人間を長くやっていると、色々な物が体内に溜まって来る。良い物が貯まるのは歓迎だが、そういうものは少なくて、ストレスとか心配ごと、後悔などのような不燃物が、解決されぬまま、月日が流れ、忘れていく。しかし、忘れたというのは正しくなくて、心の奥深く包み込んで沈殿しているのだ。私的なことばかりではない。国の行く末、地球の将来、などなど、真剣に考えだすと、夜も眠れなくなってしまう。だから私はノンキな楽天家となって生きて来た。「なるようになるさ」と。でも時々思う。私ってもっと【心配性】になるべきなのか?と。
その一つに、認知問題がある。忘れることが多発、憶えなければいけないことが、中々憶えられない。もしかして頭の中は天津甘栗のように、隙間だらけになっているのでは……と。以前このブログに書いたかもしれないが、(こういうことも忘れているのだ。)認知だけは心配になって、調べてもらったことがある。初めに色々と質問されるのだが、それには皆答えられるものだから、先生は初めから認知ではなさそうだと思ってしまうためか、真剣には見てくれない。脳の写真では写らない認知症もあるだろうに、「心配ありません。少し鬱気味ではありませんか?などとおっしゃって、鬱の薬をくださった。鬱どころかノンキ者なのに。(笑)
最近の新コロナウイルス問題についても、あまり神経質にはなれない。この徳島県で、そんなに心配することはないじゃないか、と思っているものだから、人ごみにマスクをして出かけることもしない。マスクをするときは、ろくに化粧もせずに出かける時の、日焼け防止のためとか、防寒のためだ。こんな心がけではいけないのだ、もっと危機感をもつべきだろう、もっと心配性にならねばと思うのだが、ノンキにかまえている。これは、持って生れた性かもしれない。直りそうもないから……。