2017年3月26日日曜日

№1138 いずれが……

  ここ何日も、ニュースは森友学園問題にてんやわんやの騒ぎである。いずれが狸か狐か知らないが、この問題の解決は、とても難しい問題だと思わざるを得ない。万一、安倍さんが、何らかの手を使っていたとしたら、これは自民としては、絶対に隠さねばならない問題である。相手は今までにも、あの手この手で結構嘘も並べてきたツワモノなので、証人喚問を100%信用出来ない面があるのだが、あの自信たっぷりの態度は、総てが嘘で固めてあるとも思えない。それに比べて、100万円どうこうという問題にしても、ご本人が「記憶にない」というようなことでは、信用したくても出来ない。それこそ、「神に誓っても、ありえません」という答えを、私ならするだろう。そういう答えをしない、証人喚問お断りでは、やはり100万円を渡したな、と思われてもしかたがない。「喚問は必要ない」というのも納得できる。(必要ないのではなく、出てはならないのだろう)しかし、国民は納得できないだろうし、それが庶民の感覚である。100万どころか、1万円頂いても、なかなか忘れられないものである。

 政治家と庶民がなかなか打ち解けない理由の一つは、この感覚の違いだろう。首相夫人が、100万円を貰ったかどうか記憶にないと、相手に尋ねるなどという感覚では、大根1本10円安いからと、足を延ばして買いに行くという庶民の気持ちなど分かるはずがない。

 こんなことで、(といっては悪いが)議員先生たちが、大事なことをなおざりにされてはかなわないし、これ以上国がどたばたされてはかなわない。ま、白黒つけることも大切だろうが、お灸を据えたということで、打ち切らねば、どうしようもないこととも思う。

それにしても、世間でいうお偉い方たちは、頭がいいわりに、記億がなくなることも多いようだし、上司のいうことには、実に誠実な方たちなんだろうなあ……と思う。(笑)

 

2017年3月24日金曜日

№1137 「丁度よい」


Bagusさんが、1136のコメントで教えてくだそった詩『丁度よい』を皆様に紹介しておきましょう。

調べてみますと、石川県野々市町の真宗大谷派常讃寺坊守、藤場美津路さんが、月に一度発行する寺報「法友」の82年2月号に掲載されたものでした。
最初の題は「仏様のことば(丁度よい)」。
「仏様の声が頭の中に聞こえてきたので、そのまま書き取りました」ということのようです。

        お前はお前で丁度よい
               
顔も体も名前も姓も
               
お前にそれは丁度よい
               
貧も富も親も子も
               
息子の嫁もその孫も
               
それはお前に丁度よい
               
幸も不幸もよろこびも
               
悲しみさえも丁度よい
               
歩いたお前の人生は
               
悪くもなければ良くもない
               
お前にとって丁度よい
               
地獄へ行こうと極楽へ行こうと
               
行ったところが丁度よい
               
うぬぼれる要もなく卑下する要もない
               
上もなければ下もない
               
死ぬ月日さえも丁度よい
               
仏様と二人連の人生
               
丁度よくないはずがない
               
丁度よいのだと聞こえた時
               
憶念の信が生まれます
               
南無阿弥陀仏


 あまり、宗教心のない方たちにも、何となく、心惹かれる詩ではないでしょうか。ご参考までに。                                                                                              

2017年3月22日水曜日

№1136 小金持ち


 ある統計を見て思った。貯蓄が億以上の世帯は、2%ほどという。えっ?そんなに少ないのかな、と思った。世の中みていると、(自分の生活は、かなりみみっちいので)皆さん方は、たくさんお金をもっていらっしゃるんだなあと、思っていた。(笑)

【小金持ち】というと、大金持ちの反対言葉だろうが、この定義もまちまちで、その人の感覚で何とでもなってしまいそうだ。

 私の感覚でいうと、以前、ある方(たしか邱永漢氏)の本で読んだ記憶だが名言と思った。『小金持ちとは、そこそこの生活が出来て、「今日はうなぎが食べたい」と思ったら、それを食べ、「23泊の温泉旅行に行きたい」と思ったら出かけられるくらい』と。ま、人によっては、23泊の温泉旅行が、豪華客船の世界旅行であるかもしれないが、庶民感覚としては、23泊の温泉旅行だろう。これだって、行こうと思えば行けるけど、止めておこう、と思うのは、よくある話しだろうが……。

 邱氏は、小金持ち程度の生活のできる小市民が、一番幸せだ、とおっしゃっていた。あり過ぎても、少な過ぎても、苦労があるというか、よくないことがある、ということだろう。

 私は、どちらかというと、自分の置かれている立場、環境に、大ていは満足出来る性格と思う。いうなれば、分相応と思えるからだ。小さかった頃、友達の中には、羨ましいお金持の子もいたけれど、常に、この家に生まれてきたこと、この両親の子であることが嬉しかった。(ま、幼い時は、ほとんどの子がそう思って大きくなったろうが)

 今、邱氏のことばを借りると、【小金持ち】に少し足りないようだ。財布の中身と相談しながら、「うなぎが食べたいけど、ま、鮭にしておこう」(笑)でも、「ああ、私は小金持ち」と思うことは出来る。鮭が買えるのは幸せだ。

 長い人生を振り返って、【幸せに生きて行く知恵】のようなものは、まわりにたくさん落ちている小さな幸せを拾い上げて行くことだと思う。

2017年3月17日金曜日

№1135 故郷


【故郷】という言葉は、古里、郷里、生まれた土地、ということであるが、私の故郷と言えば、【子どもの頃の思い出】ということばがぴったりである。色々なことが忘却の彼方に吹っ飛んで行く最近であるが、懐かしい故郷のことは、忘れずに焼きついている。近所のおっちゃんやおばちゃん、幼稚園の先生の袴姿、友達が真新しい服を着てきたときの嬉しそうな顔、小学校入学前のクラス分けのテスト?での出来事、雪の朝、6年生のお姉さんたちが数人、下駄箱の前で、箒を持って立っていて、入って来る子の鞄や肩に積もった雪を払ってくれたこと、あるとき、「はい後ろ向いて」といって、私をクルリと後ろ向きにしたとたん、「あれっ、この子、ランドセル忘れてきたわ」と、素っ頓狂な声をあげたこと、しまったと、慌てて外に跳び出すと、帽子も被らず、頭を真っ白にした父が、ランドセルを「ほら」と手渡してくれたこと、遠足の日、家に帰ってほっとしているときの、小学校の火事騒ぎ、泣きながら燃えている校舎を見つめていたなどなど、大小の事柄が、鮮明すぎるほどに憶えているから不思議である。

 「忘れない」ということは、思い出すことをかなり繰り返してきたということでもあろうし、キャベツのように、芯に近い思い出は、しっかりと巻き込んでいるのかもしれない。

 トシを重ねて行くことの楽しみの一つに、昔を思い出して喜怒哀楽いずれもにっこりと楽しめることがある。老いていく知恵かもしれない。

 

2017年3月11日土曜日

№1134 人間の性(さが)


  早くも6年が過ぎた東北大震災。色々なことを放送していたが、人間には、たくさんの善人もいるが、そうでない人もいることに驚く。福島というだけで差別される、なんて、普通は考えられない。自分の身に置き変えて、罹災された方々の苦しみや悲しみを思うことが出来ないのだろうか。

人を差別するなど、とんでもないことだが、「この品物は、大丈夫です」という太鼓判を押しても、それを買ってもらえない、というのもおかしな話である。少しでも応援したい、という気持ちにはなれないのだろうか。私は大阪で土産物を買う時も、東北の煎餅があれば買いたいのだが、そういう気持ちになれ、というのが無理なのだろうか。

ある私学を開校したいという立派げな狸がいるようだ。出鱈目なウソを堂々と述べ散らしている厚顔無恥な人物は、どう見ても狸としか見えない。そういう人物の作ろうとしている学校に、子どもを入学させようとする親もいるというのも驚く。

昔は、男の中の男として多くのフアンがいた石原慎太郎氏、随分と老けちゃいましたねえ。裕次郎君が墓場の下で怒っていますよ、きっと。男らしさを求めるのは無理としても、責任を人になすりつけたりしてはみっともないではありませんか。

……といった具合で、最近、私も品位がさがってきたのか、人様の悪口を言うのも楽しくなりました。 ふふふっ。

 

2017年3月7日火曜日

№1133 お仕舞い


  暖房で春の真っただ中のような部屋の窓から空を見上げる。かなり冷たい風が、窓ガラスをカタカタと鳴らしている。今夜、お通夜のF氏をふと思った。詩人であったF氏は、頑固が服を着ているような方だった。文藝協会の役員を何年もしてくださり、事務局である我が家での役員会には、必ず出席いただき、いつも大きな声で自説をガンとして曲げなかったその生き方は、それなりに立派だった。この1年あまりは、ご病気の療養に専念されていたのだが、昨日、訃報を頂いた。

【死ねばそれでお仕舞い】と思う私は、生きていることをこの上なく幸せと感じているし、大切な時間と思うのだが、いつかはお仕舞いが来ることを思うと、実に寂しいと実感するのだ。

【しまった】ということばがある。失敗した時などに使うことばだが、これは、しまうということば(終わり)に【た】という助動詞のついたことばなので、本来は【おしまい】の意である。

人生のお仕舞いというとき、【しまったぁ】と後悔することだけはしたくないと思う。できれば、仕舞いの舞いでも舞いたい気持ちだが、(笑)そうはいかぬだろうが、F氏のように、自分なりの筋を通して仕舞いを迎えられたらと思う。

2017年3月2日木曜日

№1132  徒然に……その2


  三月になってしまった。このところ、今年も高校生や大学生の演劇フェスティバルに、シニア劇団である私たちも出演するので、その台本書きに油をしぼっているのだが、悲しいかな、集中力が続かないため、行き詰って来ると、あれこれと、どうでもいいことに気が向いてしまう。その一つが散歩である。夜の時もあるし、昼間のときもあるのだが、田舎道なので、呑気に歩くのだが、気をつけなければならないのは犬の糞である。今日も、家の横の軽自動車1台がやっと通れるような道を歩いていると、道の脇に、土の小山があったので、その土を畑に戻しておきましょうと思って、足で土をもどしたところ、何と、ほかほかの犬の糞の上に、わざわざ土をかぶせてあったものだから、靴に犬の糞がぺったりとついてしまった。

犬を連れている方は、10人が10人、袋と小さなスコップをもっている。糞をすると、それをビニール袋に入れ、専用の手提げに入れていらっしゃるのだが、私の靴を汚した犬の糞は、それを片付けるどころか、わざわざ畑の土を被せて、糞とは分からないようにしてあったのだ。うむっ、けしからんやつ、と思ったが、ま、これほどではないにしても、道の真ん中で糞をさせ、そのままほったらかしの人は、後を絶たない。

糞だけではない。ビニール袋の中に、車中で食べたらしい弁当の容器や、カップなどが車の窓から投げ捨てられている。家の周りの糞やゴミは、朝の間によく片付けるのだが、ただただお行儀の悪さに呆れるばかりだ。こういうことは、大抵若い人で、かっこいい車に乗っているらしい。若者の総てがそうではないのだが、こうしたことをしてはいけないことは知っているはず。それだけに止めなさいと教えることは難儀である。