2015年11月26日木曜日

№1000  とうとう1000回


  ブログを書きだしたのが、2012/02/23日ちょうど、3年と9か月3日になります。大体1350日位になります。始めのうちは、書くことが面白くて、ほとんど毎日書き込みしていましたが、そのうち、忙しい時や、疲れている日など休んだりして、怠けだしました。今でも、下手な文章を書くという楽しみはあるのですが、同じような内容を繰り返したりするようになりますと、ち
ょっと困りますから、慎重になっています。

続けたい気持ちと、もう潮時という思いが交錯しておりますか、ともかく、有難い【読んでやろうか】というお客様が数人でもおりますと、木に登る豚のように、書きたくなるから難儀です。

私の初めの第一回目のブログをちょっと覗いてみます。
1  2012/02/23 ちょっとばかり自己紹介 
2030年生まれの惚れっぽい古女(ごまめ)。今現在も、惚れているお方は、大勢います。そのほとんどは、自分の名誉、私欲とはあまりご縁のない方たちばかり。人間味があり、何か引かれるものを秘めています。一途な情熱だったり、ロマンだったり、人さまの為に何かをやっていたり、などなど、感心させられます。

むろん、名を成した方もいらっしゃいます。例えば本県(徳島県)出身の政治家『仙谷由人氏』などは、もう知らぬ人はいません。しかし私は、彼が無名の時からの大のフアンだったので、お偉くなったからといって、どうということもなく、お話しています。人間として、昔と変わっていないからです。

とにもかくにも、自分の周りに、心温かな人たちが、大勢いることの幸せを、大切にしてこれからも生きていきたいと思っています。略

 「古女」と書いて「ごまめ」と読むことをご存じない方は今も多いと思いますが、(私も俳句を紐どくまで知りませんでした)

鱓(ごまめ)という字を使った諺で、『鱓の歯ぎしり』という諺があります。ここでは鱓とは、『かたくち鰯を干したもの』で、かたくち鰯のような弱者が、どうしようもないことに憤慨し、残念がることを言うので、その字が『古女』となっても、その意味は変わりはありません。字も気に入っています。私にぴったり。どこに出かけても、最高齢の大年増もいいところ。お断りしておきますが、私のプロフィールにある似顔絵は、自分で描いたものではなく、心優しいSさんが描いてくださったので、皺とシミは描いてないので、けっこう若くなっています。ありがとうSさん。

これから私め、このブログに古女として、ひとりごと、歯ぎしり、そしてエッセイ等など、書き込みをしていこうと思っていますので、ご贔屓にしていただければ、有難いと思います。m(_ _)
(註 今は、頭は染めていませんので、白髪に近いババアです)

 ま、こんな具合に始めたものですが、尻すぼみです。()

でも、【倒れるまで、することがある人生】でありたいという欲張り婆なので、まだ色々とやっておりますので、ブログも、ぼちぼちと、細々とでも続けてみようかと思っています。今まで以上に、つまらぬ内容になったり、間も空くようになると思いますが、5日に1度くらいは書き込みたいと思っております。よろしければ、またご指導くださいませ。(_ _)
(12月1日より、№1001として、書いて行きます)

 

2015年11月24日火曜日

№999 腸内細菌 その8


  前々から、不思議に思うことがあった。食中毒は、清潔にしているはずのレストランや、給食など、で発生していて、家庭の台所からの、発生は、めったに聞かないのは不思議だと。

 0・1570・111のような菌は強い毒性をもっているため、雑多な菌の中では、あまり生きられないらしい。毒をつくるのに、70%位使い、生きる力は30%しか残っていないため他の菌に負けてしまうとか。だから、雑菌の少ない清潔なところでは、わがもの顔に活躍する。普通の家庭では、雑菌だらけなので、悪者は、生きられない。

雑菌が腸に入ってくることにより、腸内細菌は、活性化するので、普段から、清潔に気をつかいすぎているとかえって食当たりしたり、風邪にかかったりする。雑菌と触れ合う機会が適当に多くなると、バイ菌に強くなる、ということなので、やたら石鹸で手を洗い、うがいをすることは、風邪をひきやすくするのだとか。

お風呂に毎日入って体を温めることは、とてもいいことだが、石鹸でごしごしと毎日こすっているのは、あまりよくないようだ。

ちなみに私は、全身石鹸で洗うのは、3度に1度くらいだ。これは、無精でしていることだが、もう何年も風邪をひいたことがないよ。()

2015年11月21日土曜日

№998 原発再稼動


  原発の再稼動というのは、安全性を確かめて、これなら大丈夫、というお墨付きをもらっての再稼動ではないのか。それなのに、万一の時をと、避難訓練をしている。そんな訓練が必要な原発なら、再稼動はするべきではないと思う。

 あんな訓練が役立つようなことが起こったら、いったいどうなるのか、大変なことになるのだ。大震災のニノマエどころではないではないか。

電気代が上がっても、ちょっと不自由になってもいい。絶対安全と言う保障のない原発再稼動は、絶対反対だ。古女の歯ぎしりは、何の役にも立たないけど、歯ぎしりしている。

 

2015年11月19日木曜日

№997 喪中葉書


 11月も中旬ともなりますと、やはり朝晩が冷えてきました。昨年の今ごろに比べますと、私自身の体調は、かなり老化したと感じています。そういう一年の変化が、よく解りだしたのは、ここ二年位でしょうか。足腰というか、歩くことも、違ってきて、足が重くなっていますし、寒さのこたえ方がやはりちがいます。そうなりますと、下着の付け方もちがってきます。

 私だけではないことも分かります。10人寄れば、10人がやはり、トシを寄せているように思います。ですから、これからは、一年の重みというものは、ずしりと重たくなりそうです。

 さて、今日も、喪中葉書が3枚とどきました。もうすでに、10枚に達しています。内容も、連れ合いさんが亡くなった、御兄弟が亡くなった、という方が多くなりました。どなたが亡くなったのか分からない方もいますが、お尋ねするのも何となく気が引けてしまうものですから、ただ、想像するだけですが……。
 そういえば、むかし、友人がある方から喪中葉書を頂き、てっきり高齢の母上様が亡くなられたと思って、お供え物をもってお尋ねしたところ、母上様が出て来られて、びっくり仰天した、という話を聞いたのを思い出しました。(笑)

 やはりショックなのは、遠方で日頃ご無沙汰している方ご本人が、もう亡くなられたという、ご家族からの喪中葉書をいただいたときです。そういうお方には、慌ててお悔やみの手紙を出すのですが、在りし日のお顔が思いだされて、懐かしさと、寂しさに、ひと時沈みます。

 喪中葉書を頂く季節になりますと、年賀状のことも色々と考えざるを得ません。『年賀状は、もうやめます』という友人も出てきました。私も、相手さんが私より若い方が殆どになりますと、私の方から、年賀状は失礼します、ということを申し上げるのがいいようにも思うのです。ま、この【いつ、お年賀を打ちきるか】ということは、皆さん、かなり悩んでおられる様子です。義理で、或いは頂くから、と言う理由で下さる方もありますから。

 こちらから遠慮させていただいても、下さる方もあると思いますが、そういう方には、喜んでお返事を差し上げる、という方法もありますので、只今は、悩んでいる最中であります。(^^)

 

2015年11月17日火曜日

№996 漢字


996 漢字

女が三人集まると、『喧しい』『耳障りで煩い』のか、漢字は、姦しい(かしましい)と、女という字を3つ重ねている。昔、こういう漢字を作ったのは男性だろう。男という字を三つかさねたら、何と言う字になるのだろうか。

嬲る(なぶる)という字がある。こういう字をみると、姦しい以上に気分は悪い。現代でも、こうした漢字は改められてはいない。いったんそうと決まれば、永久に使われるのだろうか。

最近、子どもの名前が変わってきた。男女の区別がつかない名も多いし、当て字や、意味不明の漢字を使い、振り仮名を打たないと他人には読めない名も多くなった。【孫の名は、読めない書けない分からない】というシルバー川柳の通りだ。

名も殆どの人は、死ぬまで変えることはない。一生に数え切れぬほど、自分の名を書かねばならないのだが、私は性も名も画数が少なくて有難い。ちなみに私は、性が簡単だからと、嫁に来たわけではないが。()

 名にも、流行りがあるようだ。そろそろだれにも読めるような名前が流行ってほしいものである。

2015年11月9日月曜日

№994 迷い


  長年生きてきたオトナは、たくさんの情報や知識で、常識や理性を身につけてきました。そして、ちょっとやそっとのことで驚きも感動もしなくなってしまいました。秋が来て、山々が眩しく赤色に染まるのを観ても、美しいとは思っても不思議とは思わないし、赤トンボがすいすいと空を泳いでも、追い掛けようともしません。

 しかし、子どもたちは、そうではありません。蝶を本気で追い掛け、蝶を相手にとび跳ねるし、逃げるのが速いと驚きます。幼かった孫たちは、「ちょうちょってお外がすきなのねえ。どうしてお家の中で遊ばないのかしら?」 と首を傾げました。
 こういうことを、オトナが本気で言うには、かなり勇気のいることで、いや、そういう感覚は、もう持ち合わせてはおりません。

 何か書きたくて座っても、ただいらいらするだけのときがあります。そんなとき、私はふっと出かけたくなりますが、最近はほとんど出掛けることはありません。テレビをつけて、旅番組や、自然の風景などの番組を観ています。大自然や、白壁の蔵の軒下にぶら下がる吊し柿、静かな川面にうかぶさざ波、八の字の小波を描いて滑る小舟、そんな何の変哲もないものに目をあずけていますと、ありふれた言い方ですが、私の心に、ほっとする暖かいものが流れ込んできます。
  畑で採れたもぎたてのトマト、ちょっと曲がった新鮮な胡瓜などを頂くことがあります。そんな新鮮さと硬さが、また違った気を吹き込んでくれることもあります。贅沢な遊びでは得られない気分でしょうか。

  文芸というものに関わっているオトナは、子どもの感性を持ち合わせていることが大切といわれますが、凡人はこんな宝ものと、いつまでも縁があるはずもなく、持ちえません。しかし、何とか文章を作るときだけでも、その目や耳の曇りを拭き取りたいと焦っても、なかなか濁りまでをもとり去ることは難しいものです。

  感性も驚きの情感も常識の罠からはみ出せないままで、つまらぬものにおわってしまうことの多い日常の中にでも、せめて常識、陳腐、手垢まみれ、といったものから洗い清められたいものですが、トシのせいにはしたくはありませんが、やはりトシのせいでしょう。難しく考えることよりも、何事もさらりと流すことがなりわいとなってしまいました。軽く、流れの上澄みを掬うというような、高級な軽味ではありませんから、あまり褒めたものではありません。

  このブログを始めたときは、多少は、そうした気持ちも強かったのですが、1000回も近づいてきますと、【あのことは、もう書いた】【あの思い出は書いたかな】というような悩みも増えてきました。そうしたことを調べるのも、大変なんです。(これは、題の付け方が不味かったためもあります)

  初心を忘れたわけではないだけに、悩みます。そろそろ、お仕舞いにするべきではなかろうかと。これは、自分自身のことでありますから、自分で解決するつもりですが、じっくりと迷って考えたいと思っております。




2015年11月4日水曜日

№993 近況


  庭の松の木や椿、楓などがt枯れたり、栗の木の枝が道まではみだしていたりなので、何とかしなければと専門家にお願いしたのだが、年内は一杯ということで、仕方なく、シルバーさんにお願いしたところ、すぐに来てくださって、二人で二日がかりで、切ってくださった。私もゴソゴソと、庭のあちこちを片付けていたら、首の筋が痛くなって、首が回らなくなった。何とも気分がよろしくない。

 また、母屋のお風呂のやりかえの工事がはじまり、庭に作業の車が入り、はつったコンクリート等を載せた車等の隙間を歩いていて、下においてあった、もっこの綱の輪っかに足を取られてすってんころり。下も上も向かずに歩いていたためだが、両膝と、おでこをすりむいた。歩けるのでたいした怪我でないだろう。でも、首が治っていないので、気分は最悪だ。()

 いよいよ、とろくさくなってきたもんだ。どうも、自分の行動を過信しているようだ。もっと、気をつけてゆっくり慌てずに行動しなければ、酷い目にあいそうだ。(;;)