2016年10月31日月曜日

№1097 ハロウィーンなど


 ハロウィーンが、どういう意味があるのかはよく知らないのだが、ひと月も前から、マーケットなどでひどく騒がしく宣伝しているのを横目でみていたのだが、今日がその日らしい。お化けのような格好の若者が、都会を闊歩しているのを見て、何のためかと不思議に思って、ネットで調べてみた。 

ケルト人の1年の終りは1031日で、この夜は夏の終わりを意味し、冬の始まりでもあり、死者の霊が家族を訪ねてくると信じられていた。時期を同じくして出てくる有害な精霊や魔女から身を守るために仮面を被り、魔除けの焚き火を焚いていた]。これに因み、31日の夜、カボチャ(アメリカ大陸発見以前はカブが用いられた)をくりぬいた中に蝋燭を立てて魔女やお化けに仮装した子供たちが近くの家を1軒ずつ訪ねては「お菓子をくれないと悪戯するよ」または「いたずらか、お菓子か」と唱える。家庭では、カボチャの菓子を作り、子供たちはもらったお菓子を持ち寄り、ハロウィン・パーティを開いたりする。お菓子がもらえなかった場合は報復の悪戯をしてもよい

とある。ケルトがどこの国かもしらなかったので調べると、ケルト人は、中央アジアの草原から馬と車輪付きの乗り物を持ってヨーロッパに渡来したインド・ヨーロッパ語族・ケルト語派の民族である。とのことだ。

 ま、こうしたお祭りは、すかさずお金儲けとつながっているので、広まるのは早いだろう。日本でもあっという間に全国版になっている。

クリスマスには、それなりの意義があり、そのおまけとしてのプレゼントなどは、多くのこどもたちや若者たちを幸せ気分にしていて、何の違和感もないが、ハロウィーンは、私のような者には、まったく関心はない。(笑)

 話題を変えるが、昨日は久しぶりに、昔の仲間が集まった。といっても5人ばかりたが。もう23,4年も前、エッセイを書くのが好きな者が10名ほど集まって、「エッセイストとくしま」という会をつくり、年に1冊だが、【随筆とくしま】という冊子を発行していた。積極的だった主宰者の井村幸男さんは、どんどんと会員を増やしてしまい、大変な時もあったのだが、その元締めだった井村さんが亡くなられたあと、平成20年、追悼号(第16号)をだして終わりとなった。その会の主だった世話役も、10人ちかくいたのだが、今は5人となった。もう車椅子生活で、施設に入居されているSさんの家の近くに集まったのだが、話は尽きることがない。筆まめだったHさんも、すでに亡くなられて2年近くなっているし、この会を楽しみにしていた気丈なMさんも、先日急逝された。九十歳だったので、トシに不足はないのだが、ご本人が、「私は百まで生きそうだわ」なんて言っておられたものだから、彼女の死はショックだった。元気だからといっても、明日の命の保障の無いことを信じないわけにはいかない。 

集まった皆さんは、言うことや考えることは似たり寄ったり。それでも大笑いしたりあきれたりしながら、時のたつのを忘れておしゃべりに花が咲いた。

何年たっても、趣味を同じくする仲間というのは、いいものだと、つくづく思った一日だった。

2016年10月27日木曜日

№1096 誕生日


  昨日は、私の誕生日でした。昨日書くつもりが今日になったのは、相変わらず、ごそごそしているうちに、日付けが変わり、間に合わなかったのです。いっそのこと、明日ゆっくり昼間に書こうと寝てしまいました。(笑)

【目出度くも有り目出度くも無し】というコトバ通りの心境ですが、家族や親しい方に、おめでとうございますと言って頂くと、素直に、「ああ、このトシまで生きてこれたのは、目出度いことや」と思います。

 朝起きて、つくづくと鏡の前でスッピンの顔を眺めました。「随分トシとったものやなあ。86歳というトシは半端じゃないもんなあ」と、感心いたしました。顔というのは、どうにもならない部分がほとんどですが、シミや皺で汚くなっていく自然現象に無駄な抵抗をしても仕方がない、という気持ちがあるものですから、あまり気になりません。したがって、化粧品などは、(あまり信用していないこともあって)安物を使っていますが、このトシがきても、化粧という外塗りだけは、毎日してスッピンの顔はできるだけさけています。そうすることで、少しは気分もよくなるものです。
 
 どなたもそうだと思いますが、私も「こういう自分でありたい」と思う自分の自画像があります。顔は自分の思い通りにはなりませんが、心美人ということには憧れています。もう後期高齢者の最後尾に近くなりますと、そうしたものをしっかり持っていないと、とんでもない方向に崩れて行く心配があります。

自分の生き方を決めているものが、そうした自画像だと思いますと、それから外れるような自分ではありたくないと思いますから、自然軌道修正も出来ることになりますし、自画像も、その時々に修正されたりします。自画像は、私の人生の杖のようなものかもしれません。

そしてその核になるものはやはり、生きがい、生きる目標を持つことで、それは、世のため人のため、小さくてもいいので、(トシとともに、範囲は狭くなりますが)家族でも、友人でも、何かお役に立つことが出来ると、幸せな気分になれるものです。それはすなわち自分のためであり、そのためには、一日でも長く健康で自立した生活が出来ることと、優しさと感謝の心をいつまでも、もっていなくては、ということでしょうか。このためにも、いつも笑顔を! ということかもしれません。難しいことかもしれませんが、そうありたいと思っています。

 一年ぶりの誕生日を迎え、やはりこの一年の重みというものは、若い時の10年に匹敵する、ということを実感しています。60代・70代の方たちは、今は青春と思ってがんばっていただきたいものです。

2016年10月23日日曜日

№1095 ご馳走様


  最近の子どもたちの給食には、和食と言われているものがほとんどなく、家でもあまり食していない、ということが、TVで放映されていた。ほとんど和食ばかりを食べている私めとしては、「えっ?」という思いなのだが、ともかく油ッ気の多い炒めものや、フライにしたものなどが多いのだろう。

 ある学校給食を和食の達人がご指導して子どもたちに食べさせている風景が写されていたが、そのとき、「ご馳走様という感謝の心」について語られていたのが心に残った。ご馳走さまの【馳走】というのは、馳せ走りまわる、即ち一生懸命に仕事をしている姿のことで、お百姓さん、漁師さん、品物を売る人、料理を作る人、などの大勢の人たちの働きによって、私たちの口に入るので、そのことに感謝をして「美味しく頂きました。有難うございました」ということですと指導なさっていた。

 これを聴いて思い出したことがある。以前、ある先生が、給食指導のとき、「いただきます」「ごちそうさま」を言わない子どもに、有難うの感謝の気持ちを教えて「家でも言いましょうね」と指導した。ところが、家に帰って母親にそれを言ったらしい。次の日の給食時、子どもは、「かあちゃんがな、給食費ちゃんとはらってるんやけん、そんなこと言わんでもええって言うた」と。

 思い出しても笑いたくなるような母親の教育だが、……いや、笑っちゃいかんけど、こんなマンガのような母親の子の教育の難しさは、よく解る。

現場を離れて幾久しいが、こういう親ごさんは、幸いにしていらっしゃらなかった、幸せな教員時代だった。 

 

2016年10月20日木曜日

№1094 胎教


  №1086 9/27 に挙げたはずの【胎教】が挙がっていなかったので、再度、投稿しておきます。
お医者さんは、【胎児は、33週から、音を感じる】と言っている。この世に生まれてくるまでの母親の体内での経験など、自分では記億がないので、真っ暗闇の中で、ことばも知らず、ただただ動物的な本能で生きているように思えるのだが、決してそうではないらしい。母親の心臓の音を録音しておき、子どもが不機嫌のときにそれを聴かせると、静かに寝るという話はよく聞く。

私の初孫が、やっとコトバをしゃべり、ちょっとばかり色々なことを知り始めた頃、「ママのお腹の中で、何してたの?」と聞いたところ、ちょっと考えて「お水遊び」と言ったのには驚いた。それから10日程して、同じことを聴いても、同じ答えだった。胎内での記憶が、まだ残っていたのだろう。その後、半年くらいして尋ねたときには、「憶えていない」と言う答えだった。尋ねるチャンスは、短い時期しかないようで、下の孫の時は、そのチャンスは残念ながらはずしてしまった。

孫のママは胎教もあったのだろうが、音楽好きなので、いつも美しい音楽をかけていた。おかげで孫たちは、音楽は好きで詳しい。上の孫は、音楽家の道半ばである。

私などは、音楽とは、まったく無縁で大きくなった。家では、蓄音器があったが、祖母のためか?父はよく義太夫や、浪花節のレコードを買ってきたし、童謡のレコードは、あったのかもしれないが、何の歌だったかの記億もない。ただ、東京音頭は、よくかけた記億がある。学校では、小学唱歌と軍歌であるし、和音を聴いて、「ハホト」(ドミソ)「ハヘイ」(ドハラ)と、聞き分けるくらいのもので、それも、敵機の音を聞き分けるためとか聞かされていたから、笑うにも笑えない。
そんな教育のおかげで、この頃のややこしい歌など、幼稚園児が歌えるようなものでも歌えないというお粗末さだ。親を恨むわけではない。平凡な家庭にとっては、そんな時代だったのだから。
録画してあった日本の名曲などを聴きながら、思ったことである。

*こういう古い話を書くとき、不安になる。それは、「こんな内容、以前書いたような気がする、と思うのだ。何しろ、1000回以上書いてきたブログなので、調べてみることも大変だ。思い付くままに、書くので、2度3度とよく似た話も出てくるだろうが、お聞き流しいただけたらと思う。

2016年10月18日火曜日

№1093 風邪

   昨日、珍しく風邪をひいてしまった。熱が少々あるのは我慢出来るのだが、鼻水、咳、クシャミが、立て続けなので、しかたなく内科医のところへ行った。風邪に効く薬などないと思っているのだが、このままではマスクなしでは、部屋の中も歩けないほど、鼻水がぽたぽた落ちてしまう。マスクの中のガーゼも、間なしに変えねばならないくらいだ。

 そんな状態で受診したのだが、先生の前にすわると、1秒くらい口の中を覗き、3秒くらい胸と背中に聴診器をあて、血圧を計り、「はいよろしい。薬3日分出しておきますからね」で終わりだった。  

風邪など何十年も引いたことがなかったので、「風邪って、こんなに簡単なことで薬が出るのかと不思議に思った。まだ熱が8度ほどあるので今日は、大人しくしていよう。

2016年10月13日木曜日

№1092  赤ちゃんの顔


 いつまで見ていても見飽きることのないのが赤ちゃんの顔です。デパートのエレベータに乗っていたら、かわいい赤ちゃんがママの背中に。思わずにこにこしながらお相手していたら、降りるつもりの階を過ぎてしまいました。

 もう、産院に出産のお祝いを持っていく機会がトンとなくなりましたが、ずらりと並んでいる赤ちゃんをガラス越しに眺めるのは、楽しいものでした。これから期待できるのは、曾孫誕生のみ。いつのことやら分かりませんが。(笑)

 赤ちゃんの顔は、よく似ていることもあってか、むかしは、取り違えるという大変な事件もありました。でも、中には、ちょっと違った赤ちゃんにお目にかかったことがあります。その子の母親が、「叔母ちゃん、この子の顔、普通の赤ちゃんと違うやろ?」と言うものですから、「目鼻だちのいい子やないの。頭のいい賢げな顔してるじゃない。男まえだわ」と、思っとおり言いますと、「今、煙草咥えさせても不思議でない顔やろ」と。私、吹き出しましたが、心の中で「その通り」と思ったものです。今は、もうどんなお顔やら、何十年も会っていませんが。(^^)

 

2016年10月11日火曜日

№1091  芸術の秋


  昨日は、県音楽協会コンサートという、県内の色々な音楽関係の団体の発表会を観に行きました。美しい音色や歌声を聴くのは大好きです。普段、TVでは、プロの演奏や歌声を聴いていと、私のようなものでも、TVの前では、ちょっとばかり批判も出てくるのですが、(笑)ナマ演奏を聴くのは別ですね。聴き入ってしまいます。(むろん、プロの方もいらっしゃったのですが)

知人のHさんは、グループ【グリューン・コール】で唄われていました。有名グループです。指導なさっておられる冨田操先生は、学校の教師時代は、その指導力抜群で、いつも、どこの学校に転勤されても、県代表になられるような方でしたから、その熱心さ、厳しさも有名でした。そうしたグループで頑張っていらっしゃる皆さんですから、その歌声も立派なもの。感動しました。

また、上田収穂先生ご指導の【徳島少年少女合唱団】は、世界をまたに活躍しておられる素晴らしい合唱団。子ども等の、宗教音楽等を歌う歌声は、澄み切った鈴の音、せせらぎのような清らかな発声に、魅了されました。ここまで磨きあげられるものかと、感心いたします。

全身全霊を打ち込んで演じている方たちを見て、私たちが感動するのは、当然のことですが、このトシがきても、感動出来ることを嬉しく思いました。ちなみに上田先生とは、私同級生です。雲の上のような方で、音楽にはめっぽう熱心な方でした。同窓会も、お忙しくてなかなかご出席いただけませんが、それでも、時々お顔をみせてくださいます。(^^)こうした方を見ていますと、私たちはとても元気づけられます。

今、何かと心を狂わせ、狂気に走る人たちが目につきます。音楽で病を癒す療法もありますが、自然を愛し、美しい絵や音楽を聴くという生活から遠くなった人たちが増えてきたのでしょうか。やはり豊かな人生を送るには、自然や芸術は欠かせないもののようです。

2016年10月9日日曜日

№1090 笑う


  笑いの効用は、よく言われている。可笑しいこともないのに、笑うことは難しいが、笑っていると、気持ちが幸せになってくるとも。笑うことはなかなかできなくても、笑顔は出来そうだと心して歩いてみると、その作り笑顔も、いつのまにか消えている。

今朝は、ひとりで笑うことがあった。そしたら、とても気分がよかった。やはり、声を出して笑うことは、いいことなんだ。(笑)

NHKTVがこんなことを放送していた。【紅白歌合戦当日の観覧者を募集しています。現在受信料をお支払い頂いている方に限ります】と。聴いたとたん、声を出して「はっはつは」と笑ってしまった。何が可笑しかったかと、聞かれても、その気持ちはちょっと言いにくいのだが、面白かったのだ。色々な場面が想像された。NHKとしては、「受信料も払わずにNHK観てる人など、入れないぞ」の気持ちは、よく分かるし、払っていない人にとっては、「べつに会場まで行かなくても、TVの方が面白いや」「ああ、こんなときは、当然やろな」などなどだろうし……。

私は、「ふふふっ。この調子で、『視聴料払ってない方は、この番組は見ないでください。すぐにスイッチを切り替えてください』と、画面に出たらどうだろう」なんて想像してしまったり……。

落語、漫才は、聞いている人の笑いがとれなければ、商売にはならないのだが、TVでのお笑い番組は、たまに耳にすることがあっても、何となく落語や漫才のようには笑えない。喧しいと思いはじめてしまう。落語は、立派な芸と認められていて、【人間国宝】という方も出てくるが、漫才は、まだその域にはたっしていないようだ。

ま、せめて道を歩いても、仏頂面よりも、笑顔や微笑みが自然に出てくるような人柄になれたらいいなあ。無理だけど。(^^

 

 

2016年10月5日水曜日

 №1089 好かれる老人


  先日の研修会の一つに講演があった。『輝くシニアの生き方』という題。もうこのトシになると、一応は、聞き知っていることばかりなのだが、実践となると、出来ているものばかりではない。
  例えば【好かれて老いるためには】では、①感謝の心(まあまあ) ②いつも笑顔(愛想はよくない) ③否定語を避ける(自覚せずに使っているかも) ④陰口を言わない(憎めない陰口を聞くのは楽しいなあ。ふふふっ) ⑤進んで挨拶を交わす(まあまあかな。小学生に合うと、おはようさん、おかえり、とか言うのだが、返事がないことが多いなあ) ⑥名前と顔を憶える(まったく不得手) ⑦約束と責任を果たす(これはまだきっちりと果たしているつもり) ⑧嘘をつかない(嘘も方便のときが、よくあるんだけど……) ⑨上からの目線で見ない(教員の癖で、見ているかもしれんなあ) ⑩自分の価値観を押し付けない(押し付けてないけど、○○したのがいいのとちがう?なんて言うのは、よくある。押し付けかしら?) ⑪相手の長所を見てあげる(これは心掛けています) ⑫優しいコトバをかけてあげる(わりかし、かけていると思っているのだが……。「わりかし付ければバカでも利口」なんてこともあるんだけど……)

 といった具合で、なかなか難しい。嫌われる老人には、なりたくないなあ。

 

№1088 暫く日記

  今日は(104日)、忙しい一日でした。前日に引き続いて、研修会があった上に、夜は、劇塾での稽古。10時過ぎに帰ってきてから、雑務をしていたら、こんな時間となりました。ブログは、ご無沙汰になっているので、これから暫くは、生きていることだけでも、お知らせしておきます。(笑)