、家族愛、もののあわれ、郷土愛、祖国愛、人類愛、そして勇気、正義とあらゆる心の成長にかかわってくるものと信じている。

2012年3月29日木曜日

消費税のこと

困ったものだ。何日かけて相談しても、意見が割れたままの民主党内部の纏まりのなさ。
どれだけの議員が、どれだけ国民の幸せを考えて議論してくれているのか、私たちにはさっぱりわからないのだが、国の切迫している状況はよく解る。
国民は、本当言うと、将来も考えて、今、どちらの道を選んだら、国民が安心して暮らせるようになるか、右でも左でもいい。正しく先を見通せるセンセたちが、「第一は国民の幸せ」という考えで選んでくれる道をついていくしかないと思っている。

反対する議員の中には、もっとじっくり議論をしなければ云々とおっしゃるが、じゃあ、いつまでですか?とたずねたい。相手の言っていることを理解する考え無しに、自分のいうことを押し通そうとする姿勢は、議論する資格がない。何事でも、議論出来る相手と、そうでない相手がいる。いつまで議論しても、変わらないという現実を知ってのことなのだろうか。

小沢さんに尋ねたい。消費税を上げなくても、お金は無駄をはぶけば出てくるとおっしゃっているが、どこにあるのか、具体的に、こうすれば、これだけのお金が出てくると、示して貰いたい。同じ民主党員であるのなら、それを示さず、反対ばかりいっていると、子分の一年生議員を次回も当選させることが出来ないので、反対していると思われてもしかたがないではないか。

その内容が、本当に出来ることであれば、小沢さんの言うとおり、消費税など、あげなくていいはずだ。
ただ口先だけでいうのは、剛腕政治家と言われている小沢さんらしくない。口先だけなら、私でも言える。

センセたちは、当選してなんぼのもの、ということはよく解る。実力のある議員さんがたまたま落選しても、国の為に活動する場はある。昔、仙谷議員が落選したとき、テレビの中で何人かのお偉い方が、仙谷さんを落選させた徳島県民を笑っていたが、落選したからといって、ただ次回のせんきょ運動をしていらしたわけではなかった。後輩の議員の指導から、民主党の立ち上げの大黒柱となって活躍なさっていた。
でも、落選議員の皆が皆、仙谷さんのようにはいかないだろう。落選と同時に、『ただのひと』、という方が大勢いらっしゃる。そんな方たちは、消費税反対しなければ、当選出来ないと変な誤解をしているようだ。

国民は、今の自分の財布のことばかり考えているわけではない。自分や国の将来の心配だって、けっこうしているのだ。納得のいく消費税ならば、何パーセントになろうとも、歯をくいしばって、我慢する。

センセさまよ、もっと真剣に私たちのことを考えてくだされ・・・。

2012年3月28日水曜日

ひと月過ぎて……反省

ブログをはじめたのが、2月24日でした。1ヶ月目に反省してみようと思っていたのですが、ちょっと遅れましたが今日は、手を胸に反省です。

私のブログを見てくださっている友人が、「毎日よく材料が見つかるねえ」と言ってくださいました。80年も生きてきたら、思い出だけでもけっこう背負っているので、そんな袋から引っ張り出してくれば、何とかなるもので、そうした心配はあまりしていません。ただ、読んでいただけるかどうか、の問題ですが……。
更に欲を言いますと、読むのではなく、味わっていただけるものが書きたいと思っていますが、まだそこまでは行き着けておりません。

また、ある方は、「毎日書いているけど、あまり無理しないのがいいよ」と言ってくださいました。
今のところは、無理をしているつもりはないのですが、日によっては、朝から夜まで、雑用に振り回されることもありますし、一日中家を留守にすることもあります。
パターンとしては、夜就寝前に、翌日投稿するものを書き、翌日パソコンの前に座ったときに投稿しているのですが、日によっては、投稿が午後になったり夕方になったりすることもあって、不規則です。

日付けが変わる頃まで忙しくしておりますと、体も頭も疲れてしまって、エッセイを書く元気もなくなり、翌日に書くこともあります。昨夜がそうでした。なるべく日が変わる前に、布団に入るようにしたいと思っていますので……。(6時間は、布団の中で横になっていたいので)

ただ、私の気持ちとしましては、つまらぬ文章でも、「毎日楽しみに読んでる」とおっしゃっていただくと、何でもいいから、載せて読んでいただこう、と思って、過去に書き散らしてきた文章を手直ししながら載せさせていただくこともあります。
とにかく、1か月は、休みなく・・・という目標だったので、それは通過できたと喜んでおります。

色々と手を広げていますので、(註・税務署様に申し上げます。まったくお金になるような仕事ではありません)これからは、無理せず、やっていこうと思っていますので、時々歯抜けの投稿になるかと思いますが、よろしくお願いします。


2012年3月27日火曜日

ミニ同窓会

昨日は、ミニ同窓会に出かけた。10人ほどが、毎月ホテルなどの一室に集まって、昼食をとりながら、近況を話し合ったりしている。
全員が元教師なので、話しが合うというか、話題にこと欠かないので、次々と話が弾む。時間がくると、喫茶コーナーに席を変えて、また続く。ちなみに会の名は『百舌の会』ぴったしの名である。

毎回きまって出てくる話題は、膝が痛いだの、腰が痛いだの、身長が縮んだの、財布を落としただの、誰それが亡くなっただのと、あまりハツラツとした内容ではないのだが、けっこう笑いが途絶えないという集まりでもある。

昨日は、老人施設の話しが出た。施設にも色々あって、自分たちが入るとなれば、どこがいいか、そろそろ考えておいたのがいいような話題だ。身辺整理の難しさも、皆が何度も体験済み。思い切りの悪さを嘆くことしきりだった。

こうした集まりに積極的に出てくる方たちは、ほとんど前向きな毎日を過ごしており、することがいっぱいあって忙しく動いている。趣味の会、習い事、ボランティア、中には夫の介護に病院通いという方までいるのだが、それでも笑顔で集まってくる。
忙しいからと言って、「出てこれない」と仰る方は滅多にない。遅刻しても、日を変えてもらってでも出てくる。この会が、『楽しい会』ということであり、それだけ私たちにとっては、大切な会でもあるのだ。

いつも思うのだが、同級生というのはいいものだ。お互いに口に出すわけではないのだが、腕を組んで、坂道を助け合って登っていくような、そんな絆で結ばれている。
あるいは、山登りのザイルのように、あるときはAさんが先頭になって引っ張り、ある時はBさんが後押しをして、といったように、助け合っているのだ。
だからもう10年も続いている。それぞれバラバラの性格の集まりだが、誰もが、仲間を大切に思ってる。
こんな仲間を持つことの幸せを噛みしめた一日であった。

2012年3月26日月曜日

在所

昨夜は、年一度か2度の班の集会に出かけていた。
私の住む在所は、昔、私が嫁にきたときは、かなり広い在所にたった12軒という田園地帯で、わずかに点在する人家をつつんだ田園が、とても静かで美しかった。夕べともなれば、一斉に影絵となり、やがて闇になる。『狸の巣』ともいわれていたところである。(私はひょっとして狸に化かされて嫁に来たのかもしれない。)
 
部落では、毎月、各家を持ち回りで『お大師講』という集まりを欠かさずにやっていた。当番になった家は、大きなはんぼに、散らし寿司を作り皆さんに食べて頂く。12軒というのは、毎年同じ月に回ってくることになるのだが、わが家はちょうど蕗、筍、えんどう豆、といった食材が手に入る月回りだったので、「ここのお寿司は格別美味しい」と喜んでいただいたものだ。はんぼ山盛りの散らし寿司が、おかわりの声にくずされていく様子が、今も目に残っている。

そんな在所も、今はアパートなども含めると、五百軒以上ではなかろうか。もう、狐狸妖怪の息づいていた頃とは、まったく様子が違がってしまった。
固い舗道、残っている田畑のビニールハウス、スーパーや大店舗の看板が見え隠れするし、終夜をてらす防犯灯。どれも有り難い文明のお恵みだが、こうした文明に放逐されたものの中には、形にならない夢やロマンもありそうだ。

大きく様変わりした在所は、そのうちに班分けをして、新旧の家々が混ざり合って新しいグループができあがった。

昨夜の会は、集会所で私たちの班12軒の集まりだった。
会費1.000円で簡単な夕食(握り寿司弁当)と、缶ビールにおつまみおやつ、といったものである。班長さんの引き継ぎやら、会計報告などを聞き、あとは雑談でおしゃべりをする。

何十年か前、ここの在所に家を建てられた方たちも、ほとんどが子育てを終えられ、夫婦二人暮らしである。最近建てて入会された方1軒だけが、ご夫婦と子供さんで、ついこの間来られたのは新婚さん。まるで、日本の社会の縮図のような班である。

新しく入られた新婚さんご夫婦に、「しっかり子供作ってくださいよ、お国の為に」と、何人かが声をかけていた。戦時中の「産めよ増やせよ。未来の兵隊さんを産め、お国の為に」といった言葉をふと思い出して苦笑い。
戦後は「国の為に子供を産む」などと思って産んだ方は少ないだろうが、今は産むことがお国の為になるのだから、お国も、しっかりと若い方たちの応援をしていただきたいと思う。

(ああ、年寄り、若者、子供、みーんな応援しなければならない今の時代。一体どうなるのなしら・・・と、古女は心配でならないのであります。)

2012年3月25日日曜日

汽車も好き

車大好き人間の私だが、汽車に乗るのも好きである。ただ、家から駅までが、ちょっと遠いので、滅多に汽車に乗ることがないのだが、たまには乗ってみる。窓を流れゆく風景は、いつ見てもいいもの。そんなとき、ひょっと珍しい方に出会ったりするから、また楽しい。

もうかなり前の話になるが、汽車で徳島に出かけたときのこと。
ぼんやりと窓の外をみていると、声をかけられた。
教え子だったYさんである。「先生、お変わりないですねえ。昔とちっとも変っていませんよ」と、愛想よくお世辞を言ってくれる。彼はとても優秀な生徒であったが、悪さも一人前にやっていたので、叱ることも多かった。でも明るいYさんは、そんなことも忘れたかのように、懐かしそうに、精一杯のお愛想も言ってくれる。彼の暖かい眼差しが、とても嬉しかった。

その日、帰りの汽車の中で、後ろから私の肩を叩く人がいる。顔をあげると、そこにはMさんの顔が笑っていた。「センセ、ぼくおぼえとるで?」と、人懐っこい目で私を探りながら私の前に座った。おぼえとるもないもんだ。私の手こずった悪がきの中では、王か金かという駒である。
「忘れるもんですか。よう悪さしたものね」と笑い合った。相変わらず細目で私の顔を見つめていると思ったら、「先生、トシとったなあ。はじめ、だれかと思ったわ」と言うてくれるではないか。

M君には、昔よく騙されたが、今日ばかりは本心を聞いたと、思わず噴出してしまった。「幾つになったん?」女性に向かっての、遠慮会釈のない質問だが正直に答えると、「そうかぁ。そんなになるんかい。うちのおかあはんといっしょやな。ほなセンセ若いわ」と、今度は手を返して褒めてくれる。

あれこれと、おしゃべりをして別かれたが、優等生のYと、正直なMと、同じ日の出来事だけに、可笑しさも増幅されてしまった。
でも、二人の気持ちは、共に私の胸を暖めてくれて嬉しかった。ことばの表現はちがっても、私を懐かしんでくれたことには変りない。あのときの情景は、時折り思い出しては頬を緩めている

色々なことのあった教師時代。いいことばかりではなかった。教師とは、苦労の多い仕事で、あまり楽しい仕事ではなかったと思うことがよくあるが、昔の日々が、色々な表情でよみがえってくると、胸のあたりが暖かくなってくる。

当時の教師は、今の教師よりも、ずっと幸せだったのではないかとも思える。教師という職に、一般サラリーマンとは違うという誇りが持てた時代だったし、子どもたちを、心から愛することが出来、そして真剣に叱ることも出来た。共に笑い、共に泣くことも出来た。それだけでも、教師をした甲斐があったと、今は思っている。




2012年3月24日土曜日

車の運転-その2

「免許取ります、取ります」と言いふらしながら運転の実習に入ると、まあ驚いた。想像以上に面白いのだ。
当時のセンセは、随分と厳しかったのか、「自動車学校のセンセは、イヤラシイ、イジワル」というのが定評だったので、そんなにも怖いのかと思っていたのだが、そんなことはなかった。拍子抜けだった。

不器用な私に、「あんた、車の運転初めてで? 無免で乗っていたんと違うで?」と言われた。えっ? とんでもない。車を一寸たりとも動かしたことはない。どうも私は初めから、肩の力を抜いていたらしい。不思議だった。
家に帰って夫に言うと、「アホか。煽てられただけや。煽てないと木に登らんヤツと、叱らな木に登らんヤツとあるけんな。このおばはんは、煽てたら木に登るヤツと思われただけや。ええ気になるなよ」と、叱られた。

やっと全ての教科、実習を終えて、あとは検定試験を待つばかりとなったのが6月末だった。しかし、検定試験は勤務を休まねば受けられないので、夏休みまで待つことにした。当時の学校教員は、年休というのを、殆どとれなかった。

検定までの間、ちょこちょこと自動車学校に出向き、余分に車に乗せてもらうことにした。夫がそうしろという。お金はかかるが、腕が落ちて不合格にでもなれば面倒だと。
センセに、「あんた、早く試験受けたらええのに……。ここのセンセにでもなるつもりで?」なんて冷やかされたりしたが、それでも、練習しておくのに多すぎることはないと思って何度か通っていた。

夏休みに入ってすぐに試験を受け、お蔭で合格。免許証が手に入るまでの待ち遠しかったこと。
夫は、「機械に弱いものは、新車がいい。でないと、途中故障でもしたら大変だ」と新車を勧める。自分はいつもおんぼろ車ばかりに乗っているので、故障もよくあったのだろう。乗り換えるのを楽しみにしているふうでもあった。
初心の私には、新車はもったいないと、中古の車を用意して待った。あちこち擦る可能性は十分ある。

816日、念願の免許証が手に入った。その嬉しさは、まだ忘れていない。その日は近くをあちこち乗りまわし、次の日、学校は休み中だったが、朝の通勤時間を計るべく、勤務先の学校まで車を走らせてみた。大丈夫だ。二学期からの通勤はこれで大丈夫。心配していたのは、以前に免許をとった若い方が、初めて学校まで乗ってきて、職員室に入るなり、「怖かった――。市内の運転は怖いわあ。帰りはどうしよう。帰れない。どうしよー」と、泣き出しそうに叫んでいたからだ。
怖いことはなーんもなかった。十分に練習したお蔭だろう。が、時間は思ったよりかかりそうだ。余裕をもって家をでなくてはいけないことが分かった。

お酒を飲んだら車を置いてタクシーで帰ってくる夫に、「お迎えに行ってあげる」と言ったら、「かんべんしてくれ。まだ命が惜しいわ」などと言う。私の腕前を信じてはくれない。

9月に入って通勤がはじまった。ちょうど免許を手にして1カ月たったころ、日曜出勤があり、翌日の月曜日が休日となった。
朝、夫を送り出してから、わくわくしながら家を出る。
目的地は、屋島の頂上。いつも、平坦な道ばかりなので、くねくねとした山道を走ってみたかったのだ。こんなこと、夫に言ったら絶対に許してはもらえないので、コッソリ行くしかない。国道の広い道を通りながら、香川に入り、屋島の頂上に行き着いた。道路上にある表示の通り走っていただけだ。とても快適なドライブで、気持ちのよかったこと。ああ、世界が広がったーと、思った。
今と違って、屋島はとても賑わっていた。頂上で、美味しそうな香りにひかれて、屋島名物のイイダコを買って帰った。

夕食のとき、イイダコをそっと出した。そのときの会話。
夫「これは旨い。どこの店で買うたんや?」
私「……あ、近くのマーケットよ」
夫「あしたも買うといてくれるか?」
私「……えっ。それはぁ……。くっくっくっくっ」
夫「?どうした? 何がおかしいんや?」
私「そのイイダコ、屋島で買ったんよ。私、屋島まで、行ってこれたんよ。すごいやろ?」
夫「??? どこの屋島や」
私「そりゃあ香川県の屋島よ」
夫「………ドアホー。 アホタレガー。死んでしまうぞー」
と、大きな声で怒鳴りながら、怖い怖い顔で、私を睨みつけていた。

私(まあ、死ぬ死ぬとよういうなあ。そんなに簡単に死にゃぁせんですよ)
叱られながら、背中を大きく波打たせて、笑いを堪えるのに、必死でありました。おわり。








2012年3月23日金曜日

車の運転

高齢者の運転事故は、かなりあるようだ。そのためか、数年前から、免許の更新時に、義務付けられていた高齢者講習に認知テストも加わった。
私も受けたが、集まっている方たちの中には、運転はもう止められたのがいいのでは……と思う方もいらっしゃる。

「そろそろ運転を止めたほうがいい」という判断は、ご自分で潔く止められる方もあるが、自分では分かりにくいのか、家族に説得されて止める方が多いようだ。事故を起こしたとか、ちょっと判断力がにぶってきた、というとき、やはり家族としては、無理にでも止めさせることになるだろう。

私は生まれつきの不器用で、字も絵もスポーツもダメなのだが、唯一器用?なものが運転と思っているので、まだしばらく車は手放さないつもりでいる。

運転免許をいただいたのは48歳。若くはなかった。大学生の息子が春休み、自動車学校へ通い始めたとき、「お母さんのような、おばはんも、ようけ受けに来ている」と聞かされたとたんに、私も免許を取ろうと決心した。

それまでは、夫が「おまえのような運動神経の鈍い者は、すぐ事故を起こすから、絶対に車の運転はするな。用のあるときは乗せてやるから」と言われていたので、不便と思いつつ、諦めていたのだ。

しかし、たとえ夫であっても、自分の用事に夫を連れ出すことには気がひけるし、買い物一つにしても、「まだか、まだか」とせかされるし、「ちょっと待っとれ」と待たされるし、頼んで助手席に乗せてもらうというのは、有難いようでこの上なく不便なものである。その上、仕事と遊びに忙しい夫は、休みだって滅多に家にいないお方だ。

思いついたが吉日と、すぐに手続きに行き、予約金か入学金かを支払った。
夜になって夫に報告、という手順である。

思った通り、怒声がとんできた。
「バカヤロウ。死んでもええんかっ。絶対に無理や。今からでも取り消しにいかんか」と腰をあげる。ここで負けたらおしまいと、私もふんばる。
「私が死んでも貴方ならすぐええ嫁さんが来てくれるやろ? (ふっふっふ。本心の反対を言うたった。私よりええ女が来てくれるはずないがな。)免許取るだけでもええんよ。乗ってみて無理なら止めるから。お願い、取るだけ取らせて」
とうとう夫も「死んでもええなら、勝手にせえ!」と折れた。にんまりの私。

当時の自動車学校は、とても不便だった。まず授業を受ける日は、朝は4時起きして、予約を取りに行かねばならない。そのためには、自転車ではとても無理で、バイクの免許取りからはじまった。それはすぐに取得できた。

スクーターを買って、それに乗って、予約を取りに行く。すでに行列だ。並んで待つ。時間がきて予約を取り付ける。電話予約では、とても自分の都合のよい時間帯はとれない。勤めが終わってからの時間帯なので、時間は決められている。

予約が取れたら、すぐ家に帰り朝食の用意をし、再びスクーターで駅に向かい、汽車に乗り市内の勤務先へと向かう。

勤めを終えると汽車で帰り、駅から直接スクーターで自動車学校に行く。
終わるとすぐ家に帰り、夕食の用意をする、と言う生活である。
だから、毎日行けるわけではない。自分の都合と時間割と照らし合わせながら時間数を埋めて行くので、かなり大変である。

それでも何とか頑張らにゃあ。自分からやると言いだしたんやから、途中から投げ出したりしては格好にならない。
私の知人二人は、途中から投げてしまった。そんなことは私にはできない。
それ見たことかと、夫は大喜びで私をバカにするだろう。

考えたのが、誰彼に『私、車の免許取るからね」と、言いふらすことだった。
こうして宣伝してしまうと、もう止められないだろう。
以前、ある知人は、誰ひとりにも言わず、こっそりと免許を取って、周りを驚かせた。
彼女曰く。「もし、途中で投げ出すことになったら恥ずかしいから誰にも言わなかった」と。

私は、その反対をいくことにしたのだ。反応は色々だったが、多くの方は、励ましてくださった。(続きは明日に)


2012年3月22日木曜日

品位とは


一昨日、「野党はお下品」云々と書いたので、ちょっと品位について書いておこう。
品位とは何だろう。品格とは何だろう・・・。

口では何と言おうとも、自分では、「下品じゃないやろなあ……」と思っているのだが、「いや、古女は下品」、と感じていらっしゃる方もいるはず。
しかし、ここにきて、「下品な人」というレッテルを貼られるのは、ちょっとつらいものがある。品などというものは、おいそれと手直し出来るものではないからだ。

曽野綾子さんは、こんなことを書いていた。(思い出すままに並べてみる)
品位のあるということは、
・服装でその人の品位を鑑定することは、まったく意味がないわけでもないが、流行のようなもので自己主張しなくても、自分に自信を持っていれば、地味な服装をしていても、品位はにじみ出てくるもの。
・人より出しゃばらない。
・功績を人に譲ることができる。そして、それを黙っていることが出来る。
・善行は秘かにする。
・自分の持っているものを見せびらかさない。自慢しない。
・間違った非難をされても。大声で反論したりしない。
・「人がしてもしない」、「人がしなくてもする」、という勇気をもつ。
・風評、評判、金、名誉、に動かされない。
・他人の悪口は言わない。
・他人の幸せ・成功を妬まない。
まだまだあったのだが、こういったようなことが、気品、品位の本質だと。

クリスチャンの曽野さんらしい。
こういった、精神の姿勢には、まったく自信のない私は、これはかなり自信のある方でなければ、なかなかできるものではないと思う。

ま、凡人としては、上品でなくてもいい。だが、下品な人間にはなりたくない、というのが本音である。そのためには、出来ることはしていこう。

特に年を寄せてくると、同じことを何度も自慢したくなる。聞いてもらったことを忘れてしまうから仕方がないのだが、自慢を聞かされる方は、耳栓をしたくなるだろう。
自慢したくなったら口にチャックを引くことにしよう。家族か電信柱にでも聞いてもらうのもいいかもしれない。

第三者の悪口も、言わないと決めたら、言わないでおれるものだ。
言いたいときは、家族か南瓜にでも聞いてもらうがいい。

こういうことを、自分に言い聞かせているうちはまだ心配ない。
そのうちに、我がふりが見えなくなり、ブレーキが緩みだす恐れあり。ああコワ。

2012年3月21日水曜日

冤罪

昨日、徳島ホールに、『ジョージとタカオ』という、映画を見に行った。冤罪で、昨年524日、無罪判決を勝ち取った『布川事件』の映画である。

この事件は、1967830日朝、茨城県の利根町布川で起こった殺人事件で、犯人と確定され、29年間獄中生活を送ったショージこと桜井昌司さんと、タカオこと杉山卓男さんが、仮出所を許されてからの14年間をどのように過ごし、どのように無罪を勝ちとってきたかを、記録した映画である。

撮影したのは、専門の映画のカメラマンではなく、偶然2人を知ったディレクターさんが、自分のカメラで記録したものなので、手持ちカメラが揺れて、ちょっと見にくい場面もあるのだが、ドキュメンタリー映画として、とてもいい映画だった。

冤罪という恐ろしい出来事を私たちは、ただ気の毒‥…と、単に同情の目で眺めるには、あまりにも問題は大きすぎる。20歳そこそこのやっと大人になった者ふたり、今は60歳代のオッチャンなのだ。
目新しい冤罪としては昨年の、官僚・村木厚子さんの事件もあった。

免罪のほとんどは、取り調べの際に、「やりました」という自白をさせられたことにある。頭から、「犯人はこいつだ」ということで調べを受けるのか、故意にウソまで言って落とし込むのか、いずれにしても、よほどの精神力がなければ落とされるのだろう。
ショージとタカオの場合も、20歳そこそこのチンピラだったふたりは、「このままだと死刑だ。自白すれば助かる」とか、「相手は、お前とやったと白状した」とウソを言っている。当時は、あまり仲の良くなかったふたりは、それを聞いてあいつがやったのか……」と、一時信じたという。しかも、脅され脅迫され、精神状態は、「ああ、もう何でもいい。裁判で正しい裁判が何とかしてくれるはずだ」というような状態に追い込まれてしまい、ウソの自白をさせられている。アリバイがあっても、だれもが見ていないことも、信じてもらえない一因だったらしい。しかも、証拠の指紋もなく、証拠不十分であったのに、不都合な証拠は表には出されなかった。

二人は、「長い獄中生活から解放され、「日々、飯食って風呂入って……なんて幸せなんだろう」とおっしゅる。そして、「あなたの家族が、違法な捜査、取り調べを受け、犯人にされて、人生を奪われたらどうしますか?」と訴える。

しかし、問題は大きい。全ての国民を裁ける機関が、正しい裁判ができないようでは、どうなるのか。しかも、でっちあげでその人物を陥れるようなことが出来るなんて、こんな恐ろしいことはない。

今、注目の渦中にある、元代表小沢氏の裁判にしても、氏のおっしゃるように、検察の暴挙であるならば、大きな問題である。市民は、安心しておれぬ。また、反対に、事実を隠して無罪を叫ぶのであれば、これも国民をばかにした行為であろう。いずれにしても、判決は正々堂々とやってほしいものである。

そして桜井さん、杉山さんのお二人には、これからの幸せな人生を長く長くおくっていただきたいものである。

2012年3月20日火曜日

「花の会」という会

「花の会の会員」と言うと、「あら、お花の好きな人達の会なの?」なんて言われることがありますが、この会は、まつたく違って、政治的なボランティアグループなのです。

政治が変わらなければ、この日本は危ない、という思いの女性が中心になって、徳島県の衆議院議員立候補者だった、仙谷由人さんの、鋭利な頭脳と、温かい人間味、そして政治的考えや、その手腕、行動力に惹かれて、「この人なら決して間違いない。こういう政治家が、日本には必要なんだ」と決起し、仲間を増やしつつ、発足以来、まったくのボランティア精神で、仙谷さんの背中を押し続けてきた女性中心の会であります。
と申しましても、私などは、ほとんどお役には立てない天然ぼけの会員ですが、パソコンをいじくっているものですから、花の会の広報係りといった役どころでしょうか。

そもそも花の会というのは、組織としては、何人かの人が、核になって、花の名をつけた小グループを作り、各々賛同者を増やしたり、株分けして花の数を増やしたりしながら、会を育ててきました。現在会員は500人を超しています。

特に、花の核になっている人たちは、「私たちは政治に参画して国の政治を変えていくのだ」という、ちょっと生意気ゲな自覚を持ちながら、応援しているわけですから、いざとなれば力が入ります。おばさん連中いうのは、けっこうメンドイ(難しい)人種でありますが、花の会メンバーは、どっこいそうではありません。目標が同じ方向のおかげか、代表以下、和気藹々の中でやってきたわけです。それでなくては、20年以上も続いてはおりませんです。

通信費用やカンパ稼ぎのバザーも、毎年やってきましたが、ここに来て、中心メンバーの老化が問題になってきました。体力的に無理が出来なくなりつつあります。はじまりは5060のおばさんも、7080のお婆さんになっていますから無理もありません。なかには、病気で亡くなった方もおられます。

こうして書いておりますと、お国のため、仙谷さんのための会のように聞こえますが、それだけではありません。大体、ボランティア的なことというのは、自分のためにやっていると言っても過言ではありません。

その第一は、素晴らしい仲間との出会いであり、また、やることのある生きがいという、ありがたいものを頂いております。
何であれ、「やることのある人生」というのは、長生きの秘訣でもあるのです。
かの有名な、『市川房江女史』も、そうおっしゃってました。

長年の夢であった政権交代をはたした時は、その喜びと、一方、こんなめちゃくちゃになった沈没寸前のような船の舵取りが、うまく出来るのか、という不安で、複雑な思いでした。

それでも民主党は、文句も言わずによく頑張っておられると思います。政治の世界なんて、梶棒握れば罵倒されるのが仕事です。週刊誌などは、ないことなかったことを、まことしやかに書きます。あきれます。新聞だって、中立的に書いているとは思えないこと多々あります。

野党は野党で、ただただ後釜狙いの厚かましい顔で、民主党の悪口ばかり。己のしてきた事の反省など、カケラも言いません。私も品がありませんが、野党はほんと品がない。

昨今、私たちにとって切実な問題は幾つもありますが、高齢化、少子化にしても、環境汚染にしても、その殆どは、想像以上に深刻な問題で、何となく鳥肌がたつような思いをすることがよくあります。手遅れの患者を回された医者と同じ民主党です。

そうはいっても、これからの日本が、うつ向いてばかりの日本では困ります。ぜひ、仙谷さんのような方が英知を絞って、日本安心丸ということになっていただきたいと思っています。

2012年3月19日月曜日

悔しや饅頭

お菓子屋の店先で、紅白饅頭を注文している方がいた。何かのお祝いごとらしい。見本という箱をちらとのぞくと、小さめの紅白饅頭が5つほど入っている。
昔は、かなり大きな紅白饅頭だった。3つ分くらいはあった。

教師になって間もない頃だった。あるお百姓のお家へ家庭訪問に行ったときのこと。
母親は、野良着で小走りに畑から帰ってきて挨拶するやいなや、すぐに奥の方に消えて行った。

時間を気にしながら、入り口の広い土間に腰を下ろして待っていると、お皿に大きな紅白の饅頭を三つ載せたものが出された。
母親は、またすぐにお茶の用意をするため、座を去った。ポットだのガスだの無かった時代なので、かなり待たされる。
お茶やお菓子は、前もって子どもを通じて断ってあるのだが、どこの家でも、聞いてはもらえない風習があった。

時間にして、10分ほど待たされた。私は饅頭には背を向けて、庭の方を眺めていたのだが、母親がやっと「お待たせしてしもうて……」と言いつつ、お茶を持ってきたので、いざ話をしようと振り向いて驚いた。お皿の饅頭二つが消えている。その間、幼い弟たち二人が、ちょろちょろと部屋の中を走っていたのは知っていたのだが、ちょっとのスキに、弟めに二つ掻っさらわれたのだ。
お皿には、紅い饅頭一つしかなかった。私が、大きなヤツを二つも食べてしまったことになっているではないかッ。悔しいったらありゃしない。

とっさのことだったし、それに母親に告げれば、子どもが折檻されると思ったので、何の弁解も出来ぬまま、その家を去った。

家に帰って、母にその悔しい話をすると、母も知人宅で、同じようなことをやられたと言う。母はその子をぐっと睨んで止めさせようとしたらしいが、効果はなかったと笑っている。

その時は、子どものシツケのためにも、言うべきだったと、悔しまぎれに思ったりもしたのだが、今となっては、やはり言わなくてよかったと思う。
おやつなど、満足に与えられていなかった子ども達が、それぐらいの悪さをしたって、どうということはない。
もう悔しさもどこかにすっ飛んで、ただ可笑しい思い出だけが残っている。
大きな饅頭を目にするたびに、おなかの中の笑い虫が、くっくっくっと笑い出す。


2012年3月18日日曜日

日記帳

60歳になった時、ちょうど区切りがいいので、10年日記を付けることにした。10年日記というのは、書くスペースが少ないので、メモ帳に毛が生えたようなものなのだが、それだけに続けることは易しい。
始めるときは、いいところ1冊で終わりまで続いたなら、まあまあいい、と思ったのだが、1冊目は、またたく間に終わった。ひどく早い10年だったと、ゾッとした。

2冊が終わったときは、ゾゾゾッとしたものだ。老人の年月の早さは、残された人生を分母にするものだから、そういうことになるのだ。

3冊目に入る時、これからの80代という人生が、70代のそれとは、かなりの違いがあることを考えて、パソコンの中で、日記帳を見つけて書きこんでいる。
過去2冊の日記も、メモのような日記は、残す意味もなく、焼き捨ててしまった。

たとえば、こんなことがある。十年前の今日は、どんなことをしていたのだろう、と思って見てみると、ひどく元気がよくて、「プールが空いていたので、ゆっくりと1500M泳いで帰ってきた」なんて書いてある。わあ、随分の違いがある、もう、水泳も止めて久しい。今なら、100メートル泳いでも、息切れがするだろうなあ・・・この老化の著しさ!なんて、思うだけでしんどい。()

ま、それだけではないのだが、そろそろ、いつ倒れてもいいように、身辺の持ちモノには、気を使う。残された家族が、「捨てていいものやら悪いものやら」などと困るようなものは、捨てておくにかぎる。

それとは反対に、前向きに生きて行こうという気持ちは、10年前とかわっていない。いや、以前よりも、強くなっているやもしれない。というのは、「やる気」というのは、しっかりと鎖でつないでおかねば、年々消え去っていくもので、実際には、しなくても気だけでも、もっていないといけない、と健気にも思っているのだ。(ほんと気だけだが)

何事も、休んで一服していると、その場で止まることができず、ずるずると落ちて行くのが老人である。『やる木』を枯れさせないよう、やっていきたいものである。




2012年3月17日土曜日

妻の呼び名

ご主人と呼ばれていらっしゃる方にお聞きします。
奥様をなんと呼ばれていますか?
「花子さんに手伝ってもらったから……」「今日は宮さんがいないので……」といったように、お連れ合いを、さん付けでおっしゃる優しい方が時々いらっしゃいます。花子さんも宮さんも、夫を「タケオさん」とか呼んでいるのだろうなあ。

私の夫など、亭主関白を絵に描いたような男だったので、「おい」か、「こら」としか呼ばれたことがなかっただけに、羨ましいかぎりです。
「おい」と呼ばれていても、夫を呼ぶときは、「アナタ」とか、「お父さん」と、か呼んでいました。こういう家庭は、多かったように思います。

こんなことがありました。
ある低学年の授業の一場面。「お母さんの名前を知っていますか」「はい。オイです」「オイ?」もう一度たずねると、首をかしげながら、「オイ子かなあ……」と。「ああ、お父さんが、お母さんのこと、オイって呼んでるのね」「……はい」
お父さん方、子どもの前でお連れ合いを、「オイ」なんて呼ぶのは止めたほうがよろしいようですね。ま、今時のお父さんは、「オイ」なんて呼ばないでしょうが・・・。

2012年3月16日金曜日

落とし物

先日、ある店舗で衣類をみていたときのこと。
幼い子が、何かを拾ったらしい。母親が、
「拾われん。落ちとるもん、何でも拾うたらあかんのでよっ」
と、声を荒げていた。
すかさず子供が尋ねる。「お金が落ちてても?」

ふふふっ。どんなお答えがでてくるのかと、耳をすましていたが、生憎聞き取れなかった。多分小声で何か言ったのだろう。

昔、幼かった孫に、「もし道で百円拾ったとしたら、警察にもっていく?」と尋ねられたことがあった。

私は元教師、ということもあってか、ある一面では、正直者であるが、百円で警察には行かない。その金額によっては、頂戴してしまうこともあるだろう。
落としたことは何度かあるが、拾ったことはめったにないので、想像するだけなのだが、おそらく、千円札1枚拾っても、交番に届けに行くことは、まずしないだろう。
めんどうで行く気にはならないし、どうせ、何カ月か後には私のものになるにちがいないので、おまわりさんに手間ひまかけるだけのこと、という思いなのだ。
拾った場所が、マーケットなら、店員さんに訳を言って手渡すか、近くにある募金箱に入れてしまうだろう。道端なら、あたりを見回して、落とした人らしき方がいれば尋ねるし、いなければ、ポッケに入れる。

しかし、これが財布にはいった千円、となると、やはり届けなければ、と思う。マーケットや交番に財布を落としたと、届ける確率が高くなるからだ。
中身はどうでも、財布には、思い出がある、ということだってあるにちがいない。

もどって、私が孫に答えたのは、上記のようなことを説明したように思う。

そそっかしいのか、私はよく落し物をする。ポケットに入れてあった駐車券を落としてしまったとか、お土産に頂いたばかりのブローチをその場で襟につけたのに、家に帰ってみたら無かったとか、こんな類の落し物は、数えきれない。
駐在所に走り込んだことも2度ほどある。幸いにも、正直な方の手で戻ってきた。

未だに胸の痛む落し物があめる。女学生の頃、お向かいのお嫁さんが、小さな包みを持って私に届け物を頼みにきた。これを、同じクラスにいる、お里の姪であるK子さんに渡して欲しいとのこと。私は快く引き受けた。中身は何かその時は知らなかったが、それを自転車の荷台に括り付けて6キロ先の駅に行ったのはいいが、その包みをどこかで落としてしまったのだ。駅についてみると無い。

学校へ行くどころではない。青くなって引き返してみたが、あるはずない。母と一緒に慌てて謝罪に行くと、これまたお嫁さんも慌てて「いやいや、何でも無い」と、困っているふうだった。

中身は当時には珍しい羊の肉だったらしい。食糧難の時代なれば、犬だって包みを見つけたらだまってはおらぬはず、どこかに咥えて逃げ、独り占めして食べたやもしれない。お嫁さんの慌てた様子から、多分、家族に内緒で里の親たちにお裾分けしたかったのだろう。ほんとに悪いことをしてしまった。
ちょうどそのとき、我が家には、北海道から送ってくれた塩鮭の片身があったので、それを代わりに持参したのだが、私としては何年たっても忘れられない失敗である。





2012年3月15日木曜日

蕗の薹

今朝もまだまだ寒い春だが、まばゆい春陽に目を細め、雑草園のような庭を気にしながら見ていると、花の蕾を重たそうに持ち上げた蕗の薹が目に付く。

冬がでんと居座っていた初春のころ、萌黄色の襟元をゆるめ、タガをはずした装いで、もっこり枯葉を持ち上げていた、あの愛敬のある姿からは、えらく成長したものだ。

こうなってしまうと、もう蕗の薹などという可愛げな名は似合わない。蕗のお母さんかな。このお母さんも、しばらくすると、すっかりお婆さんに変身する。これを俗に〝蕗のしゅうとめ〟と呼ぶらしい。だれの付けた呼び名かしらないが、いかにも妙を得ておもしろい。

お世辞にも美しいとは言えぬその蕗の姑をみて、いつも思い出すのが、
〝呆けてはならぬと思う蕗の薹〟後藤比奈夫
という俳句。歳時記に載っていた句である。みょうに心にしみ込む。

躰のあちこちから注意信号が発信されはじめたのを機に教職から足を引いたのが、五十五歳。職員室で机の整理をしているとき、銀行さんがいらしていて、「先生、辞めてもボケんといてくださいよ」というご挨拶をいただいた。私は笑って聞いたのだが、彼の去ったあと、「失礼な!なんということを」と、まわりの同僚が騒いでくれたのを思い出す。考えてみれば、そのとき、まだ私には、彼のことばを冗談と受け取る余裕があったというわけである。

それでも当時は、「やりたいことが出来るのもいいとこ十年だな……」と踏んでいた。その計算だと、もうとっくの昔に終っているはずだが、やりたいことがまだあるせいか、今も、「大病と事故さえなければもう少しは……」という気持ちのまま、今日の日を迎えている。

しかし、「もう少しは……」とはいうものの、これからの年月は、過去のそれとは、かなり質の違いが出てきそうだ。

「老人」ということばは、やっかいなものを抱えているわりには曖昧である。新年の暦を掛け替えるように、「明日から老人」という区切りのないことをいいことにして、無断でこそこそと、しかも気味の悪い生きもののように迫ってくる。

膝が痛いの疲れるの、などの肉体のガタは致し方ないとしても、精神のタガは弛めていないつもりでいた私だが、それがどうもあやしくなってきた。
その証拠に、生活の横糸に、モノ忘れという模様がしっかり織り込まれてしまっている。おかげでモノ捜しの時間が、やたら増えてきた。人生の黄昏も過ぎると、この「時間のムダ」には、いまいましいやらうんざりするやらで、心の内は穏やかではない。〝ムダなくトシをとる〟ことの何と難しいことか……。
 

2012年3月14日水曜日

ツケ

ある知人が嘆いている。昨年孫が大学出たけれど、思うように就職できないので、心配しているのだ。よく聞く話である。大学に入学した頃は、まさか、それなりの大学出た者が、定職につけなくて、アルバイトのようなことをするなどと、親も子も思っていなかったに違いない。時代が変わってしまったのだ。

「国民も改革の痛みに耐えて、共に新しい日本を作ろう!」
このことばは、あの小泉・竹中路線の構造改革のときに、イヤと言うほど聞かされたことばである。

小泉・竹中組が、大きく旗を振り、マスコミを抱え込んでの大改革をしたその皺寄せは、単細胞の私にもよく見えている。雇用環境の悪化と、生活水準の低下である。特にこれからの世を背負う若者世代が、身分保障もない派遣と言う不安定な雇用の中で、夢も希望もなく、結婚も出来ず、悲鳴を上げているように思われてならない。 傷みはあまりにも大きすぎた。     

以前なら会社人のほとんどが、連れ合いに不満を言われながらも、会社第一に仕事に打ち込んで奉仕し、会社はその見返りとして、よほどのことがない限り、身分を保証し、生活を守ってくれたものだ。一生を託せる場所であったように思う。

同じように働いても、働き甲斐のない使い捨てでは、会社への思いはどうなるのだろう。多分、忠誠心どころか、職場に対して、憎しみすら湧いているかもしれない。

自由経済と云う名のもとに、人としての当たり前の気持ちを踏みにじる社会。こんな状態が、いつまでも続くとすれば、実に恐ろしいことだ。

こうした世の中を見ていると、政治家の責任というものを強く感じる。しかし、そうした政治家を選んだのは、国民である。でも、「景気がよくなる」と言われれば、「雇用環境が良くなる、生活が楽になる」と踏んだ若者たちがたくさんいて当然だろう。まさか、自分たちの首が絞められる、などと考えもしなかっただろう。

アメリカのすることのマネをし続けてきた日本だから、アメリカの実状を学ぶべきだったのだが、そこまで考えさせてくれるマスコミ報道など、まつたく無かった。マスコミなんて、いいかげんなものである。

ま、政府もこんなにも早々と、その大きなツケが大衆に回ってくるなど、思っても見なかったのかもしれない。そんなツケを丸ごと押し付けられて政権交代した民主党もお気の毒なことだと思う。
しかし、舵取りを始めた以上は、火の粉も被って進むしかない。頑張ってください。

ふと思った。それでも日本という国は、餓死者も出ず、暴動も起こらない国で、世界の人達が感心している。その理由の一つとして、やはり、個人資産がかなりあるという日本の実状かもしれない。これも、髪ふりみだして働いてきた熟年、老年のおかげじゃなかろうかと思うのだが、間違っているかな?


2012年3月13日火曜日

ニキビ

ニキビの出ている孫娘の顔を見ながら、(似なくてもいいところが似ているなあ)と思った。母親も父親も、ニキビの出るような肌ではない。私に似たに違いない。

若いころ、ニキビにはかなり悩まされた。ニキビが腫れてとても痛かった。このごろの子のように、ニキビとり化粧水など買ってはもらえなかった。

女学校二年生の春、顔にニキビをくっつけて隣の家にお使いにいったところ、おっちゃんが、「あれっ、おでこが赤いなあ。痛そうだな。ゴマメちゃんもイロケが出てきたか」と笑った。

当時の私は、まだ、『色気』などということばの意味を知らなかったので、(ああ、こんなモノを『イロケ』というのか・・・)と、新しい単語を覚えたようないい気分だった。

帰ってきてから、手紙を書いた。相手は、一年生のとき担任していただいたT先生である。赤紙(召集令状)で入隊されていたので、慰問文を書くようにと、新しい担任の先生に言われていたのだ。

私はこんな手紙を書いた。
「先生、お元気でお国のために働いていらっしゃることと思います。私も元気に学校へ通っていますが、このごろイロケが出てきて困っています。云々・・・」

しばらくして、先生から返事のハガキをいただいた。
「お手紙ありがとう。・・・女学生は、女学生らしく、勉学に励まないといけない。いらぬことを考えていては、勉強のさまたげになります」といったような内容だった。
当時、何となく叱られているようなそのお返事に、違和感を覚えた気がする。

あとになって、「ひぇーーーっ。恥ずかしい! 何ということを書いたのか・・・」と、アタマをかかえてしまった。何とも幼稚な女学生だった。今思い出しても、汗が出てくる。

2012年3月12日月曜日

シニア演劇塾

平成21年の秋、地元新聞に、「『シニア演劇塾』が誕生。塾生を募集している」という記事が載った。

【浅香寿穂】というお方が、私財で稽古場を建てられ、シニアの劇団を作るということだった。浅香先生は、高等学校の校長を最後に退職されたのだが、若い時から、高校生の演劇の指導をなさったり、演劇評論を書かれておられたので、お名前はよく存じ上げていた。

70歳近くなられている先生が、青年のような夢を抱かれて、しかも、けっこうお忙しいにもかかわらず、シニアを相手に演劇塾を開かれるというロマンにまず感動した。わずかな月謝では、儲けどころではない。塾生になりたい、と思った。実は私め、舞台に立つつもりは毛頭なかったのだが、脚本に興味があった。

だが、シニアといっても、年齢制限があるやもしれない。当年79歳の誕生日が目の前に来ている大年増を迎え入れてくださるかどうか、門前払いということもあるやもしれない。体力、気力もそう長くは続くとは思えない。それでも手は、受話器を握ってしまった。

サバを読んでまで入れて頂くつもりはないので、正直に申し上げた。
「何歳でもけっこうですよ。長く生きてこられた方には、若い人には無いものが必ずあります。舞台に立っただけで、存在感がありますからね」
まあ何と嬉しいおことばか。「いえ、舞台には立つ勇気はありませんが、脚本の勉強が少ししたいと思いまして・・・」と申し上げながら、塾生の許可を頂いた。

第一回目。恐る恐る顔を出す。入塾試験があるわけではなく、申し込んだ方々は全員一期生。十数名の方々が集まっている。思った通り、私が最年長者だ。シニアでない方もまじっている。お仕事をなさりながら、週一度のお稽古に通われるのだから、演劇が、かなり好きな方らしい。感心なことだ。
『カサ・デ・マデーラ』(木の家)という稽古場は、木の香も新しい素朴で素敵な建物。中に入ると、山小屋を思い浮かべるような作りである。

発声練習や、台詞の言い回しなど、今までしたことのないことを学習するのは、けっこう楽しい。試験がないのもいい。いや、ひとりひとり言わされるのは、試験のようなものかもしれないが、失敗しても何をしても、皆で笑いあってやっているので、実に和やかな雰囲気である。
先生の主義というか、『楽しみながら学習していく』という雰囲気は、私のような劣等生でも、気分よく参加できる。

何カ月かたつうちに、こういう場に集まってくる人たちは、けっこう個性的であり、演劇に情熱をもっていて、熱心であることが分かってきた。志を同じくする人達の集まりは、暗黙のうちに打ち解けている。
そして先生のお人柄に魅かれて集まっている方も多いということ。浅香先生のフアンなのだ。

まだまだ先の話と思っていた初公演が、一年後に実現された。むろん、シニア問題をテーマにした演劇である。先生のご指導をあおぎながら、台本作りにも参加させていただき、とても勉強になった。それを観てくださったある町の団体から、お座敷がかかるということまであって、大いに張り切った。

また、その一年後の23年(昨年)の秋にも、シニア塾らしいテーマで第2回目の公演を終えた。
反省することは、多々ある。台詞のちょっとしたことが言いにくかったり、覚えにくかったりするのだ。
文学座や俳優座のような玄人芝居でないだけに、塾生の皆さんが、喜んで参加して頂ける作品ということにならねばならない。
しかし、小学生の学芸会とは違う。料金をいただいての公演であるだけに難しい。

あれやこれやと学んだことの多かった公演だが、浅香先生の演出のお力はすばらしい。ちょっとした動きの変化でモノになっていく。不出来な台本もカタになったというのが本当のところである。

ちなみに、第2回目の昨年は、私めも、ちょっと舞台に上がってしまった。上がらせられた、というべきか。切符を買ってくれた友人たちが、「あんたが出てこないのは寂しい」とかなんとか言うものだから……。

上ってみて分かったことは、家では100%覚えているはずの台詞も、皆で練習をはじめると口から出てこない。自分で書いた台詞が出てこないと言う事は、他人の書いた台詞が出てこないのは当たり前か…。本番前日まで台本が手放せない練習風景にやきもき。
それがどうだ。皆さん、当日になれば、何と堂々とやってのけるのだから、大したものだ。シニアだって、やれば何事も出来る、ということを宣伝しておこう。

それにしても、『演劇の公演』には、随分とお金がかかることを知った。大きな劇団には、舞台係も小道具、照明も、おられるが、小劇団はすべてお金のかかることである。小さな劇団同士が助けあってやっているのだが、それにしてもだ。皆が頑張って切符を売り、それで何とかやっていく。

そうした苦労も、決して無駄ではない。自分ひとりではなく、周りの方々の温かい支援があってこそなりたっているとが分かるのだ。皆さんに感謝である。

(こんな楽しみが、この歳がきて出来るなんて、思ってもみなかったことなので、書かしてもらいました)

2012年3月11日日曜日

鎮魂

3・11大震災、1年目を迎えました。
今、一年前を思い起こしております。連日テレビ情報に釘付けになっていましたが、あの時の驚きと悲しさは、今も鮮明に脳裏に刻みこまれています。

震災後しばらくは、震災報道一色に塗り代わり、被災地の避難民の懸命な姿を映し出しておりました。
不自由、不便、不平不満の一切の泣き言を、自分達は命だけは助かったのだという感謝の気持ちに封じ込めておられました。
悲しみの涙を覆い隠し、口からもれる言葉は「ありがとう」と云う感謝の言葉ばかり。見ている私たちは、感動の涙なくしては見られなかったのを覚えています。

人間の力では、どうしようもない自然災害の前で、生かされた者と、死を余儀なくされた者とは、紙一重の運命で分かれました。大自然の前に、ただただ謙虚になるしかなかったのかも知れません。

生き残った者同士が、力と智恵を出し合って助け合う被災者の姿が、画面の前の我々の心の中に、得も言われぬものを運びこんでくださいました。
何もかもが便利な世の中。有難味すら忘れていた私たちの思いあがりを、反省させてくれました。当たり前でしかなかった電気まみれの生活の有難さを教えられました。
有り余る飽食時代の反省、そして世界に誇れる日本であることの再認識もいたしました。こんな恵まれた国は、世界になかったことを知らされました。
ただただ当たり前としか思っていなかった暮らしぶりを、大いに反省させられたのです。

原発事故の恐怖も、恵まれ過ぎた文明生活へのお灸と捉えれば、悲劇だけに終わらせないで、前に進むことができるのではないでしょうか。

これからの日本が、この大震災の痛みをいかに礎として再出発していくか、日本が大きく変化して、世界の手本となれる国作りを始めるかを見守っていきたいと思っております。
日本人の資質のすばらしさで、みごとな復活と再生を成し遂げることを信じて疑いません。

春未だ浅く冴えわたる被災地に、一日も早く春風が吹き渡りますように。
そして犠牲になられた方々の、み心安らかならんことをお祈りいたしております。
                          合掌


2012年3月10日土曜日

検便

昨日、中国の野菜のことを書いたのだが、それで思い出したことがある。
今は「検便」というと、大腸がんの検診ということになるのだが、昔は、「検便」とは、回虫の卵の有無の検査をするということだった。
日本だって、人糞を畑に撒いていたし、お腹の中に、回虫を養っていた人は、大勢いたので、検便は、学校行事の一つだった。

当時は、学校の養護教諭が、全校生徒の便を、顕微鏡で調べていた。その結果、お腹の中に回虫がいるということになると、虫下しを飲ませる。

子ども達は、小さなマッチ箱の中に、適量のウンチを入れてくることを、担任教師から何度も念を押される。必要以上に大量の便を詰め込んできて、鼻つまみになる子や、とんと忘れてしまう子が必ずいるからだ。

その日も、隣の一年生の教室から、「マッチ箱の中に、ウンチをソラマメくらい入れてきなさい。ソラマメよ」と言う先生の声が繰り返し聞こえてきた。
当時のマッチ箱は、深さもあって、ちょうどいい入れ物だった。

次の日、そのクラスのB子は、マッチ箱の中に、ソラマメをびっしり詰め込んできたものだから、養護の先生は、開けてびっくり。ひーひー笑いながら教室に駆け込んできたのはもちろんである。

ついでに言うと、私のクラスのC子は、検査結果が陽性なので、薬を飲むことになった。その日、自分の番がくると、突然泣きだした。ウンチはお父さんのものと言う。養護の先生は、「お父さんが陽性なら、あんたも陽性じゃ」ということで、彼女は薬を飲まされた。ま、犬のウンチを持ってきて、ヘンな菌がいると大騒ぎさせたという方よりはマシだろう。

朝、ウンチが出ないといって、泣き出しそうな娘をみて、「ほな、ちょっと待っとれ。お父さんのを持って行け」と言いながら、トイレで頑張ったお父さん。それを恐る恐る持参したC子。想像するだけで笑ってしまう。

余談になるが、【トイレでしゃがんでいると、中学生の弟がノックし、「少しでいいからウンコ分けてくれないか」と頼まれたことがある。】と、ある作家が随筆の中に書いていたのを思い出した。この手の話は、どこにもあるようだが、それにしても何ともおかしい。