2012年8月31日金曜日

パラリンピック


パラリンピックが始まった。

障害を持つ方々が、精一杯の競技をなさる姿は、見ていても、頭が下がる思いがする。

オリンピックに続いて行われるパラリンピックなので、もう、多くの方たちは、こうした大会があることをTVやラジオ、新聞でご存じと思うのだが、国民体育大会(国体)が終わった後でも、障害者の国体が、引き続いてあるのはご存じだろうか。

 
忘れもしない、東四国国体が、香川と徳島で開かれた年だった。(調べてみると、1993年である。20年近くも昔になっているのか……)徳島でも、国体の様子が、次々とTVで写されていた。

それはいいのだが、それが終わっていざ、障害者の国体がはじまってみると、まったくTVでの放映は皆無なのだ。

 
当時、夫も私も、障害児の教育にたずさわっていたものだから、そうした人達の競技には、とても関心があったのだが、どのチャンネルをひねっても、写されていなかった。夫が留守なので、録画もしたいと思っていたのだ。

 
夜、夫が帰って来たので、そのことを言うと、「何だと?」と、いうなり、受話器を持ち上げて、徳島の放送局に電話を入れ、怒鳴りはじめた。放送局の方は、上(東京?)からの指示がなかったとのこと。そのような返事を聞いたものだから、ますます怒る夫。上からの指示がなければ、こちらから言うべきでないのか、と。それでも気のすまぬ夫は、東京のNHKにも文句を言っていた。しまいには、そんな考えだから、いつまでたっても、障害者差別がなくならないんだと、怒鳴って受話器をガチャン

当時、障害者への意識は、その程度だったのだ。

 
あれから月日がたっているので、世間の障害者に対する偏見は、ぐっと少なくなってきたのは嬉しいことだ。学校の呼び名も、養護学校とか、最近は支援学校とか色々と考えて変えているようだ。

 
しかし、いくら名前が変わっても、多くの人達の心の中に、差別意識があれば、何も変わっていないことと同じである。

差別語とかいって、ことこまかに、口にしてはいけない言葉があるようだが、
もっと大切なことが置き去りにされているものだから、いろいろなことで障害者はつらい目に会う事が後を絶たない。

 
障害を抱えた方たちも健常者も、同じ人間として幸せに生きていける世のなかにならなければ、文化国家、先進国とは言えないだろう。

 

 

2012年8月30日木曜日

公衆道徳


車を走らせているときのこと。前を走っていた軽自動車の助手席の窓から、突然カラのペットボトルが放り投げられた。

舗装されたきれいな道路にペットボトルは音をたてて転がった。

それだけではない。続いてお菓子の入っていたと思われる袋が窓からひらひらと飛びだした。

真昼間の広い道路で、こうしたゴミを車から投げ捨てるのは、あまり見かけたことがないので、呆れてしまった。

赤信号で止まった時、ちょうど左折レーンに入った私の車の真横に、前を走っていた軽自動車が停まっていたので、ちらりとのぞいた。どんなニイチャンが捨てたのか、お顔が見たいと思ったのだ。

何と若い男の人運転で、助手席には、若い女の人が乗っているではないか。
まだこういった女もがいるんだなあと、ヘンなことで感心してしまった。

 
捨てる人も、少しは羞恥心があるらしく、こそこそと暗い夜道で投げ捨てる人が多い。先だっても、夜、信号待ちのとき、窓から、灰皿の中身を捨てていた男の人を見た。
私の家のすぐ横の田舎道でも、よく、こうしたものが投げ捨てられているのだが、大抵の場合は、夜の間に捨てられている。朝、目に付くと拾って捨てると、昼間は何とか大丈夫なのだ。


『ゴミは持ち帰りましょう』とか、『犬のフンは、持ち帰ってください』とか、書かれた張り紙はよく目にする。と、いうことは、ゴミを捨てる人達や、犬のフンをそのままにしていく人が、後をたたないということなのだが、公衆道徳というものの徹底は、難しいものらしい。

 
2千年も昔、かの有名なベスビオ噴火でポンペイと運命を共にした町が13もあったのだが、その一つの町を発掘しているとき、その町の今でいう交差点のようなところから、【ゴミを捨てるな】と書かれた布告が発見されている。
世のなか、進歩はしたものの、永遠?に足踏みしているもののあることも事実なのだ。いつの世がきても、こんな人間はなくならないのだろうか。情けないことである。

2012年8月29日水曜日

人口問題


【ある親しい方が、こんなことを言ってくださいました。

「暇な私は、あんたのブログをいつも読ませてもらっているんだけど、書いてない日(お休みの日)は、ちょっと淋しいので、何でもいいし、一言でもいいから、何か書いてよ」と。

実は、私もそんな経験があります。読みたいブログがあって、毎日のように開いているのですが、お休みのときは、何となく、がっかりするのです。

私のようなものの書く雑文を、楽しみにしてくださっていること事態、とても有難いことなので、『一言でもいい、何でもいい』というおことばに甘えて、できるだけ、以前のように、毎日書いていくことにしようと思っています。

ただ、手抜きであつたり、本の抜き書き紹介であつたりすることが多くなるのですが……】

 

これからは、年金を支える者がどんどん減っていく……という時代です。

以前、ある掲示板の中に、こんなことが書かれていました。


少子化少子化と、さわいでいるが、一人っ子というのは、恵まれた存在だ。一人っ子同士が結婚すると、双方の祖父母の遺産・父母の遺産つまり、6人分の遺産を一人占めできる時代でもある・・・
貰うものは貰っておいて・・・爺さん婆さんや父母の扶養はマッピラゴメン!は・・罰当たりが過ぎる。

なーるほど。
また、こんなご意見も。

 

日本の人口は、アメリカの約半分。
スエーデンなど、僅か800万。
諸外国と比べても、異常に高い人口比率です。
山が多く、国土の狭い日本。
今の人口が適正だとは決して思えない。
経済の成長率や、国力ばかりを重視すれば、少子化は非常に憂うべき現象ですが、人口が減少してのプラス面を、誰も語ろうとしないのが不思議です。

日本を理想国家にしようとするなら、今の人口では多すぎます。
私は少子化をそれほど憂えては居ないのですが、心配なのは、恵まれすぎた環境の中で育ちあがった人々の、精神面の軟弱さでしょうかねえ。
何でもあることが当たり前の世界で育った人たちの困窮は、きっと耐え難いものでしょうね。

 

一理ありますが……、たくさんの高齢者がこれからも長生きしていきそうなんですけど……。どうなるんでしょうかしら……。(;;)

ご参考までに。

 


 

2012年8月28日火曜日

不老長寿


このところしばらく歯医者さん以外のお医者さんと、ご縁が切れている。歯医者さんも、歯のお掃除に行くということなので、歯が悪いわけではない。

こういう状態は、「健康」というのだろうが、このトシになると、「健康です」と言いきれぬものがあって、複雑な思いである。

「お変わりありませんか?」

「ええ、まあ、何とか病院のお世話にならずに暮らしています」

「ああ、それはけっこうですこと」

……ということになる。本心を語るなら、更に、

「トシですからねえ。膝は痛くなるし、仕事したら、腰はすぐ痛くなるし、あちこちほころびていて、ちょっと仕事してもしんどくてねえ。毎朝、目がさめたら、ああ、今日も一日生きておれると、安堵しています」

……と、いうことなのだが、ま、こんなことは語らないことにしている。

 

いっとき、「アンチ・エイジング」ということばが流行ったことがあった。今もちらちらと目にするのだが、私は、こんなカタカナことばが苦手なので、日本語でいってもらいたいと、いつも拗ねるのだが、いうなれば、加齢に抵抗、というか、昔からの人間の当り前の願いである「不老長寿」ということのようである。

 
こうした長年の夢のようなことも、医学その他の進歩で、将来は実現しそうな気配があるから恐ろしい。人間の平均寿命が百歳以上になるとしたら、この日本の人口構成は、どうなるのだろうか。嬉しいというよりは恐いというのは、そういうことも含めてのことである。

 
ま、私たち現在すでに老人になっている者は、そんな時代まで生きてはいないだろうから、いらぬ心配はせず、少しでも健康寿命を延ばすべく、気をつけていくことが大切なことなのだろう。

 
とはいっても、ただ、「長寿だけが目的」ということで頑張るのは、自分も周りも「長生き出来てよかった」とは思えないし、思ってはもらえないような気がする。やはり「何かをやっていくために、長生きがしたい」ということになってこそ、長生きの価値が上がるというものではなかろうか。

 
その目的が、世のため人のためになることなら申し分ないだろう。ただ、そんなことが、いつまでも出来るはずがないので、自分だけの楽しみのため、やりたいことのため、ということでも御の字である。

いい音楽が聞きたい、綺麗な花の絵を描きたい、俳句を作りたい、本を読みたい、いろいろあっていいが、どれも楽しみながら出来るものがいい。

 
ただ、こうしたことは、やはり健康でなくては意欲が萎んでしまって続かないし、心が枯れては出来そうにない。『1に健康』ということである。心と身体に栄養を与えながら、目的に向かっていきたいものだ。

 
欲をいえば、若い人たちからも、「ああいう年寄りになれるのなら、長生きもいいものだ」と思われるような老人になれたら、こんな嬉しいことはないと思っている。

 

2012年8月27日月曜日

ご飯とパン


お米のご飯を主食としてきた日本人が、パンを食べだしたのは、戦後のことであります。

パンは、戦中戦後の食糧難時代には、代用食といって、お米がないから、しかたなく蒸しパンなどを作って食べていた程度でした。

 
むろん、戦前はお菓子屋さんには、菓子パンなど売っていたのですが、それはおやつであって、主食は何といってもご飯です。食パンも無かったわけではありませんが、都会のハイカラな家庭が、たまに食べていたくらいだと思います。

ちなみに私は、自由に何でも食べられた戦前、そして戦後も、家の食事でパン食など、口にしたことはありませんでした。

 
そうした日本に、食の革命のようなことが起こってきました。

戦後、アメリカの政策で、日本に、学校給食制度を導入しました。日本の子どもたちは、給食によってパンを食べることに慣れていったのです。

ご飯の好きな私は、給食のパンを、子どもたちといっしょに食べるのが、いつまでたっても苦手でした。

 

ちょっと話がそれますが、当時、アメリカの小麦市場拡大のためには、パンでなくてはならなかったのです。そして、小麦の味覚が浸透した後、さらに子どもたちが好む干しぶどうを小麦に加えたりしますと、子どもたちがレーズンパンを好きになれば、カリファルニアのレーズン輸出業者は、大きな市場を獲得することになります。
ですから、これは非常に良く練られた遠大な計画だったということです。

話をもどします。学校給食で大きくなった戦後の子どもたちが、大人になる頃には、朝はパン食、という家庭はめずらしくはなくなりました。

 
ただ、私のようなご飯党も、大勢おります。最近は、大衆ホテルの朝食は、バイキング形式が多くなりましたので、よくわかるのですが、主食にご飯をよそっている方も、けっこうおられます。

 
どこに行ってもご飯党の私ですが、最近、ちょっとした変化があらわれてきました。
パン屋さんが増えて、いたるところにたくさんの美味しそうなパンが並べられて、いい香りがしてくるものですから、つい覗いてしまいます。食パンを買うことはまずありませんが、おやつはあまり食べないものですから、朝食、昼食の主食となるような、クルミパンや、レーズンパンなどを選んでしまいます。
一人の食事なので、2合のお米を炊いて、残りを冷凍にしておくということをしているものですから、冷凍がなくなっていることもあり、慌てて炊くこともよくあるのです。そんなとき、「あ、お昼はパンでも……」と、手間を省いて買い物のついでにパン屋さんのお世話になることを憶えたのです。そんなわけで、私も、1週間に1度か2度は、パンを主食にしているのです。

 
やはりアメリカ占領軍の遠大な計画は、大成功のようでありました。
私ごとき者までが、クルミパンやレーズンパンを昼食に食べ始めたのですもの。()

2012年8月26日日曜日

筍生活


筍をたべているとき、昔【筍生活】ということばが流行ったことを思い出した。

身につけたものを1つ2つと売りながら、生活していくことであって、戦後に使われたことばである。

戦争中は飢えはお国の為だった。お腹いっぱい食べられる人達は、こそこそと恥じるように食べなければならない時代だった。

女学校1年生の時だった。お弁当を食べているとき、校長先生が回ってきた。
皆の食べている弁当を一人一人覗きこんでいく。
そのとき、私の真後ろの子が、白米ばかりのお弁当をたべていたところ「何という非国民かっ。こんな時代に、白米の弁当など食べていて恥ずかしくないのかっ!」と叱られたのだ。そんな時代だった。

 
戦後の飢えは違う。格別身にこたえた。田舎の農家の人達は、物々交換で、贅沢ができたし、むろん、ひもじい思いはしなかったはずだ。

 

戦時中、印刷工場をしていた父と母は、こつこつと夜おそくまで働いて、当時のお金で利息だけで一生生活が出来るほどの小金を貯めていたものだから、印刷用紙が不足しだしたことを理由に、工場をたたみ、家族を自分の故郷に転居させた。故郷で、こぎれいな家を建て、好きな趣味程度の商売でもしたいと思ったらしい。1万円もあれば、かなりの家が建ったのだ。

それが出来ぬままの終戦、そしてインフレ。預金は、新円切り替えで、値打ちのない紙屑のようなものになってしまったものだから、まさに筍生活である。農家の人たちは、物々交換を条件に、ヤミ米を分けてくれる。だが、そんな売れるようなモノがたくさんあるはずもない。何しろ質素な生活をして小金を蓄えたのだから、金目なものがあるはずがない。父は家族を養うために、しばらくヤミ米の担ぎ屋をやっていたし、母は内職の仕立て物や、鶏30羽ほどを飼って卵を売っていた。

だからといって、白いご飯や卵が食べられたわけではない。米より安い、麦や芋や雑穀が、どっさり入ったご飯を、三度三度食べるのだが、どうしたわけか、すぐにおなかがすいてしまう。

当時、女学校は、4年制か5年制だったが、戦後63制となり、ちょうど、女学校卒業も可、5年進級も可、高校進学も可、というときだった。
こんな貧乏な状態では、4年で卒業するしかない、と思っていた矢先に、今なら、お金のかからない学校へ進学できるから、試験を受けよ、というちらしが学校から届けられたのだ。それをみると、いつも受験勉強をしている数人の名前といっしょに、枯れ木も山の賑わいか、あるいは数打ちゃあたるの策かはしらないが、何人かの名が連なっていた。

私は思い切って親に頼んだ。「お金がいらないし、卒業したら、学校の先生になれるし、先生になったら、嫁入り支度もしていらないから受験させてほしい」と。

親は、しばらく黙っていたが、ぽつりと「すきにせい」と言ってくれた。

おかげで入学は出来たが、それからは、身の細るような思いだった。授業料がいらないというだけで、寮に入っての生活費は、必要だったし、裸で通学するわけでなし、あれこれと、毎月3000円ほどの仕送りをしてもらわねばならなかったのだ。その3000円は、昔、こつこつと蓄えたお金から引き出された。「この3000円貯めるのに、どれだけ働いたか・・・」という母の愚痴も何度か聞かされたものだ。

ただ、戦後の貧乏は、一人ではなかったことが救いだった。けっこう私のような、いうなれば、お小遣いに不足し、映画も観にいけないような友達がいたのである。特に私のクラスは貧乏人が多かったと見えて、クラスごとに相談して決める修学旅行も、他のクラスは、東京、私のクラスは日帰りの香川県だった。おかげでいつも金欠病だった私も、修学旅行には参加している。(笑)

今だに忘れられないのは、初月給。革靴一足4000円が買えなかった時代だ。物価がどんどん上がっていく中で、給料は、後へ後へと追いかけるのだが、追いつけない時代。さすがに筍生活はしなかったが、いつも貧乏な暮らしだった。

 

私の嫁いだ家も戦中は大きな会社に勤めていて、子どもたちは私と違って、贅沢な暮らしを続け、退職して田舎に帰ってきた。しかし、戦後は私の生家同様、預けてあった土地のほとんどは小作人の方たちのものになるし、退職金の値打ちもなくなってしまったという有様で、貧しさからは、なかなか抜けられない生活が続いた。

でも、若いということはありがたいもので、貧乏など、何の苦にもならなかった。
今、振り返ってみると、貧乏を経験することも悪くはなかったと思うのだ。

 

戦後67年、この年月で、私自身は、それなりにまあまあ頑張れたし、幸せ感もあったから、悔いがあるわけではない。

でも、今の日本という国全体を見まわして、これから国を背負う若者が、何となく頼りないと言う思いが躰を突き抜ける。苦労という苦労をしていないことが原因かもしれないし、あまりにも世のなかの変わりようが激しいこともあるかもしれない。

 
これも、年寄りのいらぬ心配で終わるならばいいのだが、心身共に強く生き抜いていけるように、成長していってほしいと思う。

 

2012年8月24日金曜日

さようなら……


親しくしていただいている友人のご主人が亡くなられて十日近くなりました。

彼女は、心からご主人を尊敬なさっておられました。時々私もお目にかかっておりましたが、とてもお優しい方で、ご夫婦仲も大変よくて、ご病気で寝込まれるまでは、毎日、仲良く晩酌をなさり、色々と語り合っていらっしゃったようです。すらりと背の高い彼は、美男でもありました。彼女も素敵な明るい女性ですから、ひとも羨む似合いのご夫婦でした。

彼女は、「夫は何かにつけて私を指導してくれるので、安心して何でもできる」とおっしゃって、色々な活動や人様のお世話をなさってきました。

そんなご主人が、体調をくずされ、入退院を繰り返しておられましたが、「もう、病院はいやだ」とおっしゃってからは、お家で、手厚い看病をなさっていたのですが、病状が急変なさって亡くなられました。

まるで、仏さまのように、苦しむこともなく、安らかに旅立たれたと伺いました。

 
お通夜、お葬式と、悲しみに歯をくいしばっておられた彼女の思いが、私の胸にもびりびりと伝わってきました。

 
「さようなら」・・・私は、手を合わせながら仏様にお別れをいたしました。

日本人の、最後の別れは「さようなら」です。もう、この世で会うことは出来ない、本当の「さようなら」なのです。

 
以前、私は、このことばの語源を辞書で引いたことがあります。

【『左様にならねばならぬのなら(そうならねばならぬのなら)』覚悟を決めて悲しみを内に耐えて定めに従うこと】でした。さようならの語源は、まさに日本人の精神の美しさを表したことばで、素晴らしいことばであることを知りました。

 
私たちは、いつの日か「さようなら」とこの世に分かれを告げる日がやってまいります。そんな時、この美しい「さようなら」のような終わりを迎えられたなら、どんなにか幸せかと、思うものであります。

 

2012年8月23日木曜日

ヤクザのような国


韓国と言う国は、何という国か。李明博(イ・ミョンバク)大統領の独島訪問などに遺憾の意を表明した日本の首相の親書を受け取れぬと返してきたのを、日本だって当然受け取ることは出来ない。韓国は、書留郵便で送り返してくるそうな。

おまけに天皇に謝れなどという韓国の大統領の知性の低さに呆れるばかりだ。

それにしても、李明博という男、自分の人気が落ちてくると、恥も外聞もかなぐり捨てて、何でもする男らしい。

そんな男がトップにたっているのだから、韓国という国は、想像以上にひどい国と、あらためて認識を新たにした。

 
それに比べると、日本と言う国は、何と紳士的すぎる国であることよ。

【歯には歯を】ということばがあるが、私はそこまではやってほしいとは思わないが、ヤクザ相手の外交なのだから、それなりのやりかたがあるのではと思ったりする。

 
敵は、人の物を横取りするようなことを何とも思っていない、日本なら、もつとも恥ずべき人間なのだ。市民は、捏造された報道をまともに信じているのだろうから、市民の行動をとやかく言いたくはないのだが、ちょっと知性のある市民なら、真実を研究してみる気持ちになるはずだが、そうしたことはあまり聞かない。韓国全体の民意も低いと思わざるを得ない。

 
今日はパソコンの前での用事が多かったので、もう寝ようと思っていたのだが、このままでは、寝付きが悪いだろうと思って、ちょっと韓国の悪口を書かせてもらった。

ああ、ちょっと気がすんだ。(笑)

2012年8月22日水曜日

地方文芸誌


年に一回出している【町文芸誌】だが、今年も会長さんはじめ10人のスタッフの手間が実って、原稿や広告が集まり、昨日、印刷に回すことができた。ホッと一息ついている。

これからも、校正という仕事が何度かあるのだが、これまでの仕事にくらべると、半分の手間もかからないので、肩の荷は軽い。



こうした市や町で作る文芸誌は、県内には何冊か発行されているのだが、案外市民や町民の方たちは、そうした冊子が発刊されていることを知らないのが現状のように思う。

文芸に興味のある方ばかりではないのでしかたがないのだが、世話人としては、淋しいものがある。



何をしても、先立つモノがなければどうにもならないのだが、会員の会費だけでは、とても間に合わない。しかし、町としては、そうしたことにお金を出してくれる余裕は無いらしく、賛同はしてくださってもお金を出してはもらえない。



有難いことに、スタッフの中には、お顔の利く方が何人かいらっしゃって、広告集めをしてくださる。広告といっても、寄付をいただくようなもので、その広告で、お客が増えるということは、あまり期待できないのが実情で、広告主さんから、「今回限り」などと、引導をわたされることも少なくない。



そんな現状に加えて、会員の高齢化ということがある。会員は、比較的裾野の広い俳句、次いで短歌、随筆、詩、小説評論となるのだが、若い方はほとんどいらっしゃらないのが現状で、先細りの様相である。年とともに、「もう作れない」「書けない」「体調がよくない」と仰って、原稿も会費も滞ってしまう方が増えてくる。



こうしたことは、私の町だけではないらしいが、若い方たちの活字離れというか、文芸離れというか、私どもの力では、どうにもならない問題が横たわっている。



昔、ある方がおっしゃった。

文化などというものは、文化の育つ土壌というものがなければ、育つものではない。とくに、地方でそうした活動をするには、理解のある人達の援助がなければなかなかできないものだと。



私たちの文芸グループを立ち上げたスタッフは、手前味噌になるが、とても素晴らしい方たちが揃っていて、和気あいあいの中で仕事を分け合っている。よく見られる俳句や短歌の結社のような、縦社会ではないのもいい。嫌な顔一つせずに、奉仕をしてくださっている。県下広しといえども、こんな集まりは少ないと自負している。



これからも、それぞれの分野の会員さんたちと、自分の思いや、大自然の美しさや、感動を、自分のことばで表現していくことの楽しみを味わいながら、一冊の器に盛り上げていく喜びを共有していきたいと思っている。

これから先、私もいつまで続けられるか分からないが、皆さんの手足まといにならないよう、スタッフの一員として頑張っていこうと思っている。


2012年8月21日火曜日

福神漬け


カレーに付き物の福神漬けについて考えたこともなかったのだが、言われて見ると、字の如く、随分と縁起のいい名前である。福の神さまということだから、カレーでなくても傍に侍らせたい。

実はこの食べ物、明治十九年、上野の不忍池で茶屋を開いていた野田右衛門と言う人が、近くにあった弁天様からヒントを得て、お正月用として売り出したものだそうだ。


材料は、原則として茄子,カブ、大根,なた豆、シソ、ウド、筍の七種類。作り方は、材料を塩漬けにして、塩出しをしてから小さく刻み、これを醤油と砂糖で煮るとできあがり。材料を七つにしたのは、七福神にたとえたからだそうで、当時の案内には、「これをおかずにすると、他のおかずが不要になり、お金が溜まって福が舞い込む」ということが書いてあったそうだ。


今となつては、そんな有難い食べ物という感じは、どこかにふっとんでしまって、多分、お正月用には使われていないだろう。我が家では、使っていない。

私も以前、福神漬けを作ってみたことがある。買った福神漬けは、どうも味が甘すぎたり濃いすぎたりするので、自分好みのものをつくろうと思ったのだ。むろん知人に作り方を聞いてのこと。

こんないわれなど知らなかったが、蓮根、茄子、胡瓜、タクワン、生姜、ニンジン、昆布の七種類を揃え、タクアンと茄子以外を小さく切り2日ほど塩漬けにする。それにタクワンと茄子を切って加えて15分ほど水に漬け、しぼってから半日ほど風通しのよいところで干す。

そのあと、付け汁(醤油、ミリン、砂糖、水あめ)をこしらえて煮立てて冷めたら材料を入れて重石をし、時々かき混ぜていると、4・5日すると食べられる。

長年のカンというか、付け汁などは、砂糖何グラムなんて計ったりはしない。ちょっと舐めてみて手加減しながらだ。それが自分好みの味になるのだから、経験とは有難い。

実は、自家製福神漬けを作ったなどと偉そうなことは言えないのだ。たった一度きりしか作っていないのだから……。
理由は簡単。けっこう手間暇かかるからで、私のような手抜き女には、向いていない、ということである。(^^;;


2012年8月19日日曜日

風評被害


このブログ、一応エッセーのブログということになっていますが、時々、手抜きをさせていただいています。それは、聞いたこと、読んだこと等をここに紹介するという、手抜きです。私が考えたことよりも、はるかにいいことが書いてあったり、面白かったりするので、読む方にとっては、「しっかりと、手抜きして」とおっしゃるかもしれません。この話しも、手抜きの話からはじまります。


東大大学院の教授・佐倉統氏が、新聞にこんなことを書いていました。


放射能汚染への風評が止まらないが、実際の危険性がほとんどなくても、心理的不安がおさまらない。

これは、放射能だけでなく、病気、職業、人種など、昔から広く見られるもので、人間の心理傾向の一つとしてみられるものだ。


最近の研究から、人の心には、病原体への感染を避けようとする「行動免疫システム」というものが備わっていることが分かっていて、石器時代は、病気にかかる可能性が今より格段に高く、罹った時のダメージも非常に大きかったので、人間の心は、過敏に病原体を避けようとするように進化してきた。


「風評被害」は、これが誤作動したもの、と氏は言う。危険がないのにシステムが誤作動してしまうのは、生き物としての人間の進化より、環境が急激に変化してきたことが原因と説く。


このシステム事態は、この過酷な環境の中で生き延びるためには必要なものだが、これが発動すべきでないときに発動すると、さまざまな弊害が現れる。アレルギー疾患もその一つ。

風評被害というのも、「心のアレルギー反応」である。


アレルギー反応の根本的な治療は、難しく、長い時間をかけて抗原を除去するか、体質改善するしかないのだが、心のアレルギーは、日々の教育や啓発が、それに当たるのだが、これは急ぐことには間に合わない。


対症療法では、一部のアレルギー反応は、抗ヒスタミン剤などで抑制しているが、風評被害の場合は、【風評情報を相手にするな】と言う事になる。特に、自治体や、組織の中枢にいる人達が、過敏な反応をせずに、一方で、教育や啓発を続けることが必要・・・と氏はおっしゃっています。


考えてみますと、放射能汚染地区の方たちの受けている被害は、本当にお気の毒なことであり、その上に、風評被害が重なってくるのですから、その悲劇は言いようがありません。

放射能汚染の心配ない瓦礫でも、受け入れない地方の自治体、人体に影響がないと折り紙つきでも、生産地のラベルを見ただけで買わない人達。

もし、自分がそんな土地に立っていたなら、どんなにか悔しい思いをすることでしょう。

相手の気持ちになって物事を考えたり判断していく、ということも、対症療法の一つと思うものであります。

2012年8月18日土曜日

生姜の甘酢漬け


昨年だつたと思う。生姜をたくさんいただいたので、『生姜の甘酢漬け』というのをこしらえた。むろん、レシピも生姜と一緒にくださったのだ。


それがあまりにも美味しかったものだから、何人かにお裾わけしたり、作り方をパソコンにいれてレシピをつくって差し上げた。



先日は、そのレシピを失ったので、教えてほしいと言う友人からの電話があった。さっそく、レシピを送ったのだが、友人もまた、何人ものお友達に教えてあげていたらしい。



昨日、ちょうど、新生姜をたくさんいただいたので、『生姜の甘酢漬け』をこしらえたところである。


自分がしてみて「これはいい」と思うと、やたらと誰彼に薦めるのが私の方針。さっそく、ここに、レシピを紹介しておこう。


☆生姜の酢漬け

材 料 生姜…………1㎏ (新生姜)

      塩 …………30

      酢 …………700cc

      砂糖…………500cc700cc

  作り方 生姜を洗って適当に切り、(小指くらいの大きさ)3%(30g)の塩をまぶして、30分~1時間 置く。

出てきた水分をふき取る。

700ccと、砂糖500cc700ccを煮立てて、火を止め、熱いうちに生姜を入れる。(生姜がひたひたになるように。ピンク色になってくる)

あらまし冷めたら、ビンなどにいれ、冷蔵庫で保管。5日くらいしたら、美味しくなる。1年間くらいは保存できる。



 と、いうことなので、興味のありなさる方は、お作りになってみてください。


2012年8月17日金曜日

食べながらは泣けない


なるほどとうなずきがら読んだ話だ。

人生相談に長けた老女の言を要約すると、失恋とか受験の失敗とか、若い人が泣いて相談に来たら、まずご馳走して食べさせるそうだ。食べながら泣くっていうのは、難しい。

箸で突きながら泣いていても、そのうち泣きやんで、考えが変わることが多々ある。
「このお魚美味しいわね」くらいの台詞が出れば、もうしめたもの。


問題解決には、垂直思考というか、とことんこだわって、根本的解決をもとめるのは言うまでもないが、それでもどうにもならないときは、水平思考への転換が一助となる。

その一つがユーモア感覚である。生きて行く上での日常の知恵としても、有効だ。ユーモアは、頬笑みを誘い、軽い逃避となることもあるけれど、脳味噌をしなやかにして別な発想を生むことにも通じている。

・・・といったようなことである。

失恋をして、相手を恨み、自己嫌悪に陥り、失った過去を惜しんでみてもしかたがない。「死にたい」と思う人たちも、ちょっと視点を変えたなら、「なーんだ、あんな男の一人や二人、箒で掃いて捨てるほどいるじゃん」ということにも。
「あの大学に入って、びリを這うより、ランクは下でも、いいところを走る方が結果は上だ」などなど。
負け惜しみでも何でもいい。方向転換できたなら、どんな素敵な人生が開けるやら、分かったものじゃないのだから……。


2012年8月15日水曜日

終戦記念日に思う


何年も前に聞いた話しだが、 あるお偉い方と大学生が、こんな会話をしたらしい。

「世界第二次大戦を知っているか」

「知らない」

「学校で歴史を習わなかったのか」

「習ったけど、明治維新までしか習っていない」

「そんなはずないだろう。教科書にちゃんと書いてある」

「明治維新のところで三学期が終わったので、先生が、『あとは、自分で読んでおけ』と言ったけど、読んでない」

「日本史は、逆さまから教えたのがいいかもしれんなあ」

まるで笑い話のような実話である。

 

また、広島に観光旅行した女子大生が、こんなことを言った。

「原爆原爆っていうけれど、原爆がなかったら、広島って、何もないところでえなあ」

原爆を有難く思えとでも言うのかっ!と言いたい気分になる。

皆が皆、こんな若者ばかりではないだろうが、こういった若者もいるのである。
これを平和ボケとでも言ったらいいのだろうか・・・。


憲法問題にしても、9条改定反対の理由が、「兵隊に取られたらたまんない」といった程度の若者も珍しくない。


これからの日本を背負ってもらわねばならない若者である。こんな意識を、そのまま、ほうっておいていいのか……、と(古女)の私が言うたところで、どうにもならないのは分かつているのだが、それでも言わずにはおれない気持ちである。


私は、昭和五年の秋に生まれたので、戦中戦後を生きてきた。

とはいうものの、私自身の個人的体験としては、本当の苦しい、悲しい悲惨な思いは、それほどしてきたとは言えない。子どもの頃、ひもじかった、欲しいものが手に入らない、鍋釜まで供出さされて不自由をした、戦後のインフレで貧乏になった、といったことぐらいのものだった。
やはり、戦場で砲丸の中をくぐってきたとか、家を焼かれたとか、爆撃の中を逃げ回った、家族を失った、というような体験をした人たちにくらべると、大きな違いはあるだろう。

それでも、一億火の玉だの、最後の一人になるまで戦うだの、それなりの覚悟は出来ていた。所詮、まだ人生の何であるか、イノチが何であるかもよくは解っていない子ども心での理解であったので、覚悟といっても、それほどの悩みもなくすんなりと受け入れられたのだろう。


とはいうものの、私たち戦争体験者は「平和の有難さ」は、身に沁みている。

終戦を迎え、平和がやってきたときは、生きていてよかった、戦争ほどむごたらしいものはない、どんなことがあっても、二度と戦争はしてはならない、と心底思った。だから、日本国憲法の、戦争放棄や、平和国家への思いは、決して黴が生えたりはしない。


しかも、戦争の恐ろしさは、そのときの犠牲・破壊だけではないことが、私たちは今になってはっきりと分かってきた。それは、単なる人の命や財産を失うだけではなかった。日本のよき伝統や、人の心を愛することも文化も、多くを失ったと思っている。


有史以来、歴史は繰り返している。歴史が証明している通り、この地球は、ほとんど戦いが絶えたことがない。いかにも人間という動物が賢くないことを証明しているようで情けない。


戦争というのは、考えてみると、ただの凡人たちが、戦争をしかけたり、火種を埋め込んだりしているわけではない。総ての戦争は、それを指揮しているエライといわれている人たちがやっていることなのだ。話し合いの解決が出来ないのは、エライと言われている指導者が、人間の命を軽く見ていることに他ならない。


最近、こんな説をよく目にする。

「日本が、アメリカの言いなりになっているという批判をよく聞くが、丸腰の日本がもし、中国や北朝鮮からミサイルを打ち込まれたら、守ってくれるのはアメリカである。アメリカと対等に付き合いたいのなら、日本も核武装して、自分で国土を守るしかない」

「中国や朝鮮にお金だけとられて馬鹿にされるのは、日本に軍備がないからだ。日本もそろそろきちんとした軍備をととのえるべきときがきている」

こういう人たちは、日本再軍備を願っているのだが、はたして日本が再軍備をしたら、それで平和は保たれるのだろうか。

こうした問題は、単に、憲法改正反対だの、改正賛成だのと、軽々しく取り扱える問題ではなさそうだ。世界情勢、過去の戦争原因、等など考えながら、
「これからも日本の国は、世界に誇れる平和憲法を固持し、絶対に戦争はしない国です。平和憲法を守り抜く国です」
ということを、胸を張って世界に発信していくことが、最良の道なのか、それは危険なことなのか、国民が深く考えて見なければならないと思う。