2012年5月31日木曜日

野田・小沢会談に思う


どうもおかしい。小沢さんは言う。「政権交代したにも関わらず、約束を破って消費税増税を唱えるのは、おかしい。約束したことをまずやってから、というのが、国民の思いだし、日本経済も、ギリシャのような待ったなしの現状ではない」と。

一方野田さんは、「約束した改革は、今までにも、一生懸命取り組んでやってきたし、その成果もあらわれています。むろんこれからもやっていきます。その上で、待ったなしの増税をお願いしなければならない現状です」と訴えている。
同じ党でありながら、約束ごとを何もしていないという小沢さん。一生懸命やってきたし、これからもやっていく、という野田さん。これってどういうことなのか。

私には、民主党は人材不足と言われながらも、色々と改革をやってきたと実感しているだけに、またその効果も見ているだけに、小沢さんの発言は、納得いかないものがある。外野席からの発言としか言いようがない。

小沢さんに「国民の皆さんの思い」などと、綺麗ごとをいわれたら、「選挙に勝てない」と言っているとしか聞こえない。

いつの時代も、自分の財布のことしか考えない人達はたくさんいる。でも、そうした人達も、安心社会に引っ張り込んで行かねばならないのだから、反対されても突っ走るしかないのではないか。

経済問題にしても、「心配ない、日本はギリシャとちがう」という意見は、あまりにも世界を甘くみているとしか言いようがない。
国民が国に貸せるお金も減ってきているのが現状だ。国債もどんどん外国の手に渡り始めている。ここ二年間では、震災もあって驚くほどの借金になるのだ。日本が世界に誇っていた国民の貯金率も急激にさがっているらしい。団塊の世代が退職する時代になって、無職の世代が多くなったこともあるという。

そして何より、少子化、高齢社会が進みつつあるのだ。
手遅れながら、傷みを早急に分け合っていかなければ、ツケは、ますます大きくなり、子や孫の世代に、大きな負担を強いることになるのだ。
【消費税を持ち出すと、選挙に勝てない】などというようなことでは、今までの「先送り政治」と同じことの繰り返しである。日本の国債が暴落しはじめてからでは、遅すぎる。これは、政治に疎い私でも感じている危機感である。

増税は、老後や生活の不安をなくするためには必要なのだから、誰かがやらねばならない重大問題なのだ。

改革を言いつつ、半世紀も舵取りしながら、こんな国にしてしまった自民党の轍を踏んでいてはならない。

私たちもよく考えてみなければいけないと思う。政権交代したからといって、壁紙を張り替えるように改革が進むなどと思うのは大間違いだ。何十年も、何期もかかってやってきたことのツケを、1年や2年でどうなるものではない。

私たちは、苦い薬も飲まねばならないときもある。それを拒んでいては、治る病気も悪化していくだけだろう。


ああ、言いたいこと言って、ちょっとばかりスッとした古女です。(^^

2012年5月30日水曜日

猫の死 その2

  昨日の続き

私はふと、釈尊の最後の旅を想った。八十歳を数えて、釈尊は老衰される。
「自分の体は、古びた車が皮ひもであちこち縛りつけられて、やっと動いているようなものだ」
と、おっしゃっているが、アマテラスの体が、そっくりそのままだ。体がゆがんで、ぎこちなく、きしむ音が聞こえるようにして歩いていく。

釈尊は死を予知して、マガダの城から北に向かって急がない旅をなさっている。急ごうにも急げない最後の旅は、ひどい下痢と腹痛に悩まされた。たぶん大腸癌であったろうと、現代の医師たちは推量している。
アマテラスも、腸に癌があるから、あんなにおしりから血を流しているのか。

それにしても、どこまで歩いて行くのだろう。この道に死体を隠してくれるような場所はないのに……。

向こうに明治神宮が見えてきた。
ああ、あの神宮の森の中で死ぬのか……。
あそこなら、立入り禁止地域なので、誰の目にも触れることもない。
しかし、まだ二百メートルの坂道が続く。

のろのろと、アマテラスは、けれども、確実に神宮を目指して歩いて行くのだ。
これだけの余力を残して、最後の旅に出かけたアマテラスに、私は驚嘆している。
立ち止まり、うずくまる。そしてまた歩きはじめる。すさまじい意志の力がこちらに伝わってきて、私は泣きそうになっていた。

「人間はみっともなくうろうろするばかりなのに、君たちは本当に立派だなあ」
十八年前、癌で死を宣告されたとき、ひとしきり混迷した自分が恥ずかしいというものだ。

アマテラスは、とうとう坂を登りきった。
あとは広い車道を横切れば、神宮の森にたどりつく。
しかし、車の通行が激しくて、とても渡れない。そこは信号がなく、歩道橋があるだけだ。とても歩道橋の階段はアマテラスに登れない。

私は彼女を抱き上げようと近づくと、アマテラスはもう車道に足をふみ出していた。自分の力で真っすぐ車道を横切ろうというのだ。

私は慌てて車道に飛び出し、疾走してくる車に向かって手を振った。
「停まってくれ!ストップ」
ブレーキの音を鋭くたてて車が次々と停まった。
「さあ、渡れ。渡るんだアマテラス」
奇妙な初老の男が両手をあげて車を停め、その前を老衰いちじるしい猫がヨロヨロと歩いている。なんとも、その足どりはもどかしく、三歩よろめいて、しばらく休むというぐあい。

非難の警笛が鳴るけれど、何十台の車が停まっているのか、私にふりかえる余裕も、勇気もない。ひたすら非難の警笛が耳に入らないふりをして、アマテラスを励ます。抱きかかえて走れば、あっという間に渡り切れるのだが、彼女が命をしぼり切って行う最後の儀式に、手をさしのべることは無礼なような気がした。

とうとうアマテラスは横断し切った。
彼女の力はつき果てようとしているのは、誰の目にも分かる。彼女の目の前にはコンクリートの柵があるだけである。

「さあ、お入り……」
アマテラスは体を押しこむようにして、昼なお暗い闇をただよわせる明治神宮の森の中に入っていった。

「アマテラス!」
私は彼女の名を呼んだ。もう一度ふりむいてほしかったのだ。
然し、彼女は足をとめただけで、もうふりかえる力もないかのように、森の闇に入っていく。

「ここが公園通りの猫たちの死に場所なのか」
私と深く、深く交際してきた数十匹の猫たちが、立派に『覚悟死』をとげた場所である。

「さよなら、アマテラス……」
私は思わず合掌して、念仏のようにある言葉をくりかえした。

「生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死んで死の終りに冥し」

アマテラスのように壮麗な覚悟死をとげた弘法大師空海が死の直前に発した最後の言葉である。

人も猫も、生命の持つものに変りはあるものか。
アマテラスも、空海と同じように生の終りの暗闇を見ているのにちがいない。

涙があふれ出てしかたなかった……。   (終わり)

……パソコンを打ちながら、私も涙がながれてきた。
そして、車に轢かれて最後をとげてしまった猫を哀れに思うばかりである。




2012年5月29日火曜日

猫の死 その1


猫が車に轢かれて死んでいるのを見ました。初めてではありません。何度か目にした悲しい光景です。そして、いつも思い出すのが、早坂暁さんの書かれた【アマテラスの最後の旅】という感動的なエッセーです。

早坂暁さんといえば、有名な「夢千代日記」や「花へんろ」を書いた脚本家ですが、こよなく猫を愛する作家としても有名です。ご自分が飼っている猫だけではなく、野良猫をも大事にして、「公園通りの猫たち」とか、「嫁ぐ猫」といった猫のエッセー集も出されています。

【アマテラスの最後の旅】は、短いエッセーなので、2回に分けて、ここに転写させていただき、皆さんにも読んでいただけたらと思います。

 『アマテラスの最後の旅』 早坂暁作

アマテラスの様子がおかしいので、ここ数日はできるかぎり彼女のそばから離れないようにしていた。

アマテラスは、公園通りあたりではもっとも長命なメス猫で、小公園に面したマンションの入り口にいつも座っている。実はこのマンションに私の事務所もあるのだ。早坂事務所だが、だれもそうは呼ばない。宮沢賢治さんの童話に出てくる〝猫の事務所〟と呼ばれている。

私が公園通りに来てから十八年目だが、その時にもう子猫を連れて歩いていたから、少なくとも十八歳以上ということになる。

猫の年齢を人間に換算すると、一ヶ月……一歳、二ヶ月……三歳、三ヶ月……五歳、六ヶ月……十一歳、一年……十八歳、四年……三十二歳、七年……四十四歳、十年……五十六歳、十三年……六十八歳、十五年……七十六歳。と、獣医さんに教えてもらった。

「十七歳以上になると、つまり、キンさん、ギンさんクラスですね」

百歳クラスというのだ。
 どうりで、アマテラスはすっかり恍惚の猫となってしまった。

恍惚……ボケは人間だけでなく、犬や猫もちゃんと恍惚する。犬より猫のほうがボケは遅いというけれど、アマテラスは、背中のあたり毛が汚れてケバ立ってきた。

猫の老化を示すシグナルは、背中の毛の汚れだそうだ。老化すると、体の骨が硬くなって、毛づくろいする舌が背中のあたりまで届かなくなるからである。

同じマンションを仕事場にしている少女漫画家のFさんは、アマテラスのことを「イスズさん」と呼んでいる。女優の山田五十鈴さんのように、老いてますます色っぽいからだ。(中略)

人間が見ても色っぽい猫は、猫が見ても色っぽいらしくて、アマテラスはいつもオス猫にかこまれ、さながら公園通りの女帝のようにして生活してきた。多分、公園通りに住む猫をたどれば、みな彼女にたどりつく。つまり彼女の娘、息子、さらにマゴたちであるから、私はアマテラスと呼んできたのだ。

アマテラスは、うずくまったまま、もう食べる事も、水を飲むこともしなくなった。一番好物だったマグロの中トロを置いてやっても、口を近づけようともしない。

彼女がゆるりと体を起こした。よろよろと山手線の線路の方へ、坂道を下っていく。
 「とうとう死にに行くのだ……」

私はゆっくりとアマテラスの後を追った。

何百匹と、公園通りの猫たちと付き合ってきたけれど、猫たちは一度だってどこで死ぬのか教えてくれなかった。死にぎわがくると、ふっと姿を消してしまうのだ。「巡査」も「ぶっく」も「オートバイ」も、みなそうだった。ビルの谷間や、わずかな空き地をさがしてみるが、一匹の死体も見つけることができない。

「一度だって、鳥やケモノの行き倒れを見たことがありません」

放浪の俳人種田山頭火が話していたが、彼の名をもらった「サントーカ」も、かき消すように姿を隠している。

アマテラスは、よろめいては立ち止まって休む。無理はない。彼女はここ数日、ろくに食べていない。いや今日は水も飲まなかった。

いってみれば、僧空海が死ぬ時のように五穀絶ちをしているのだ。
空海は自分の死期を悟ると自らその日を予告して、その日に向かって五穀を絶っていった。最後に絶つのは水である。死の直前が水絶ちなのだ。

だからアマテラスも水を絶った時点ではっきり死を直感して歩き出したに違いない。
彼女は、山手線にぶつかったところで、ゆっくり左折した。そして、線路ぞいの長い坂をのろのろと登りはじめた。
どこへ行くのか。
おしりからは、赤い血が少し流れている。(明日に続きます)



2012年5月28日月曜日

お百度


以前、何かに書いたものだが、とてもいい話なので、ここで皆さんにご披露しておこう。

トッコさんが、街中で二十年ぶりにある教え子に出会ったときのこと。

「先生、お坊ちゃんはもう大きくなられたでしょうねえ‥‥。今だから白状できるのですが‥‥」
と、こんな話を聞かせてくれたという。

「いつごろだったか‥‥、先生のお坊ちゃんが入院なさって、学校一週間ほど休まれたことあったでしょう。私たち、仲よしが何人か頭寄せ合って心配していたんです。そんなときある子が、『お百度をふんで、子どもの病気が早く直るように神様にお願いしよう』と言ったんです。これは、人に知られたら効果が無くなるらしいから、絶対秘密ということで、生まれてはじめて、親にも内緒でお百度ふみましたの‥‥。子どもさんの病気が直ったといって、先生が学校に出てこられたときの嬉しかったこと‥‥、今でも忘れられませんの‥‥。私たち、本当に先生が好きで好きで、『ほかの先生は好きにならんとこな』なんて皆で指きりしたこともありました」

この話を聞いて、トッコさんは胸が熱くなって、しぱ゛らくは、声が 出なかったそうだ。。

トッコさんは伏し目がちにこんなことをつぶやいた。
「あの時代、正直いって大変だったの‥‥。子どもの病気、下の子の出産‥‥。今から思うと、教え子たちに一番何もしてあげられなかった時なのよね。すまない‥‥というか、何か後ろめたさが残っていたのに、子どもたちから、過分な気持ちを受けていたことを知って、本当に驚いたり嬉しかったり‥‥。もし、私が彼女と出会ってなかったら、こんな嬉しい話も、一生知らずじまいだったのよねえ‥‥」

私はこの話を聞いて、人ごとながら胸を熱くした。
トッコさんは、私の知る限りでは、とても優秀な先生で、どんな時でも決して「その日ぐらし」の先生ではない。充分なことが出来なかったというのは、仕事には厳しいトッコさんの謙虚な自省なのだ。

それにしても、「教師」とは、時には自分の知らない間にも、こんな素晴らしいプレゼントを受けているのだ‥‥と思うと教師冥利に尽きる。

そうは言うものの、教師という仕事は、日めくりがめくられていくような、わずかの手ごたえもなく、空しい仕事のように思えるときもあって、果報な日ばかりではない。
トッコさんにしても、この話を聞いたころ、ある親子のために奈落の底に突き落とされていた。何とか正常な親子関係になってほしいと、誠心誠意関わっていたのだが、悪人呼ばわりされてしまったのだ。それだけに、お百度のはなしなど聞かされて、自分の中の荒れた海面が、ひたおしに凪いでしまったとか。

しっかと挟み込んだ花弁が、教え子たちの胸に、美しい押し花となって張りつけられていることを知ったトッコさん、遠くを見つめるようにしてつぶやいた。
「お百度をふむなんて、長い一生に何度あるかしらねえ‥‥」

いつの時代も、心からの指導を受けた先生のことは、子どもたちにとって忘れられないものである。






2012年5月27日日曜日

つれづれなるままに-その2


朝、5時半に目覚めた。ちょうど睡眠時間は5時間。しばらくは蒲団の中でもごもごと身体を動かす。体操をするわけではないが、手足や肩、首を動かす。枕元に置いてある本を読む。携帯の予定表をみる。特別の用事はなし。
やっと6時起床にこぎつけた。

私は身体の作りが怠け者らしい。以前、お医者さんに言われたことがある。「あんたは、朝起きるのが辛いでしょう。力仕事したら、すぐしんどくなるでしょう」と。その通りなのだ。どこも悪くないのに、ちょっと力仕事すると、すぐに「はあはあ」いうのだ。寝ている間、心臓も怠けていて、血圧もさがっているようだ。そのためか、血液の循環が悪く、節々や身体全体がこわばっている。それをほぐさなければ起き上がっても気分がよろしくない。

そもそも、臓器のことは、自分でコントロールできないので、怠けること事態は好きでないのだが、体内の臓器が怠け者なのだから、どうしようもないのだ。だから、基礎代謝カロリーも、多分私はあまり使わぬのだろう。人並食べたら太るところをみれば、そうとしかいいようがない。

30分の『遊び』があるせいか、起き上がるとやはりシャンとする。

トイレ、洗顔、着替え、化粧を済ませ朝食の準備。(化粧は、ほぼ毎日完璧にする。日焼け止めからシミ隠しまで。いつお人がみえるやもしれないので欠かせない。素顔を見せたら、家を間違えたかと思われる)

TVを付け、それを見ながらの朝食。
そのあと、洗濯機を回している間、庭に出て、草取りと水やり。たくさん咲いたスイトピーと、アジサイを切って、三つの花瓶の花を入れ替える。
出来あがっている洗濯物を干すと一通りの朝の仕事が終わる。ホッ。

おもむろに新聞を開く。まず死亡欄。ああ、今日も事なきを得た。知人友人の名がないのはこの上なく嬉しい。

1面片隅の『鳴潮』に目を移す。

おっ。私の同期の桜である【上田収穂】氏率いる世界に羽ばたく【徳島少年少女合唱団】に、今年も92日、バチカンのサン・ピエトロ大聖堂で、「東日本大震災復興祈願ミサ」への出演の正式招待状が届き、「平和への祈り 徳島ミサ」や、「さくら」などを歌うことになったという記事だ。
「シューホーさん。おめでとう! 頑張ってくださーい」の声援と、ご成功を祈念しております。

2面を開く。

ややっ【仙谷氏「思慮たらぬ」】  と。
仙谷さんが思慮がたりないと書かれているのかと思って慌てて読みだしたが、違った。反対派を批判したとのことである。

TVやラジオでも、よく聞く話だが、やはり常識的に考えてみても、消費税アップは、致し方ないと私たちも思っている。無駄を省いてとか、○○が先だ、などと言っている場合じゃないのだ。イヤなことを先送りしてきたから、私たちは大変な時代になっていることをもっと自覚して行きたいと思う。

○○さん率いる一年生議員は、消費税問題を抱えての再選は難しいなどと言われているからか、こぞって反対を叫んでいるが、それこそが、『日本の為の政治」を考えているか、「私の為の政治」を優先しているか、国民に判断をせまっているようなもの。もっと、政治家らしいモラルを身につけて、議員になってほしかったと思う。

ああ、今日一日も、ルンルン・ひょこひょこと、過ごせそうだ。

2012年5月26日土曜日

晩春に思う


気温の上がり下がりが激しかった春先からこちら、どうも体調が狂っている。
いつになく調子がよくない。ここ何年も風邪をひくことなどなかったのに、ひいてしまった。クシャミをし、鼻をかんではまたクシャミといったかっこうで、この23日を過ごしている。
寝込んでいないのは、忙しいせいかもしれない。()

もう春も終わる。夜風の運ぶ若葉の匂いも、十分嗅ぐこともなく、春を見送ってしまうことになりそうだ。
以前の私なら、意地悪い晩春の置土産のような冷たい気温にも、あかんべえをしてみせる意気があったと思うのだが、もうそんな元気はない。
壁には、冷える夜のための厚手の上着がまだぶらさがっている。

そういえば、この田舎に住みながら、まだ、燕の一羽も見ていない。燕に見放されたのだろうか?

燕といえば、この季節、この歌と毎日お付き合いしている。色紙に書いたものを壁につるしているのだ。

 墜ちやすき我を翼に掬いとり五月の空を截るつばくらめ  nini

 この短歌は、かなり前に創られたもの。mimiさんは、歌人で才媛。とてもいい歌を創りなさる。歌集も何冊か出されていて、その評価も高い。その気さえあれば、全国区の歌人になり得る実力者だが、ご本人はその気がなかったのか……。地方誌で活躍され、それも最近主宰がなくなられてご自分も引退された。
短歌にはご縁のない私だが、惜しい方と思う。でも、その実力は、後輩の知るところなので、今も指導を乞う方は少なくないはずだ。
これからも、長生きしていただいて、23年遅れで付いていく私めを元気付けてください。お願いします。

Mimiさんに無断でこんなことを書いてしまいましたが、お許しください)



  


2012年5月25日金曜日

年齢不詳


女優さんなど、年齢不詳のお方は、昔からよくあったのだが、最近は、一般の女性も、若々しくて、孫がいらっしゃるなんてウソのような方がたくさん出て来た。

顔だけではない。着ているもので年齢を判断することも出来なくなった。親子が、同じようなモノを身に着けて街中を歩いているのは珍しくない。

これは、とてもいいことなのだ。年を重ねても、生き生きとしてくる人が珍しくないという事でもある。よく言われていた「年甲斐もなく」とか、「いいトシをして」などというコトバは、聞こえなくなったし、年甲斐もない服を着ても、笑われないし、皆さん上手に着こなしている。
年齢という枠が取っ払われたのだ。

そして『ヒトにどう思われるか』ということではなく、『自分が自分をどうみるか』を大切にしているようだ。

婦人服売り場を歩いてみるとよく解る。
どの売り場も、年代を問わない商品が広がっていて、若者と同じ楽しみを求める元気な中高年がわんさといらっしゃる。

ただ、まったく若者と同じ売り場と言うわけではない。流行のデザインであっても、胴周りの太めのサイズがあり、お値段も、お高いものが並んでいたり、さりげない違いはあるのだ。それなりのプライドも満足させねばならないはず。

というわけで、私もあまりトシを気にせず、派手なものも着てみようかと思う。ただ、思うだけで、なかなか踏み切れないのは、いつもくすんだ色ばかりを着なれた者には、急に赤や黄色を着ても、相手を驚かすことは出来ても、「似合う」とは思えないからだ。
正直、『センス』から磨きなおさねばならない。……いや、歩き方、体型も……ということである。

と考えると、もう服装などより、気持ちや精神こそを若く保つことが大切と思うのだ。
気持ちだけでも、年齢不詳ということにしておこうか……。

2012年5月24日木曜日

集う

先日、我が家に仲良しの同級生が集まった。10人ほどだが、毎月ホテルに集まって食事会を兼ねて、おしゃべりをするのだが、ときには我が家に集まって来る。狭い家だが、1室だけ、広い部屋があるので、よく集会に使う。

皆さんは、「あんたの家は気易いけど、迷惑かけるからなあ」と言うのだが、迷惑そうな態度ではない。(笑)

事実、私も迷惑どころか、楽しみながら接待するので、客人も大きな顔で来てくださるのだ。

その日は、6月に開く『友の会』の相談だった。

昨年まで続いていた年1回の同窓会を、昨年一旦解散して、『友の会』として再出発した。入会希望者が、135名中、60名ほどである。この60名というのは、ほとんど今まで同窓会に出席していたお元気な方たちなのだ。

ただ、この年代のものは、明日倒れてもおかしくないトシなので、全員が揃うことは難しいだろう。

おかしなことに、仲間のほとんどがパソコンをされていない。教員の古手だが、時代が時代だったので、パソコンは手にしていないのだ。そんなわけで、同窓会の資料(名簿・近況報告のまとめ歌集など)をいつのころからか私がほとんど作ってきた。その製本やらの手伝いは、いつも仲良しが集まってきて、おしゃべりしながら手伝うのだ。

そうしたこともあって、私の手間を気の毒がって、皆さんが、簡単にやりましょう、ということで新しく再出発したので、手間は半減以下となつた。通知の往復はがきも、60枚ですむ。資料作りも簡素化したので、今年からは、枕を高くして『友の会』を迎えられるということなのだ。

私は、お節介者で、自分が「これはいい」と思ったことは、誰彼なしにお薦めするのだが、パソコンだけは、だれも乗ってこなかった。「機械に弱い」と言う。「弱くても大丈夫。私が出来るんだから、出来ない人はいない」と言うのだが、頭からする気がないらしい。

私は、車の運転免許を取ったことと、パソコンをいじくりだしたことは、私の世界をぐっと広げたと思っている。

だから、この二つは、皆さんにお薦めしてきたのだ。免許の方は、「貴女がとれるのなら」と、二人の方が取得なさったが、パソコンは、だれもついてこない。
今となっては、「今更このトシで」とおっしゃる。
「このトシだからやってみるのよ」と言ってきたのだが、もう私も勧めないことにした。「やれ、目が見えにくい」「腰が痛い」「足が冷える」「指の関節が痛む」などなど、集まるごとに増えてくる体調不良の訴えを聞いていると、(私だって、いつパソコンが出来なくなるやもしれぬ)と思うからだ。

老いに白旗を上げる日が迫りつつあるのだが、集いおしゃべりをすることは、ヘタな栄養剤より効果的だ。
元気でまた集まれることを願いながら、次回逢う日を約束して皆さんを見送った。

2012年5月23日水曜日

ある老夫婦


昨日は、『賞味期限』の話から、夫婦の話になりましたが、その続きのような話になるかもしれませんが、一方では、こんな夫婦もいることをご紹介しておきたいと思います。

以前、旅の途中、海の見える小高い公園で、車を止めました。十メートルほど先に、車が一台止まっていて、その横で、白髪の男性が、ぎこちなく体操をしている後ろ姿が目に入りました。他に人気がなかったので、車から降りるのをためらって、しばらく見ていますと、その男性は、一人ではありませんでした。だれかと重なって手を動かしていたのです。私は、車を降りて何気なく近寄ってみました。

一瞬目を疑ったのですが、それは、認知症らしい妻に、自分の手を添えて、体操をさせている姿でした。

「さあ次は手をあげて、ぶふらぶらぶらーー。上手上手。さ、次は手を十回叩くよ。はい、ぽんぽんぽん・・・」
女性は、されるがままに体を動かしています。

私は、ツーンと胸が突き上げられて、目の前が霞んでしまいました。声が出そうになったものですから、慌てて車に引き返しました。

体操が終わると、男性は妻を抱きかかえるようにして車に乗せました。男性のお顔が、私の目にした限り、とても優しく、たえず笑顔であったことが、更に胸中を熱くしました。

車が去った後も、私は味わった感激を、しばらく胸の中で転がせていました。

賞味期限切れと言われても、ドライフラワーといわれても、女はいつまでも愛と優しさに憧れています。こんな夫婦になれるのなら、私だって今からでも嫁に行きたい気分でした。

後日談……この話を同窓会でのおしゃべりの時にしまして冗談に、「あんなやさしい男はん見たら、今からでも嫁に行きたくなるわ』と言いましたら、『古女さんは、再婚の意思あり』と思われたのか、親切な方が10分くらいして、傍に来て、そっと、ヤモメのある同級生と、お付き合いしては?と、ご親切なお話をいただきました。
「死んだ旦那がすばらしい人だったので、それ以上の男はんがおらんのよ。お付き合いしたくてもできない。ふふふっ」と、煙に巻きましたが、長生きしていますと、面白いことが、多々ありますねえ。(笑)






2012年5月22日火曜日

賞味期限


【賞味期限】ということに、ひどく神経質になる方がいらっしゃる。ナマものだけでなく、総ての食品についている賞味期限を、目を皿のようにして睨み、一日たりとも過ぎたものはゴミ箱にポイ捨てだ。

私は反対に、賞味期限などはほとんど気にかけていない。とくに、『明日になると捨てられる運命』にある半額商品には、つい手がのびる。安いということもあるが、そんな商品が可哀想になることもあるのだ。 

こんなこともあった。バザーで、安いと思って買った箱入りの上等のお醤油が、いざ使おうと思ってラベルをのぞくと、二年前に賞味期限が切れている。ラベルには、製造会社名と電話番号が書かれてあったので、すぐ会社に、大丈夫か?とたずねたところ、「昔は十年も前のものでも、カビが浮いていても、使っていましたからねえ。規則なので書いてはありますが、ま、外にでも放置してあったなら別ですが、大丈夫と思いますがねえ」と言うお答えを頂いた。
思ったとおりだ。それにしてもいい加減な賞味期限である。

思い出してみると昔は、臭覚、味覚、視覚などを働かせて、「食べられる、食べられない」の判断は容易にしてきたものだ。いや、ちょっとオカシイと思っても、火を通したり、洗いなおして干したりと、工夫しながら、なるべく捨てることのないようにやっていた。
何年か前だが、日本の国の残飯で、世界の飢餓国民の半数以上が救えるということを、どこかで読んだ記憶がある。

そもそも美味しく食べられる期限などという、紛らわしい法律を作って、まだまだ食べられるものを捨てさせるように仕向けたのは、どこかの国の差しがねなのだろうか、などと勘繰りたくもなってくる。

こんなことを言うと、あるお方がおっしゃった。
「パンやソーセージは、賞味期限が過ぎれば捨てられるけど、私の旦那は、賞味期限がとうに切れてますが、捨てたりはしません。大事にしてますから、ま、モノによります」
と、けしからぬ発言、いやいや、ご立派なことをおっしゃる。

最近は、賞味期限切れの夫を、同じく似たり寄ったりの妻が、ポイと捨てることも多いらしい。こればかりは、同姓であっても捨てられたお方に同情してしまう。

中には、「どうして?なぜぼくが?」と理由も分からぬままに、慌てふためいていらっしゃる男性もいるらしい。

それに引き換え、老いた連れ合いを見捨てて離婚宣言をする男性は、よほどのお金持ち以外はあまり聞かない。

期限切れで捨てられるハム、退職と同時に離婚宣言される旦那様、どちらにも共通した哀れみが沸いてくる。いや、悲しみと言った方がいいかもしれない。らない。ハムよ、男はんよ、しっかりしなはれ!!と叫びたいのだが、こんなこと叫んだら、瞬く間に吊るし上げられそうで怖くて叫べない。

夫婦というものは、愛がないと、とてもやってられない、という気持ちも分からぬでもないのだが、愛なんて、育てるものだから、ま、愛が育たなかったということは、どちらにも非があったやもしれない。それにしても、老後の夫婦こそ、弱きを助けていくべきじゃないのだろうか……。


2012年5月21日月曜日

怒る


15日から3日間、旅行したことを書きましたが、その第一日目のことです。

そのホテルで会をしたのですが、集まっているのは、殆どが退職した女教員でした。いわゆるセンセの古手です。そして年寄りです。

会が終わったとき、宿泊する人達に、ホテルの方が、注意事項を3つおっしゃいました。

①館内を走らないでください。(走って怪我をする人もあるのかも。でも、走りたくても走れそうにない方ばかり)

②分からないことは、聞いてください。(これは言われなくてもそうしますよ)

③怒らないでください。(思わず笑いました。年寄りはすぐ怒るのでしょうか。日常、フロントで文句を言っているのは、大方年寄りなのかも知れません)

「怒り」というのは、愛情と一緒で、気持ちの中に、むらむらっと湧いてくる一つの感情ですから、人それぞれ違いがあります。
人間が怒る原因は色々ですが、多くの場合、自分が正しいと思っているので怒るのでしょう。

私は怒ることをあまりしない性格ですが、夫はよく腹を立てて怒りました。
理由は些細なこと。私は(そんなこと、どうでもいいじゃないの)と思うのですが、ご本人にとっては、我慢ならないらしいのです。
世間では、そういうような人を「気が短い」と言います。

私の夫は、自他ともに認める気の短い人でした。
そんな亭主と暮らしていますと、怒られる原因がないのに怒られることがよくありました。

例えば、夫の大きなゴミ箱のような書斎を「片付けるな」というので、私は辛抱して片付けずにおりますと、そのうち、決まって「あれがない、これがない」と騒ぎだし、私のせいにして「触るなと言っておいたのにどうして触ったのか」と、怒りだします。

もうこうなったら「触ってない」と言っても、通りません。「触らぬものが無くなるかっ!」と、怒鳴ります。こうなったら逃げるが勝ちです。太刀打ちできません。庭に出て、草でも引っこ抜くのです。力まかせに。(笑)

ただ、私が怒りたいようなことに出くわせた時、私がよう怒らずに我慢していると、変わりに怒ってくれます。

こんなこともありました。県内で、国体があったときです。TVでは、盛んに放映していました。それが終わって、すぐに身体障害者の国体があるのですが、そのときのことです。
障害児の教育に関わっていた私は、TVをつけてみたものの、何の放映もないのです。

夜、そのことを夫に告げますと、いきなり放送局に電話をして、理由を尋ね、その理由を聞くや否や、怒鳴りました。そして偉い人を出せ、と言うのですが、不在と聞くと、東京のNHKにまで電話をして謝らせました。(笑)

そんな夫も、平成7年、まるで暖簾でもくぐり抜けるように、あっけなく倒れました。64歳という、まだこれからの人生を楽しむのに十分の年月を残して逝ってしまいました。気の短い夫らしい最後でした。


2012年5月20日日曜日

時事放談


今日は5時起きして毎日TVの【時事放談】をみた。
出演は仙谷由人 民主党政調会長代行と武村正義 元内閣官房長官、 司会は御厨 貴さんである。

暑い夏が迫りつつある日本。今のところ、明るい話題は明後日のスカイツリータワーの公開と、明日の金環日蝕くらい。それに引き換え、暗いニュースはいくらでもあるのが現状。おまけに国内だけではなく、世界的にギリシャ問題は大震災並みの揺れが起こるやもしれぬので、政治家でなくても頭の痛い今日この頃である。

仙谷議員のおっしゃったことを要約したり踏まえたりして、後先になるが、書いておこう。

大飯原発の再稼働については、国民は神経質になっていて、反発も多いのだが、原発ゼロで、オール電力依存生活をしてきた私たちが、電力不足ということになると、トイレから携帯まで、総てが電気がなければ動かないので問題は大きい。

【大飯原発は、福島とは型が違い新しいこと、津波地震の心配も、日本海側は学問的には東南海地震に比べると、小さいし、今までも大災害はなかった。最大津波予測よりも9メートル高いところに対応していて、総ての処置が出来ており、ストレステストも出来ている。この夏に対応できるよう、早く立ち上げた方が関西方面の方々のためによいのではないか】

【また、石油火力発電も、古い発電所を無理して再稼働しているので、これをガンガンやると、壊れる可能性があり、これが壊れたら大変で、空気のように使ってきた電気だが、ひやひやの綱渡りのような毎日なのだ。
クリーンなエネルギーは理想であり、将来脱原発にしていかねばならないが、きちんとした計画的にしていく必要がある】

【一方、電気料金値上げにも反発があるが、10年前の石油は20ドルだったのが、今は107ドル。燃料費だけでも大変。働く人の賃金も20%カット。上層部の退職金も0だし、仕方ないのでは】

そして、動かぬ国会。野田総理が政治生命をかける消費増税の審議もいよいよスタート。しかし、あと一ヶ月しかない。このピンチをどう乗り越えるのか?

【問責というトゲを、政局を動かすための道具としてはいけない。そういうことをしても、あとは良くならない。野党は、もっと日本の国をどうするかということを踏まえて審議をするべきで、自民党も、中堅以上の議員は、理解があるはず。必要とあれば、大連立もありうる。】

【もともと小沢さんも、消費税については、自らも増税を口になさっていたので、話し合いは出来るはず】

【ギリシャの問題については、迷惑な話だが、よそごとではなく、ヨーロッパ全体に波及する問題であり、日本も何らかの影響を受ける。民主主義というのは難しい】

といったようなことだった。

私たちは、原発にしろ、消費税にしろ、専門家でないので、『よく解った』ということにはなかなかならないのだ。ある程度のことが分かることしかできないのが私たちである。皆がよく解るには10年たっても無理だろう。
何を、誰のことばを信じるか、ということになるのではなかろうか。

今日は、朝から町の一斉清掃だった。大したことしていないのだが、作業のあと、眠たくて昼寝をしてしまった。寝ぼけ頭で書いているので、間違いがあるかも。
お許しください。

2012年5月19日土曜日

旅のお土産

正直な胃腸の持ち主の私、3日間の旅行で、体重が1キロ太ってしまった。背が小さいのに52キロの体重は、足腰に悪い。第一身が重い。旅に出るとご馳走を食べるので無理ないのだが、そうかと言って心をこめて作ってくださる方のことを思うと残すのも気が引けるし、昭和一桁生まれは、「もったいない」ということが骨身にしみていて、出されたものはきれいに食べてしまうことが当たり前なのだ。

この旅のお土産、【Ⅰキロの脂】を元に戻すのは並大抵のことではない。おかしなもので、3日間で太ったけれど、1週間では戻らない。

旅行で太ったのは、まだましで何とかなるのだが、じりじりと半月もかかってⅠキロ太ったお正月明けの体重増は、今も身体の中に居座っていて、元にはもどっていない。だから、本当は、2キロの余分を何とかしたいと思っている。

どうしてこんなことを言うかというと、私の体調は、体重50キロのときが、一番快適なのだ。50キロという数値は、標準体重より太目なのだが、それくらいの方がいい。だから、体重の管理を心してやらねばといつも思う。思うばかりだが、それでも思わぬよりはいいはず。

1911年生まれの医師『日野原重明先生』の食事は、(去年出版された本によれば)1日1食で、あとは飲み物だけらしい。

朝はフルーツジュースにオリーブ油を15g加えたものを、ぐるぐるかき回して飲む。それと牛乳1杯に大豆から作ったレシチンの粉末を23匙入れたもの。それにコーヒー。
昼は牛乳1杯と、クッキー1個か2個。
きちんとした食事は夜だけだそうだ。

それでもあれだけの活動が出来るのだから、食事なんて、「やれ栄養だ、カロリーだ」と騒ぐこともないのかもしれない。

「それでお腹がすきませんか?」という質問がよくあるらしいが、その答えは、「仕事をしていると、空腹感がない。お腹がすくのは、集中していないから」だそうだ。

なるほど仕事に熱中すれば、『寝食を忘れて』も平気なんだ。「腹がへっては戦は出来ぬ」……という諺もあるんだけど……。

まあ、凡人は日野原先生のようなわけにはいかないので、控えめの食事を実行していこう。それでお腹がすいたら少し我慢してみよう。…なんて言う口の下から、お菓子の袋に手が伸びる私であります。






2012年5月18日金曜日

富士山

山梨で開かれる会合に誘われて出かけていました。貸切バスで15名ほどで行く気易い旅です。会は行った日の午後と翌日の午前。まる一日です。私など、行っても行かなくてもどうということなかったのですが、その後、山梨美術館、富士をぐるりと巡り、色々と観光をして帰ろうという計画なので、そちらに魅力があって、誘われるまま参加してきました。

だれでも富士山は大好きと思いますが、私は格別、富士山を見るのが好きで、見飽きることがありません。美しいものは、何の知識も説明も不要。ただただ感動するものです。写真や絵葉書では体験できない心の洗濯をしてきました。

私が初めて本物の富士山を見たのは、小学校の3年生の時でした。夏休みだったので、頭に雪を頂いた富士山ではなかったと思います。あまり記憶に残っていません。むしろ、銭湯で毎日のように見ていたタイルに描かれた富士山の方が、鮮明です。

その後、何度か新幹線でお目にかかったり、富士を見る目的で旅をしたりしてきたので、珍しいわけではありませんが、富士だけは、何度でも見に行きたいと思います。

旅の二日目、三日目は、観光日和で、富士も堪能出来ました。
仲良しと富士を眺めながら、「ああ、こんなところに住んでいる人は、羨ましい。このあたりに嫁に来たらよかった」と言ってしまって横をみますと、仲良しは数歩も離れて花を見つめています。その代わりに見知らぬお爺ちゃんが傍にいました。

そのお爺ちゃんは優しい人らしく、返事をしてくれました。「たまに見るから感激するだろなあ。毎日見てたらま、当たり前の景色やからなあ……」と。
私は慌てて「そんなものかもねえ。ほほほっ」と笑いますと、
「嫁はんといっしょやな。美人でもお多福でも、慣れたらどうってことないもんな。はははっ」
と言いながら、先に行きました。

こんなこと思い出しました。佐藤春夫が何かに書いています。『景色のいい所で住むことは、美人の妻と住んでいるようなもの』……いや、美人が先だったかな? どっちにしても、悪いことでありません。

(ついでに云っておきますと、『気のいい女と住むのは、間取りのいい家に住んでるようなもの』とか、書いてありました)

人間が作ったモノにも、美しく素晴らしいものは、たくさんあります。山梨美術館も、たくさんのミレーの作品、その他すばらしいものが多々ありました。でも、自然が教えてくれるものには敵いません。

長い年月を生きてきましたが、同じ日が無いように、同じ自分もありません。それと同じように、その都度変わってきた私が見る富士は、いつも新しい富士を見ています。

今回も、途方もなく大きな生命体としての地球、そして途方もなく小さな一粒の私を、富士は、一体化してくれたように思います。
一時ではありますが、『自分が一生を終わる』ことなど、些細なことと思えました。

いい旅をありがとうございました。