2012年4月30日月曜日

お別れ会

昨日は朝から夜まで家を空け、大坂に行ってきました。『湖心』という俳句の同人誌の仲間が十数名集まってのお別れ会です。ご指導を受けていた主宰のS先生のご都合もあって、残念ですがもう終わりとなったのです。

同人誌としては、会員が少ないのですが、腕利きの県外の方も加わっての同人誌なので、集まりやすい大坂に集まりました。ご都合で、2・3の方が不参加でしたが、遠くは千葉、熊野と、ほとんどの方が参加できました。お世話くださった方にはご迷惑をおかけしてしまいましたが、忘れられない会となり、喜んでいます。

誌上では、大先輩の皆さんですが、お会いすると、それぞれの個性が光り輝いていて、魅力ある方たち。おまけにとても気さくにお話が出来るという、すばらしい方の集まりなので、ヒョコの私も喜んで参加させていただきました。

私は俳句歴が短いので、皆さんの何気もないお話の一つ一つが身体に沁み込んでいくので気分は最高でした。
幾つになっても、知らないこと、納得のいくことをお聞きするのは、わくわくです。主義などといったらおこがましいのですが、「死ぬまで学びたい」主義なんです。(笑)
そのわりには、遅々として上達しないのは、もうすでに、俳句や詩を創るアンテナもセンスも錆が回っているというか、鈍感になったというか、これは致し方ないと思っています。

しかし、錆も心地よい鑢をかけると、ちっとは落ちるらしく、俳句のいろはの『い』が解ったような気になれて、何も知らなかったときと違って、頂く句集も自分流に、楽しく読むことが出来るようになりました。
あとは、俳句を楽しむ心境で、自分流で作る、あるいは読むことができればいいなあと思っています。

たまに大都会に出て行くと、温泉につかり過ぎて湯あたりしたように、人あたりして疲れてしまいます。こういうのを『田舎者』というのだろうなあ・・・なんて思いながら、それでも何とか迷子にもならずに帰還しました。いや、8人もの仲間と行ったのですから、迷子になりたくてもならしてはくれませんが。

私のように日常は田んぼの畦に足をとめ、蛙に話しかけたりしている者には、あの巨大なコンクリートの建物の中を押したり突かれたりしながら迷いもせずに四方八方に動きまわっている群れは、頭の体操しているのと同じじゃないかしら、と思っちゃいました。

たまには、都会の空気も吸わないと……の思いでした。刺激を受ける、ということは必要なこととは知っていても、長くは健康によくないことも実感できます。
昨日くらいがちょうどよいのか、今日は朝寝坊ができました。体調は悪くはありません。きっと、『人あたり』を上回る素敵な方たちとの出会いがあったからと思います。

2012年4月29日日曜日

住まいあれこれ

知人のHさんは、私と同年である。最近、住まいを変えられた。同じ市内で、新しく医院が建てられたケアハウスに、ご夫婦で入居するとのこと。
彼女は私と同様、庭続きに息子さん夫婦の居宅があるので、お元気なうちは、そこでずっと住まわれるのかと思っていたのだが、どうもそうはいかなくなったようだ。

大きな理由は、ご主人の目が悪くなられて、車の運転が出来なくなったことらしい。息子さん夫婦は、共働きで、いつも留守なので、三度の食事その他の買い物は、どうしても出て行かねばならない。近くには、昔のように何でも売っている便利なお店が無くなっているのだ。市内といっても、片田舎であり、車は必需品だった。
たまたま、引っ越し先は、大きなスーパーマーケットの近くのケアハウスなので、自炊しても、買い物は便利とのこと。

また、老夫婦そろって家の中ばかりの暮らしでは、刺激がなさ過ぎる、とおっしゃる。ケアハウスなら、ちょっとした社交の広場もあるし、皆で出かける機会もあるだろうし、新しい施設なので、これから入居者同士の仲間作りも出来やすいからと、明るい希望も持っていらっしゃる。
なかなか、ここまでの決断は大変だったと思う。Hさんご夫婦の前向きな行動力に、エールを送りたい。

ただ、全く心配がなくもない。
一軒屋の広い家に住みなれていた者が、ホテル並みの一室での生活は、慣れるまではちょっと息がつまりそうな気がしないでもない。夫婦それぞれが書斎をもっていた、というような場合はなおのこと。いくら夫婦といえども、24時間、相手の顔や背中が、視界におさまっているわけだから。……なんて思ったのだが、考えてみると、その心配はなさそうだ。広い我が家にときどき帰ったらいいのだ。家は、そのままにしてあるのだから。

昔よく、お父さん連中が、口にしていたぼやきに、「居場所がない」というのがあった。女は台所と居間が居場所。男は夜、仕事から帰ってきても、くつろぐ自分専用の部屋がない、ということである。
そのために、まっすぐ家に帰らず、居酒屋の暖簾をくぐっている、ということも言われていた。私のような年代の者は、当時の住宅事情を知っているだけに、さもありなむと思う。

最近は、お金をあまり持たない若い夫婦も、けっこう家を建てている。家賃程度の支払いで、家が建てられる、という事情があるようだ。親からの援助もあるやもしれない。
お父さんはもちろん、チビちゃんたちまでもが、個室を与えられている時代だ。それがいいか、悪いかは別として……。

そして親たちは、老後の生活を、施設に求めなければならないことも起こり得る。
理想的と言われてきた、「スープの冷めない距離」に親子が住んでいても、施設にお世話になる可能性は、ないとはいえないようだ。

2012年4月28日土曜日

小沢事件の判決

ややこしい問題に、ややこしい判決がくだされたようです。
この問題は、虚偽記載という、枝葉末端のような、私らには、どうでもええようなことだけを取り上げていて、しきりに論じられていた、という印象であり、大事なことが置き去りにされたまま、という印象で、さっばりしません。

判決結果については、世論も大きく分かれていますし、今更私めが何を申し上げても、目新しいことは何も思いうかびません。

ただ、小沢さんがおっしゃるように、清廉潔白であるのに、罪を故意に作って、まな板の上に載せられたとしたら、これは、大きな問題と思うし、あってはならぬことと思います。

反対に、幾つもある犯罪の中のたった一つの事実を取り上げて、しかも黒であるのに、無罪判決を出さざるを得なかった、というような裁判であれば、これまた許せません。
どちらの言い分も、神のみぞ知る、で、私らには分かりません。

世間はいろいろと申しております。例えば、こうすう見方もあるのですね。(民主党大嫌いな男性のブログより)

『小沢は「秘書に全てを任せていた」「私は知らない」「聞いたこともない」などの嘘八百をならべて逃げ切ってしまった。地裁は秘書の報告・了承を認めながら共謀の証拠がないという一点だけで無罪を言い渡しました。
小沢一郎という極悪人を取り逃がしてしまった最大の責任は東京地検です。小沢の秘書である石川被告は第一回の取り調べで小沢との共謀を認めていたにもかかわらず再聴取のとき石川被告は密かに隠しマイクで録音していたのです。
地検の取り調べのパターンは「自白をいかに誘導させるか」ということに力点が置かれた取り調べをします。この録音されたテープを聞けば誰でも100%「検事が誘導や脅迫」によるものと感じてしまいます。
ということは誰か石川被告を指導した人物がいます。それも検事のやり口を熟知している人物ということになります。つまり地検内部に小沢の息のかかった人物がいるということです。この録音が小沢氏を被告とする裁判で再生された為に小沢氏との共謀を認めていた石川の調書は全て「検事が威迫と利益誘導を織り交ぜて署名させたもので任意性がない」との決定をくだされ証拠採用が却下されてしまいました。
逆に石川被告が検事の質問を「誘導や脅迫」されているように仕向けたのですか?石川被告にそのような度胸や頭脳があるようには見えない。ということは再聴取をした検事も小沢の息がかかっていたとしか考えられない』 略

また、小沢支持者のこんな意見もありました。

『小沢は、この国の権力側に陥れられた。こんな犯罪は、叩けばどこにでもある。この国の権力側が、国策起訴を自分で否定してまでも無罪判決を下したのは、最高裁の犯罪疑惑が、これ以上追及されることを恐れたからであろう。』略

この問題、それぞれが各自の常識で判断するしかなさそうです。



2012年4月27日金曜日

父の思い出

昨日は、父の命日だったので、妹たちとお墓参りに行ってきた。86歳で旅立ったが、早いもので今年は22回忌になる。

父の思い出で一番強烈なのは母を見送ったときのことである。
父は、入院した母の看病を、7年間もの間、病院に寝泊まりしてやり通した。
晩年の母は、病気に重ねて視力がなくなり、おまけに認知症にもなったものだから、父の苦労は大変なものだった。私たち子供らが、交代で看病をすると言っても、「お前らには無理じゃ」と言って看病をさせてはくれなかった。
無理に家に帰らせても、夕方には病院に帰ってきて、母に「すまんかったのう」と謝るしまつ。

そんな父が、母の死を冷静に受け止めていたと思えたのは、泣いている私らに、慰めのことばをかけてくれたりしたからだ。
私も、母の死は悲しかったが、父の身体のことを考えると、これ以上のことはのぞめないという気持ちだった。母は幸せに逝ったのだから……と諦めた。

そんな父が、母の遺体を家に連れて帰るなり、くずれこむように倒れ込んでしまい、周囲を慌てさせた。そして、母と並んで床に着き、布団を被り泣きだしたのだ。

お葬式の日、遺体を祭壇のところへ運ぼうとしたとき、父は、起き上がることもできずに、身を震わせながら、「半紙と筆をもってきてくれ」と言う。
そして震える手で母に別れの手紙を書き出した。

婆さん、長い間世話になったのう。ありがとう。こんな大事な時に、葬式にも出てやれん。すまんことだ。こうして寝ていても、お前が、爺ちゃん爺ちゃんと呼ぶ声が聞こえてきて辛うてたまらん。一人で遠い所に行かんならんと思うて、心細い思いをしとるのだろうが、わしの代わりに阿弥陀さんが迎えに来てくれとるけん、心配いらん。必ずお前を極楽浄土に連れて行ってくれるけんのう。そしたらもう目もよう見えるようになり、病気も治る。心配ない。わしがそちらへ行くまで待っててくれ。
南無阿弥陀仏  婆へ  爺より

やっとこれだけのことを泣きながら書いた父は、「これ、婆さんに握らせてやってくれ」と言って布団に顔を埋めた。
目の見えない母に、私は声を出して読んで聞かせ、母の手に握らせた。

それから一年後、父は母のところに逝った。
私は、父がしたように、納棺される父に手紙を書いてあげたいと思ったのだが、書けなかった。「お父さんの手紙にはかなわないや。だから書かないよ」と父の耳元で囁いた。

この話は、あちこちに何度か書いたことがあるのだが、父のことを書きだすと、何度でも書きたくなってしまう思い出である。


2012年4月26日木曜日

オリンピックの輪

オリンピックも開催まで100日を切ったので、だんだんと賑わしくなってくるようだ。
自分がスポーツと縁がないためか、あまりスポーツには興味がないのだが、それでもオリンピックで金だの銀だのという競技は、応援もしたくなる。ま、そんな程度の関心なので、東京オリンピックのときのことも、あまり記憶にない。むしろ、当時小学校に通っていた息子のことを思い出す。

息子が、真面目な顔で「オリンピックの輪は、どうして5つしかないの?」と言う。おや、こんなことに興味を持つようになったのかと、親は口元を緩めて易しく説明した。
「ふうーん」とか何とか言ってあっさりと外に遊びに飛び出して行った。

それから10日ほどたった日曜日、私は、我が子の運動会を見に行った。
いよいよ息子の出番である。私の席の前方に、色テープでまいた竹の輪が5つ並べてある。ピストルの合図で飛び出した子は8人。我先に輪を掴み取ると、輪の中に足をいれて身体をくぐらせる。
中には、ひとの掴んでいる輪に、素早く足をいれてしまう子もいる。せっかく掴んだ輪をむざむざ取り上げられた子は、じっと突っ立ったままその子が抜けてしまうのを待つしかない。輪は5つしかないのだから、どうしたって3人は、人様の抜け殻である。

ぐっと引き離された3人だが、それでも最後まで力いっぱい走って、ゴール前では、餅になって転がると言うサービスまでして皆の笑いと拍手をあびていた。

お恥ずかしいことだが、私は胸の奥がポンプみたいになって、熱いものが涙といっしょになって湧いてきた。
そして、輪を横取りされたのが、もし、我が子でなかったら、「オリンピックの輪が、なぜ5つしかないのか」と質問した息子の本当の意図を知らずじまいだったろう。

その前の年だったか、私は仕事があって見にいけなかったのだが、義母が幼稚園の運動会を見て、悔しがったことがあった。走って行って動物のお面を拾ってそれを被り、その動物の真似をしてゴールまで走る競技であったらしい。足の速い子は、馬だの兎だのを拾い、遅れた息子は、残っている蟹の面を拾って、横ばいに四つん這いになってゴールにたどりついたそうだ。むろんピリだった。

義母が、「まあ、ご丁寧に両手をついての横ばいじゃ。ちょっと横向いて走ったらええものを……」と言うと、息子は、「かんまんもん。ビリでも一番上手に蟹さんが出来たって、先生がほめてくれたもん」と、ピリの屈辱よりも、先生に褒められたことを名誉に思っていたので、堂々としていた。

「学校は、もっと気をつかって、お面は袋に入れて、見えないようにするべきで、こんど先生に言うたらええ」なんて、憤慨していたのだが、「ほんなん、言うたらいかん。先生はなんや悪うない!」と息子がどなったので、文句はわが家の中でおさまった。(笑)

お面もオリンピックの輪も、足の遅い子が損をするという点では、よく似た競技である。義母が苦言を言ったときは、「何も子供の遊びにそこまで……という思いがあったのだが、自分がこの目でしかと見てしまうと、義母の言い分も分かるのだが……。

山田太一氏の随筆に「雨の運動会」というのがある。
『面白くも何でもなかった運動会が、雨になって、雨の中を転びながら走ったリレースが素晴らしく感動した。そして、不運にも転んで引き離された子どもの方が、難なく走った子どもよりも、強く印象に残っているに違いない。見ている方も……』
といったようなことを書いていた。まったくその通りだ。涙をぬぐいながら見た運動会をそうやすやすとは忘れられない。

2012年4月25日水曜日

先送りの罪の2

ジャーナリストの池上彰さんが、緊急出版された『先送りできない日本』という新書本に、こんなたとえ話を引用していました。

『蛙を熱い湯の中に入れると、ビックリして飛び出しますから、蛙は助かります。ところが、冷たい水をいれて、少しずつ加熱しますと、気づかないうちに熱い湯になっていて、逃げそこねたゆで蛙ができあがってしまいます。「このまま焚き続けたらゆだっちゃうぞ。そろそろお風呂を出なくちゃ。でもまだ大丈夫。まだ平気、もうちょっとだけ」……そうやって日本を借金王国にしてしまったのは、政治家のせい? それとも国民にも責任があるのでしょうか。
一刻も早く風呂から出ないと、日本は、自力で風呂から出る力を失ってしまいます。』と、警告しております。

よく理解できる話です。ゆで蛙になる前に飛び出さなくっちゃあ。



2012年4月24日火曜日

先送りの罪

「何とかなる」 という言葉をよく使うのだが、こと、ここにいたっては、「何とかなる」ではなく、「どうにもならない」となってしまったようだ。
日本の国のことだ。

私は国の経済のことも政治のことも、よくは知らないくせに、聞き齧りや読み齧りで偉そうなことを言ったり書いたりしてきたのだが、それでも、偏ってはいけないと思うので、反対意見も聞くことになる。
反対意見にも、納得いくものもあれば、納得いかぬものもあって、その辺が難しいところである。

「増税より先に、無駄を省く」などと、簡単に言う議員もいる。無駄を省くなどといったところで、どれだけのお金が捻出できるのか。必要なだけは無論のこと、言うほど出てこないことは、議員なれば分かっているはず。

公務員の給料を減らし数を減らすことは、よくやっていることだが、これだつて限界があるはずだ。無理をすれば、国の仕事をする人財の質を落とし、過労死を増やすことにもなりかねないと思う。
どこの何を減らすかの具体性がない場合も多い。掴みどころがない。

また、日本の借金である国債は、ほとんどが国民のお金を借りているのだから、心配ない、と、今も言い続けている方もいらっしゃる。お札を印刷することを控え過ぎているから、いつまでもデフレ脱却ができないともいう。
かなり研究なさっていて、その方の節も一応なるほどと思うのだ。

しかし一方、増税やむなし、借金は限界という説は、それ以上に私は納得できる。今までは国民の借金でやってこられたが、もう、国民が貸せるお金も減ってきた。国民の貯金のうち、新しく出せる残高はわずか100兆円しかないという。身うちの財布の底がみえてきたということだ。過去2年間の新しい借金は90兆円近いのだから、この上震災復興国債が増えたらどうなるのか。
その上、貯蓄率というのが、急激に低下しつつあるらしい。それは、団塊世代が現役を引退し始めたので、無職の世帯が増えて、預金を切り崩し始めたらしい。
預金が減ると、銀行も国債など買えなくなる。外国に借金ということになるのだろう。
税を納める労働力も減少し、世界も日本の先行きを疑問視しはじめている。

思うに、高齢化や少子化は、前々から分かっていたことなので、切羽つまったからと言って、消費税値上げと言っても間に合わないのだが、(消費税10%でも、焼け石に水らしい)今まで借金返済を先送りしてきたのは、一体だれが悪いのだろうか。

ちなみに消費税は、イギリス20%、ドイツ19% フランス19.6% そしてスエーデン、ノルウエイ、デンマーク25%である。これらの国は、政治家や国民が、将来を見極めて、現実から逃げずに勇気をもって、早くから皆に呼びかけた結果であろう。

日本はどうか。近い話、菅内閣が2010年、参議院選挙を目前にして、「消費税引き上げの可能性」を口にしただけで、民主党はずっこけた。「消費税増税を口にしたら、当選出来ない」のムードは、ますます濃くなっている。

これは、国民一人ひとりの考え方が、政治を動かしている、ということではないのか。
今頃、消費税反対などという議員の多くは、自分の身を守ることしか考えていないと私は思っている。
延ばせば延ばすほど、大きな負担となって返ってくると思う。子や孫を苦しめる前に、我々が、少しでも負担を担うべきではなかろうか。

議員さんたちにお願いします。勇気を出して、この現状を訴えてください。全員がそれを唱えたら、国民は、どうしようもありません。消費税云々は、完全に選挙戦の道具から外されます。


2012年4月23日月曜日

モーツアルト

音楽の才能が全くない私だが、騒音音楽以外は、クラシックもポピュラーも、聞いている分には何の差しさわりもなく気持ちよく聞ける。

パソコンの中ですが、以前ある方が書かれていることをここに一部を移して見ます。

『モーツアルトをえがいた映画(アマデウス)の中では、ある日お隣の奥さんが、彼に苦情を言い立てる場面がありました。ヒステリックな甲高い声で際限もなく続くお隣さんの苦情。モーツァルトはその甲高い苦情を聞きつつそこから得られるインスピレーションで、オペラの曲をイメージし曲作りをします。
また、このモーツァルトの妻コンスタンツェは悪妻として知られています。
1791年の夏の終わり、ウイーンのモーツァルトの家に背の高い痩せた男が、書名のない手紙を持って訪れ、『あなたの音楽の愛好家からの依頼』だといってレクイエム (死者のための鎮魂ミサ曲) を依頼されます。依頼者の名前は明かされないまま、『おやりなさい』というコンスタンツェの勧めで彼はこのレクイエムを手がけます。
生前殆ど才能を認められず、貧乏と病気に悩まされ、過労に喘いでいたモーツァルトは、時々催促に来るこの痩せた男に気味の悪い幻想を抱き始め、あの男は死の使いなのではないかと思い始めます。
そして彼の予感は的中し、レクイエムを完成するより早くこの世を去ります。
妻のコンスタンツェは浪費家だったようで、そのため、まだ評価が定まらず窮乏生活を強いられたモーツァルトの過労を招き、過労と過作がモーツァルトの死を早めたといわれています。
しかも、彼女のおかげで、モーツァルトは遺骨すら行方不明のままだそうです。
当時貧乏のどん底だつたので、ろくな葬式も出せず共同墓地に埋められました。病弱を理由に、妻として埋葬にも立ち会わなかったらしく、このために後にモーツァルトが有名になっても、遺骨を見分けることが、出来なかったらしく、ウイーンにある彼の二つの墓はどれも空墓だそうです。
あの有名な画家の東山魁夷さんは『モーツァルトの曲を聴いていると絵の構想が生まれてくる』と語ったそうです。
早死にした割に後世に残した作品の多さは、コンスタンツェの悪妻のお蔭だったのかもしれません。モーツァルトがもっと長生きをしていたら後生の評価はどうなっていたのでしょう。興味のあるところです』

略しましたが、大体、以上のようなことが書かれていました。
モーツアルトの作品を聞くことはあっても、悪妻のために早死にし、墓まで空っぽとは知りませんでした。

私からみたら、一流の芸術家は、全て天才なんですが、中でも、モーツァルトは天才中の天才と思っていましたが、そんな苦労もあったのですね。
思うのですが、音の芸術や、色の芸術は、音や色そのものには、固定した意味というか実用的な意味を持っていません。

それにひきかえ、言葉の芸術文芸は、ひとつひとつ実用的意味をもつことばでつくられるものなので、文芸は平易なジャンルという感じです。
これが、多くの人たちを文芸に走らせているのでしょうか。
俳句の世界などの裾野の広さなどを考えると、音楽や絵画どころではないでしょう。
でも、本当は、そんな安易なものでないのでしょうが・・・。

2012年4月22日日曜日

とくしまマラソン

風雨の音で、目が覚めた。4時前だった。今日はとくしまマラソンの日、これじゃあダメだな、と思いつつ、再び眠ろうと思ったのだが、ても、年寄りはそれが難しい。こんな中途半端な時間でも、トイレに立ち、水を飲んだりしていると、すっかり眠気が覚める。

こんな時は、枕元のスタンドをタイマーにして、本を読むことにしている。大抵、半時間もしないうちにメガネをかけたまま、眠ってしまう。

目が覚めたのは6時半。まだ風雨の音が聞こえてくる。てっきりマラソンは中止していると思っていた。
朝食の用意をし、洗濯をし、国会討論を聞き終わったとき、注文してあった宅配便が届いた。配達してくれた方が、「お天気悪いのに、マラソン大変やなあ」と。えっ? 決行しているの?」 「そうらしいよ」

そうだったのか。全国から集まってくる祭典で、少々のお天気の具合では、中止する方が難しいのだろう。それにしても、参加する方、ボランティアの方たち、大変と思うが、どうか頑張っていただきたい。この台風並みのお天気では、参加できない方も出てくると思うと、お気の毒なことだ。何とか皆さんが走り終わるまでは、風雨がこれ以上強くならないことを祈っている。

このマラソン、私の友人知人が、何人も参加している。Mさんは、まだ30代のピチピチ女性。毎日10kは走り込んでいて、いつもいい記録を作っている。今回も、4時間を切ることが目標と思うのだが、このお天気では、無理かも……。どうか、無理をしすぎないように、怪我をしないようにね。Kさん、いくら体力に自信があっても、お年を考えてね。Nさん、練習不足と言っていたけど、体調、よろしいか? 昨年の仇討しようなんて、無理はいけませんよ。Hさん、鍛えこんでいらっしゃるから、きっと最後まで好調子で走られるんでしょうねえ。

スポーツには全くご縁のない私だが、こうした競技に打ち込んでおられる方たちには、とても感心させられる。何でも一生懸命になることって素晴らしい。

今から、TVでみれそうだ。現場の応援にはよう行けないが、健闘を祈りつつ、TV放送をみることにしよう。

2012年4月21日土曜日

夏みかんの季節

車で5分も走ると、新鮮な野菜が安く手に入る地元の農産市がある。
今朝も覗いてみたら、もう、八朔が終わりになったのか、甘夏みかんが出回っている。私はよく見かけるみかん類の中では、甘夏が一番美味しいと思う。八朔より果汁が多くて『みかんを食べた』、という満足な気分になれる。

そんなわけで、昔、甘夏の苗木を2本植えたのだが、実が生り出すと、甘夏は1本で、あとの1本は八朔だった。本職が間違うくらいだから、素人目には、見分けがつかない。それにしても何となく騙されたような、損をしたような気持ちだった。

この季節になると、忘れられない思い出がある。今でいう特別支援学級というのだろうか、当時は、特殊学級といって、一般学級では学力がついていけない子供を集めた学級を担任していた。

「さようなら」と教室を出て行くK子が私の所に引き返して来た。そして二人は、こんな会話をした。
「先生、夏みかんすき?」 「大好きよ」「ほな、明日、持ってきたげるけんな。うちになってるんよ」「そうなの。ありがとう。あ、重たいけん、一つでいいよ」「うん。二つ持てる」「楽しみにしてるわね」

翌日の朝、教室に行ってみて驚いた。A子が腕白なB介に胸ぐらを掴まれて泣かされているではないか。机の下に、夏みかんが二個転がっている。周りには、4・5人が取り囲んで成り行きを見守っている。

私を見つけた周りの子が口々に経過を言ってくれるのだが、よく解らない。どうも、B介が先に手を出して叩いたらしい。私はぐっと睨みをきかしてB介の腕を掴んだ。
「どうしたの?訳を言ってごらん?」 私のことばは、訳を聞く前から、B介を悪者と決めつけていたのだろう。B介は、ぐっと私を睨みながら、私の手を振りちぎるやいなや、泣きだした。泣きながら、「こいつが悪いんじゃ。こいつが、ぼくの言う事、きかんけん、わしが怒ったんじゃ。こいつが悪いんじゃ」

するとK子も負けてはいなかった。「センセに夏みかんやるって言ったら、センセに夏みかん食わせたらいかん。持って帰れ言うけん、イヤって言ったら叩いた。アーンアーン」
ありゃありゃ、A子、こんな大きな声出したの聞いたことない。
更に大きな声で泣きだした。

今度はB介が怒鳴る番だろう。さあこい。
「センセに夏みかん食わしたらいかん言うのに、お前、言う聞かんけんじゃ。知らんのか。お前、古女センセが、嫌いなんか! 夏みかん食うたら、センセ学校休むでないか。みかん食うたら子ができて、学校休むんぞ。それでもええんか。うちの婆ちゃんが、言うとったんぞ。『かあちゃん、みかん食いよる。子ができるな』って。ほんまに子ができたんぞ。それでも先生に食わす気かっ」

一瞬、時間が止まったような、不思議な時間だった。エビのように身体を曲げて笑いたいし、二人を抱きしめて泣きたいし、『お前、それでも先生か』とブン殴られたみたいだし……。

気がつくと、私はA子とB介を両腕に抱え込んで天井を睨んでいた。笑いと涙を絶えようとして……。




2012年4月20日金曜日

読書

本棚からはみ出していたた文庫本が、掃除をしている私の足の上に落ちて来た。手に取ってみると、岩波新書で斎藤孝著「読書力」という本。もう10年も前に出された本だが、ぱらぱらとめくってみると、やたら鉛筆でラインを引いている。


ラインを引くのは、私の読書法の一つで、よくやってきたことなのだが、最近は、あまりやっていない。理由は簡単で、本を整理するときのことを考えてのことで、人さまに差し上げるにしても古本屋に持っていくにしても、ラインなどないほうがいいと思ったからだ。
それに恥ずかしい。ラインの引き方では、本を読む力がはっきりと表に出てくる。その線の引き方で、その人の理解度がわかる。さほど大切でもないところに線を引かれていたら、その人の読書力はたいしたことない、というようなことになるのだから。

斎藤孝という名は、本屋の棚ではよく見かけるので、ご存じの方も多いと思うが、今も変わっていなければ、明治大学の文学部教授である。
この著書に書いてあるのだが、学生に、「大学生は、大量の本を読むことが仕事であり基本」と言うと、「本を読むことを強制しないでほしい。本を読む、読まないは自由だ」と反発した学生がいたらしい。

以前は、「なぜ読書しなければいけないの?」なんていう質問に答える必要はなかったが、今は、そんな問いにも答えなければならない時代だそうだ。
明大?にしてそんな質問?という思いだったが、考えてみれば、我が息子も文学部じゃなかったが、そんなに多くの本は読んでいたようには思えない。

たしかに今の若者は、読書離れをしている。高校教育が悪いのでは?と思うことがある。読書は、大学生になるまでに、読書好きになっていていなければ、急にはたくさんの本を読むことは無理だろう。
自分の孫を見ていても、読書が足りないと思った。

孫は高校三年生の時に、明日までに人権問題についての作文を書いてこい、との宿題が出された時、書けなくて困っていたのを思い出す。
作文を書くことはほとんどなかったらしい。たまにあったらしいが、仲良しが作文好きだったので、書いてくれたというではないか。驚いて聞き直すと、相手は習字が苦手だったので、宿題の習字を書いてあげたそうな。そのお礼に作文を書いてくれたらしい。なんということだ。

ちなみに、習字は、同じものを2枚書いて出したところ、相手の方は、賞?にはいって自分のは、入らなかったので、友達はとても気の毒がっていたらしい。(笑)
ま、自分のが賞に入るよりよかったと言っていたが、先生は、そんなからくりは見抜けなかったようだ。

話が脱線したが、高校教育は、受験のための予備校みたいなところがあって、自己形成だの情操教育だのは日蔭においこまれているのが現状のようだ。

読書家ではない私が、こんなことを言えた義理じゃないのだが、若い学生には、読書という教育だけは、ぜひやってもらいたいし、やらなければいけないと思う。読書は、知性教養、その他自己形成に大いに役立つと思うからだ。

(私が読書家の足元にも立てない証拠に、斎藤孝推薦の文庫系100冊、新書系50冊のほとんどが読めていない。今となれば、読書力は落ちて行くばかりである)


2012年4月19日木曜日

凡夫のこころ

これは、あるお寺(鳥取県東伯郡三朝町三徳山三仏寺)の掲示板に書かれている法話とか。面白いので載せておきます。

『凡夫のこころ』

気づいてみれば恥ずかしい  知恵も力もないくせに
己が力で何もかも  出来るやれると思い込み
生きているのも我が力  食うているのも我が力
誰の世話にもならんぞと  力む我が身の身体さえ
生まれた時から死ぬるまで  人のお世話になりどうし
吐く息吸う息みな空気  水一滴もみ仏の
恵みなければ得られない  おかげを知らず愚痴小言
我が身勝手を棚に上げ  人の落ち度のあらさがし
よその秘密を聞きたがり  言うなと言えば言いたがる
人が困ればうれしがり  友の成功ねたましい
少しのことを恩にきせ  受けたご恩は忘れがち
見よと言われりゃ見たがらず  見るなといえば尚見たい
するなと言えばしたくなり  せよと言われりゃいやになる
天の邪鬼ではないけれど  素直になれば敗けたよに
思う心のひねくれを  どうすることも出来ぬ我
あぁはずかしや我が心  地獄行きとは我がことよ
それを地獄にやるまいと  四十八願 手を広げ
救わにゃおかぬご誓願  弥陀のご恩の尊さを
知らせたまえる祖師知識  あぁありがたや南無阿弥陀仏

2012年4月18日水曜日

原発問題

先日、徳島で行われた高井美穂文部科学副大臣の「あたたかい社会をつくる集い」に、枝野経済産業相、仙谷政調会長代行が来られて公演をなさったことが、大きく新聞、TVで取り上げられていた。今、最も国民の関心のある原発問題にふれられたからだ。

枝野さんが、昨年のあの東京電力福島原発事故の折、ひっきりなしにTVに出られて、説明されていたのを今も思い出すのだが、そのとき、枝野さん、仙谷さんは、「脱原発は、どうしてもやらなければならない課題」と心に誓われたそうだ。それだけに、色々と勉強され、研究されておられる。

市民の多くは、原発の恐ろしさばかりを口にし、明日からでも原発ゼロを叫ぶのだが、お二人の講演からは、今、原発ゼロになった場合の恐ろしさも何となく分かってきた。
私たちが、エアコンを止めて、夏の暑さを辛抱すればすむことではなさそうだ。
昨年の節電でも、中小企業は生産の減少で、人員削減、解雇で失業者を出しているのだから、社会的にも、問題はあるだろうし、私たちでは将来のことも、どうなるのか分からない。

原発がなくても大丈夫とおっしゃっている学者さんの説が本当に実現出来るとしたら、簡単なことなのだが、そうしたことが、簡単にはできないがために、再稼働の必要を訴えているのだろう。火力水力風力発電が、どれほど電気代が高くつくのか、いつ、それらの電力が行きわたるのか、私たちは知らされていない。机上の空論を押しつけられても我々は信じがたい。
いろいろな説が飛び交う中、説明を聞いても、その説がどこまで真実であるのかも私の知識では分からないことが多い。

結局は、自分の信じる方たちの考えておられることを信じるしかないのではなかろうか。

枝野さんは、「半年や一年、原発がゼロになっても、また原発に依存するようなことではしかたがない。安全性を徹底的に検証しつつ、社会に不安と混乱を招かないプロセスで、現実的に着実に原発を減らしていく」とおっしゃる。このことばを信じるしかない。と、私は思った。
仙谷さんは、「脱原発依存を、どれほどの期間に行うのか、どのようにすれば実現するか、理想や理念は持っている。ただ、その間、深刻な電力不足を起こすことは、あまりにも大きな問題が多すぎる」とおっしゃる。

お二人とも、いつあるかも分からない選挙戦を前に、嫌われても言うべきことは言う、という姿勢である。多くの人達に、理解していただける資料もそろえて、特に安全性の検証をしっかりとお願いしたいと思うものである。

来月5日には、北海道の原発も定期検査でストップするらしい。これで全原発が停止というから、大飯原発稼働は間に合わないと発言された。まだ真夏には時間があるが、どのような状況であれ、つつがなきことを願っている。

2012年4月17日火曜日

春のブラウス

ある大型店舗の衣料品店ウインドー前に立ち止まった。あれ、いいなあ……と思うブラウスが、マネキン人形に着せられている。

まだぐずぐずと居残っている冷たい春を追い立ててくれるようなブラウスだ。
そろそろ暖かくなるのだが、さて今年の春着は去年のままでいいかしら、と思っていた矢先のことなので近寄って行った。

何しろ、バストだけは肉体女優なみ。背丈に手足の長さは今や小学生なみという私だ。たかがブラウス1枚に、やれ袖丈を詰めろ、やれ着丈が長すぎる、胸幅がどうのこうのというのも面倒なものだから、寸も柄もぴったりということになると、半日仕事である。

私のようなあまり格好のよくない婆さん体型は、箒で掃いて捨てるほどいる、と思うのだが、いざ探してみると、帯に短し襷に長しで、数に限られてしまうから、不思議である。

「これなら、少々お代を払って手直ししてもいいかな」
そのときはそう思った。といっても、決め手は財布である。給料もボーナスもご縁のない〝年金ひぐらし〟の身であるから、ブラウス1枚といえども、身分不相応な代物には迂闊に手を出すわけにはいかない。

更に距離を詰めてそっと値札を覗き込んだ。やはり値札は裏返しになっていた。
故意にそうしてあるのだろう。ウインドーの中の服は、高価なものが多くて、大抵は値札が裏返してある。
私は単細胞なので、裏返った値札を見ると、「高価なんだな」と想像してしまう。
値を見て引き返す客を引き留めるための裏返し、と思っているからだ。

本来なら、店の中に入って「あのブラウス、ちょっと見せてくださいますか?」と、手にとって見せてもらえばいいのだが、私はそそくさとその前を立ち去ってしまった。万一、店内に入って、店員さんが、マネキンからブラウスを外して着せられたり勧められたりしたら、そのまま踵を返して帰る勇気がなく、気に染まぬものでも買ってしまうことになるので、君子危うきに近寄らず、ということになる。

今年の春は、ブラウスの一枚も買わずに終わるかな? ちょっと淋しい気もする。「お洒落を忘れちゃいけないよ」そんな声が耳元で囁く。
ひょっとして、また、覗きに行くかもしれないなあ……。(笑)

2012年4月16日月曜日

腕時計

腕時計を持たなくなって久しい。正確に言うと、退職してからだから、20数年になる。
腕時計なくしては商売にならなかったためか、退職したとたんに、腕に巻きつけている時計がわずらわしくなつた。何しろバンドがきつくても緩くてもいけないし、夏は汗で皮バンドなど、へんな匂いがしてくるし、バンドの当たる皮膚が痒くなったりもする。皮膚の弱いタチなのだ。(厚いのは面の皮だけと言いたいのだが、その面の皮までも、化粧品に負けたりするのだ)、

外してみると、特別に不便も感じない。外出しても至る所に時計があるものだから、不自由をしないのだ。
今ならば、携帯電話を持ち歩いているが、当時はそんなものもなかった。でも慣れたらどうということもなかった。

私の家には、お金はないが、時計と名のつくものはどっさりある。右を見れば壁掛け時計、左を見れば置時計、狭い部屋、どこを見ていても、時間は分かる。TVを付ければイヤでも時間は目に入る。

家の中にいつもいらっしゃる知人が、「癖になっているので、腕時計は外せない」と笑っていたが、そうしたいお方は家ででもお風呂ででも、していたらいいことである。

こういう私も、「腕時計」には、忘れられない悔しさがある。
腕時計を始めて買ってもらえるのは、小学校を卒業して女学校に入る時だった。
近所に時計屋さんがあって、ウインドウに、たくさんの腕時計が飾られている。そこへちょくちょく覗きに行って、買ってもらう時計を探っていた。こういうのは、実に楽しかった。

ところがである。女学校の合格発表の日、時計を買ってほしいと言うと、母が、「お父さんがこれを使いなさいと……」といって引き出しからおもむろに出してきたのは、女学生が使うには、どう見ても不似合いな時計だった。それは、あとで分かったのだが、家の前に落ちていたもので、当時の玄人さんといわれていた女の人の持つような、細長い小判型のハイカラなものだった。

ああ、何と言うことか。せっかく見付けてあった可愛いバンドのついた丸い時計は、もう買ってはもらえないのだ。

当時の家庭事情は、時計一つ買えない事情ではないにもかかわらず、拾った時計を与えられたのだから、何とも恨めしかった。
心の中で「ケチ!」と叫んでも、親に面と向かっては言えない時代だった。
その時計の見づらいことが、また不満だった。形が変形なので、装飾品にはいいが、実用的ではない。学校では自分の時計をみるより、友達に時間を訪ねることが多かった。その時計が半年ほどで動かなくなったときの嬉しかったこと、今も忘れていない。


2012年4月15日日曜日

お金の使い道

今日もお金の話になります。()
ちょっと昔、きんさんぎんさんが双子の長寿者ということと、愛すべきお人柄もあって、百歳になられてからは、スターになってしまわれました。まだ記憶に残っていらっしゃる方は多いと思います。
あのお年で、超多忙なスケジュールでTVには出演し、あちこちに出かけられていました。むろんお仕事として行くので、出演料その他の報酬を手に入れられます。
そんなきんさんぎんさんに、ある方が質問しました。
「お二人は、この収入を何に遣われますか?」
「貯金します」
「貯めてどうなさるんですか?」
「そりゃあ、老後のためですよ」
多分、それを聞いておられた方は、爆笑なさったことでしょう。
こんなユーモアが出てくるたくましさこそ、人気の理由だったのでしょうね。

お金はあの世までは持ち込めないのですが、そうかといって溜まるものは貯めないわけにはいきません。百歳を超えても『貯金』は当然のことでしょう。羨ましい話です。

もうかなり前の話になりますが、それはそれはケチケチとお金を貯めて、それを使わぬままに、亡くなられた方がいました。
結婚はしたものの、妻は2年ほどでいなくなりました。食べさせることがイヤで追い出したのか、食べさせてくれないので去ったのかは定かではありませんが、その後はずっと独り暮らしで、60歳くらいで亡くなりました。

近所の人たちが、「ああ、気の毒に。せっかく貯めたお金で、好きなこともせずに死んでしまった」と気の毒そうに噂をしていたのですが、それを聞いて私は思いました。
彼は、けっこう楽しんでいたはず。毎夜、貯金通帳を眺めては、にこにこと笑っていたにちがいない。「オレさまは、この辺りの誰よりも金持ちだろうなあ」と、いい気分で威張っていたかもしれない。それに、彼が7080歳まで生きていたとしても、貯めたお金で贅沢三昧など出来るはずがない。死ぬまで通帳を眺めるだけで、満足な笑みを浮かべていたに違いない。それで十分幸せだったろう、と。
とやかく言われましたが、誰に迷惑かけたでなし、悪いことをして貯めたわけでもない、堂々と働いて、貯めたのですから、立派なものです。

話は変わりますが、この不景気を吹き飛ばすには、老人の財布の紐を緩めるのが第一とかいわれています。
高齢者が、預金を抱え込んで使わないので景気が良くならない、と、まるで不景気の原因は年寄りのようにいわれるのですが、使わないのではなく、使えないのです。
使いたくても使えない、というのは、先々の不安です。過去の長い人生で、いろんなことがありすぎて、苦労してきたことが原因なのでしょうから。

でも、お国の為となったら命まで、とは言いませんが、少しはお役に立てようと、定期預金を引っ張り出してくる方もいらっしゃるかもしれませんね。
さて、どうなさいますか? お国の為に、ここらで清水の舞台から飛び降りるおつもりで、定期預金を解約して、ドンチャンとやりますか? それとも、豪華客船に乗って、世界一周と洒落込みますか? (あ、そんなとき、間違っても外国船などに乗ったりなさいませぬように。『飛鳥』『日本丸』『パシフィック号』などなど、日本にだって、豪華客船はございますからね)

私ですか? 私はもう使い果たしております。葬式代ほどの残金があるのみであります。贅沢をしてきたつもりはまったくありませんが、金運というものがあるとすれば、私にはご縁のないものでありました。
命が余ってしまいましたが、病気になっても、延命治療など、一切不要。
お蔭さまで、今のところ、年金は私が死ぬまでくらいは頂けそうなので、その枠内で、生きていきます。贅沢しなければ、大丈夫です。少額ながら、これと思うところには、寄付も義援金も出すこともできます。たまには旅行に出たり、ファミリーレストランで食事も出来る、という結構な身分でございます。有難いことです。(^^)
これからも、年金が頂けますよう、祈っております。そのためには、消費税も仕方ないと思っている者であります。


2012年4月14日土曜日

年金とボランティア

頭からお金の話で申し訳ないが、昨日は2カ月ぶりの年金が振り込まれる日だった。いつもより2日早い。15日という日が土日にかかると、前倒しになる。何となくトクをしたような気分になる。昨日振り込まれたのは、23月分と思う。生活した後から頂く後払いだ。これが前払いに変わるなら、4が月分頂けて、もっとトクした気分になるのだが。()

いやいや、そんなこと言ったら申し訳ない。後払いだろうが遅配だろうが、頂けることこそ、感謝しなくてはならないのに。

年金を始めて頂いたときは、やたら有難いと思った。いくら働いてきたこととはいえ、死ぬまでこうして頂けることに感謝の気持ちでいっぱいだった。長生きするつもりの私は、ちょっとばかり、日本の将来も心配だったのだが……。
そして健気にも、「動ける間は、何か世の為人の為にになるようなことを、ちょっとでもせんとわるいなあ」という思いが広がった。大したことが出来るとは思っていないので、小さな親切でも、無理なくやれることはやってみようと。
その気持ちは、今も変わらない。口でいうほどのことが出来ないだけである。

私は、ボランティアらしいボランティアはたいしてしていないので、大きな顔は出来ないのだが、ボランティアの核に有るものは、人間同士の愛情だと思っている。懐の深い方、豊かな愛情をお持ちの方は、止むにやまれぬ思いでアフリカまでも出かけて行くだろうが、自分や自分の身内だけにしか愛が及ばぬ人は、他人さんのためにタダ働きするなど、しんどい話に違いない。愛を計る物差しは無いのだが、他人のために、どれだけのことができるか、ということは、ひとつの計器にはなるようだ。

私自身は…と言うと、そこそこのことは出来ても、大きな犠牲をはらうことなど出来はしない、という、どこにでもいる人間である。無理もしないし、苦しいことも出来ない。
もともと、ボランティアは、他人の為というよりは、自分のためにやっている部分が大きいのだが、小さなことであっても、自分自身が成長していくこと、仲間が出来ること、有難うと言っていただける幸せ、こうしたお金には代えがたいことが生きる支えとなってくれる。これは、やってみて初めて分かることかもしれない。

日本も、阪神大震災以来、導火線に火がついたように、ボランティア活動は盛んになってきた。今回の東日本大震災で、更に成長してきたと思う。被災者を思いやる愛の心が皆さんの胸にいっぱいあることが証明された。やはり日本はどこよりも良い国だと思っている。


2012年4月13日金曜日

今朝のニュースを聞いて

北朝鮮が、世界の反対を押し切って、「やるぞ、みておれ!」とばかりに打ち上げたミサイルが大失敗したと、先ほど世界中に発表された。
「ああよかった」と、胸をなでおろした方も多かっただろう。
これを、「お気の毒」と思う方もいるし、「ざまあみろ」と笑う方もいるだろう。
「神様は、こんなばかなことするより、餓死寸前の人達に、食をあたえよ、ということよ」と、神様を持ち出す方もいらっしゃるにちがいない。

こうした失敗を北朝鮮は、どのように弁解するのかしらないが、今頃は頭抱えておいでだろう。私なら、「ああ、打ち上げずにおれば、失敗は未然に防げたばかりじゃなく、不完全品もばれずにすんだのに……」と、後悔することしきりだろう。
ひょっとすると、失敗したなんて、国民には報せないかもしれない。「ある物体が飛んできて、撃ち落とされた」なんて、でたらめ言うことだってありうる国だ。

すぐお隣に、ヤクザやゴロツキが住んでいたら、引っ越ししたくなるし、それができなければ、お付き合いを遮断して暮らすことも可能かもしれないが、『国』ともなれば、そうはいかない。日本がいくら紳士の国であっても、そんなこと、関係無いのがゴロツキ国である。何の関係もない市民を掻っ攫って自国に連れ去り利用するのだから、常識の通る国でないことは明らかだ。

これから、どう国を守っていくのか、平和大好きの日本人は、憲法『戦争放棄』は変えられない。喧嘩をし掛けて行くことなど、もう懲り懲りだ。
ただ、喧嘩をし掛けられたらどうなるのか。
ある方は、「日本に軍備がないことが、世界からバカにされている原因」と言い切る。『軍備』という言葉を聞くと、昭和一桁人間は、眉間に皺を寄せるにちがいない。お偉い軍人さんに、ひどい目に合わされたことが、忘れられないのだ。
昔の軍隊と、今の軍隊は違うことは分かっている。でも、人殺しが出来るのが軍隊である。『平和を守るための軍隊』ということだろうが、軍隊を持つことの是か非かは、本当に難しい問題だろう。

ひと口に言うと、私のような凡人の判断では、どれが正しい判断なのかは、分らないのだ。自分の信念を通すことは易しい。反対反対を唱え続けることは、案外易しいことなのだ。反対意見に耳を貸さなければ容易である。
しかし、軍隊が必要という方の意見にも一理ある。戦争がしたくて言っているわけではないことも分かる。世界の状況や、外交上のこともあるに違いない。
要は、どうしたら、国民が、不安なく平和で安心してくらしていけるか、ということである。

これは、軍隊だけの話しではない。原発問題も同じだ。大きな視点で考えていかねばならない問題である。

私の頭では結論は出てこない。どちらの意見も、いい加減というものが、かなりあることもしっている。
ただ、国の舵を握る方たちは、優秀な頭脳集まっているはずだ。しっかりと勉強していただいて、国と国民の幸せになる道をえらんでいただきたいし、国民にも、よくよく解る説明義務も果たしていただきたいと思うものである。

2012年4月12日木曜日

年齢

一年が早いと思うようになって久しい。その気持ちは年ごとに強くなるだろう。残り人生の分母が小さくなってくるのだから、分子の1年は、当然惜しむ気持ちも強くなって当然。必然的に『早くも過ぎてしまった…』となるのだ。

鏡とにらめっこしてみるまでもなく、当然のことながら、『お肌』はそれなりに衰えているし、鏡には映らない『おつむの中身』も、トシ相応に萎えてきた。
天心甘栗のように、隙間だらけになっているネガを見たくないので脳検査にも行かない。

女性の多くは、「お幾つ?」なんてぶ遠慮に聞かれるのは嫌いらしい。(『らしい』などというと、男性みたいに聞こえるが、私は、ある面では男性並みの無神経さと大雑把さを持つものだから、トシぐらい平気なのだ。)聞かれた女性は一瞬相手の顔を見つめる。なかなか答えないのは、忘れたわけではない。忘れるどころか、他人様に1才でも多く間違えられようものなら、すぐに訂正するに違いない。
女は特に年齢には神経質になるのだ。

以前、或る書類に、年齢を書き込んでくださいと言われてペンを持った。ちょっと時間を置いたらしい。忘れたと思われたのかも知れない。「大体でいいですよ」とおっしゃる。(大体でいいなんて、サバ読んでもいいよ、ということ?それとも四捨五入でもかまわないの? じゃあ、九十歳と書いておこうか。ふふふ)なんて思いながらも、正確に書き込んだ。もし私が年齢欄に、九十歳と記入していたら、「あら、お若くみえる」と、思われるだろうし、もし、七十歳と書いたら、(おや、お年のわりに老けてるね)と思われただろう。
同じサバを読むのなら「若い」と言っていただける方が、いいかもしれない。

いや、実はこんなことは、どうでもいいと思っているのが本音である。
というのは、もうトシなんて、80歳過ぎたら、どうでもよくなるものだ。
開き直っているわけじゃないのだが、気持ちの持ちようの方が、実年齢よりも
ずっと大切と思うからだ。
トシを忘れていることが、元気の元になることが多いのだ。トシを考えていたら、今していることで気恥しいことはいっぱいある。

ときによっては、70代、60代の若い人たちを叱咤激励したくなるのだが、そんなとき、お節介ながら、「私は80過ぎてるのよ。貴女達は、まだ60代なんて青春じゃないの」と言うと、そうだなあと、思ってもらえるし、それはとてもいいことだし、私の気分も悪くはない。

ただ、高齢者というのは、いつ何どき、何が起こっても不思議ではない。そのことさえ忘れていなければ、トシのことなんてどうでもいいのだ。……と、思うものであります。



2012年4月11日水曜日

何かおかしい……

朝のTVニュースを観ていて思ったことだが、「えっ? そんな間違ったことこと、貴方さんが言うてええの?」と、首をかしげてしまった。

この世の中、『何かおかしい……』と思う事は山ほどある。中でも、私たち庶民の生活に関わってくる政治の問題では、いっぱいあって、私たち素人には「お偉い人達の集まりなのに、どうして?」と、不思議でならない。

贔屓にしている民主党のやることなので、格別腹がたってくる。
「この国難を乗り切るために、皆力を合わせませんか」ということにたいして、「政権交代した味を、国民に与えきってない」というようなことを言う武者がいる。
政権交代して2年半で、与えきってしまうような、そんなちゃちなことを掲げていたの? 第一、2年半にしては、随分と政権交代をしたおかげでよくなったことがあるじゃない。

ただ、やることはやっているのに、外部からは、なーんもしていないようなことを言われつづけているが、それを内部が言っていいものなの?
例えば、高井美穂議員が関わってきた文部科学部門一つ見てみても、『教育子育て支援』なんか、素晴らしい驚異的改革ができてきたじゃない。格差差別のないように、高校授業料無償化や、小学校だって、小泉政権から減らしつづけていた教員数も、交代以後、教員を増やして35人学級を実現した。これは、児童の学力向上間違いなし。(秋田県は、県独自で少人数学級をやっていて、素晴らしい効果があがっていることは、もう実証済み)
保育サービスだって、『安心子ども基金』を積み増ししているし、待機児童の解消や、多様な保育ニーズへの対応も、前進してきたじゃありませんか。
まだまだありますよ。ワクチンの公費助成、スクールカウンセラー、書ききれない。

こうした成果を民主党は、宣伝しない。こんなのを奥ゆかしいと言うの?
いや、多分多忙でそんな暇がないのだろう。でも、宣伝しなくても、やったことは、きちんと国民にしめさないと、一部の間違った宣伝に惑わされてしまう。
なにしろ、ちょっと口出ししただけで、自分がやったみたいな顔する人、けっこういる社会なんだから……。

小泉政権の政策以来、格差が広がって、年収がぐっと下がった家庭が多くなっているのだが、そうした家庭の子供にも、高校、大学進学がしやすくなった。
コンクリートから人へ、というマニフェスト通り、確実に人への予算は増えている。このために頑張ってくれた大臣も、ほめられた新聞記事はみたことないなあ。


ま、議員さんたちも、自分の選挙のことばっかり考えて、みっともないこと言うたりしたりせんとってほしいものです。
マスコミと一緒になって、民主党のしたことを否定したり、どうしようもない緊迫している状態に目ぇつぶって、選挙を乗り切らにゃどうにもならん、といったような性根だけは、許せませんです。もう、ぎりぎりなんでしょ? 私らにも感じられますもの。やることいっぱい借金いっぱい。どうするの?

ああ、古女の歯ぎしり、またやっちゃった……。

2012年4月10日火曜日

不器用

文房具屋に行って筆ペンを買ってきた。半時間も選りすぐって、何とか気に入ったものをみつけたものだから、同じものを3本も買ってきた。字がとてつもなくヘタなので、筆ペンにはかなり神経を使う。机の中には、香典返しなどにいただいた筆ペンがごろごろしているのだが、あの筆ペンでは、下手が更に下手になってしまうので使いものにならない。

字に限ったことではなく、何につけても不器用なものだから、それにまつわる失敗談も豊富にある。

教師になったばかりのときだった。単身赴任で学校に来ていた教頭先生のYシャツのボタンが、ぶちっとちぎれて私の机の上に飛んできた。私は親切心でそのボタンを付けて差し上げたが、そのとき、針を力まかせに引き抜いたところ、運悪くそこに教頭先生の額があって、思いっきり太い木綿針を突き刺してしまった。
教頭先生は、「あっ」とも「うっ」ともつかぬ声を発せられたように記憶しているが、私は、「ギャー」と大声を出してしまった。もう少し私の手先が下がっていたら、教頭先生の目玉を突くところだった。
 
私の不器用は一体誰に似たのか……と、深いため息とともに考えこむことがある。何をしても手先のことに関しては、ひと様の半分もできない。習字、絵画、工作、裁縫、どれをやらせてもまずダメである。父も母も字こそ巧くはなかったが、父は大工顔負けのような仕事をして、「器用貧乏在所の宝、隣のなんとかに使われる」といったところだったし、母だって、自分の卒業した女学校の裁縫の助手に雇われていたほどの腕たちだった。

実は、この不器用というのも、本当は理由があってのこと。それは、私はもともと左ききなのだ。
左ききは器用というケースが多いらしいが、私の場合は、学術書にも書いてあるのだが、能力が左右に別れてしまうというケースで、この場合は不器用になってしまうらしい。
こういった学説が嘘でないことは、私にはよく分かる。例えば、剃刀で眉の形を整えるときも、眉ペンで眉を引くときも、右は右手、左は左手で、ちょっと誰でも真似のできないことをするのだが、実はどちらも同じように巧くはやれない。アイラインも同様で、いくら慎重に構えても、目のふちからとびだしてしまったり、太くなったりで、けっきょく見栄えのするような化粧は諦める……ということになってしまう。
お手玉や毬つきなど遊ぶことは当然左だが、お箸と字は、厳しく右手で躾られたせいか、左手では食べたり書いたりはしたことがない。今はもう、そうしたことは自然にまかせている親がほとんどだろう。

不器用ゆえに頬を染めた、ということは何度もあるが、公衆の面前で恥ずかしい思いをしたことが二度ばかりあった。
学生のとき、粘土細工の宿題がでた。私は苦労して茶わんを作って持っていったところ、口の悪いO先生は、私の茶わんを高々と掲げて、「こんな小学生みたいなのがある」と言われた。ただでさえ肩幅を狭くしているというのに、そんなことを言われて、私はもうすっかり工作とO先生が大嫌いになってしまった。

二度目は教師になってからのこと。図工の指導の講習を受けにいったことがある。むろん、いやいやながらの受講である。
人物写生の仕方の講義をうけ、画用紙を与えられた。講義を聞いたからといって上手く描けるはずもなし、私はまたまた身を縮めて描いていると、机間巡視をしていた講師先生が、私の描いたものを高く持ち上げて、「この顎の線、いいですね」とおっしゃったのだ。
正直いって、その年まで自分の描いているものを、こういう形で褒めてもらったことがなかったものだから、驚きと嬉しさと恥ずかしさで、年がいもなく顔を赤くした。 
その次の先生のことばを聞かなかったら、私もいい気分のままでおれたのだが……。
「教師は、自信のなさそうな子に自信をつけさすのも大事ですね。このようにして何か褒めてやることが大切です」
 ……やられた! と思った。でも、前回のように、講師先生を恨めしく思うことはなかった。むしろ、感心してしまった。といっても、恥ずかしかったことには変わりはない。

この二つ、私にはいい体験だった。 
不器用な先生というものは、子どもたちにとっては、あんまり有り難くない。大きな被害を被ることだってある。宇をひとつ書いても、先生の字は、お手本なのだ。絵にしても工作にしても、指導に自信がないし、ぶちまけたはなし、力の入れようがちがってくる。

ああ、今ごろは、どこかでだれかが、「不器用なセンセのおかげで、字も絵も巧くはならなかった」なんて陰口いわれているかもしれない。O先生を恨めた義理じゃなさそうだ。