筍をたべているとき、昔【筍生活】ということばが流行ったことを思い出した。
身につけたものを1つ2つと売りながら、生活していくことであって、戦後に使われたことばである。
戦争中は飢えはお国の為だった。お腹いっぱい食べられる人達は、こそこそと恥じるように食べなければならない時代だった。
女学校1年生の時だった。お弁当を食べているとき、校長先生が回ってきた。
皆の食べている弁当を一人一人覗きこんでいく。
そのとき、私の真後ろの子が、白米ばかりのお弁当をたべていたところ「何という非国民かっ。こんな時代に、白米の弁当など食べていて恥ずかしくないのかっ!」と叱られたのだ。そんな時代だった。
戦後の飢えは違う。格別身にこたえた。田舎の農家の人達は、物々交換で、贅沢ができたし、むろん、ひもじい思いはしなかったはずだ。
戦時中、印刷工場をしていた父と母は、こつこつと夜おそくまで働いて、当時のお金で利息だけで一生生活が出来るほどの小金を貯めていたものだから、印刷用紙が不足しだしたことを理由に、工場をたたみ、家族を自分の故郷に転居させた。故郷で、こぎれいな家を建て、好きな趣味程度の商売でもしたいと思ったらしい。1万円もあれば、かなりの家が建ったのだ。
それが出来ぬままの終戦、そしてインフレ。預金は、新円切り替えで、値打ちのない紙屑のようなものになってしまったものだから、まさに筍生活である。農家の人たちは、物々交換を条件に、ヤミ米を分けてくれる。だが、そんな売れるようなモノがたくさんあるはずもない。何しろ質素な生活をして小金を蓄えたのだから、金目なものがあるはずがない。父は家族を養うために、しばらくヤミ米の担ぎ屋をやっていたし、母は内職の仕立て物や、鶏30羽ほどを飼って卵を売っていた。
だからといって、白いご飯や卵が食べられたわけではない。米より安い、麦や芋や雑穀が、どっさり入ったご飯を、三度三度食べるのだが、どうしたわけか、すぐにおなかがすいてしまう。
当時、女学校は、4年制か5年制だったが、戦後6・3制となり、ちょうど、女学校卒業も可、5年進級も可、高校進学も可、というときだった。
こんな貧乏な状態では、4年で卒業するしかない、と思っていた矢先に、今なら、お金のかからない学校へ進学できるから、試験を受けよ、というちらしが学校から届けられたのだ。それをみると、いつも受験勉強をしている数人の名前といっしょに、枯れ木も山の賑わいか、あるいは数打ちゃあたるの策かはしらないが、何人かの名が連なっていた。
私は思い切って親に頼んだ。「お金がいらないし、卒業したら、学校の先生になれるし、先生になったら、嫁入り支度もしていらないから受験させてほしい」と。
親は、しばらく黙っていたが、ぽつりと「すきにせい」と言ってくれた。
おかげで入学は出来たが、それからは、身の細るような思いだった。授業料がいらないというだけで、寮に入っての生活費は、必要だったし、裸で通学するわけでなし、あれこれと、毎月3000円ほどの仕送りをしてもらわねばならなかったのだ。その3000円は、昔、こつこつと蓄えたお金から引き出された。「この3000円貯めるのに、どれだけ働いたか・・・」という母の愚痴も何度か聞かされたものだ。
ただ、戦後の貧乏は、一人ではなかったことが救いだった。けっこう私のような、いうなれば、お小遣いに不足し、映画も観にいけないような友達がいたのである。特に私のクラスは貧乏人が多かったと見えて、クラスごとに相談して決める修学旅行も、他のクラスは、東京、私のクラスは日帰りの香川県だった。おかげでいつも金欠病だった私も、修学旅行には参加している。(笑)
今だに忘れられないのは、初月給。革靴一足4000円が買えなかった時代だ。物価がどんどん上がっていく中で、給料は、後へ後へと追いかけるのだが、追いつけない時代。さすがに筍生活はしなかったが、いつも貧乏な暮らしだった。
私の嫁いだ家も戦中は大きな会社に勤めていて、子どもたちは私と違って、贅沢な暮らしを続け、退職して田舎に帰ってきた。しかし、戦後は私の生家同様、預けてあった土地のほとんどは小作人の方たちのものになるし、退職金の値打ちもなくなってしまったという有様で、貧しさからは、なかなか抜けられない生活が続いた。
でも、若いということはありがたいもので、貧乏など、何の苦にもならなかった。
今、振り返ってみると、貧乏を経験することも悪くはなかったと思うのだ。
戦後67年、この年月で、私自身は、それなりにまあまあ頑張れたし、幸せ感もあったから、悔いがあるわけではない。
でも、今の日本という国全体を見まわして、これから国を背負う若者が、何となく頼りないと言う思いが躰を突き抜ける。苦労という苦労をしていないことが原因かもしれないし、あまりにも世のなかの変わりようが激しいこともあるかもしれない。
これも、年寄りのいらぬ心配で終わるならばいいのだが、心身共に強く生き抜いていけるように、成長していってほしいと思う。