2017年12月31日日曜日

№1190 大晦日(おおつごもり)


  いよいよ今年も終わる。今日は大晦日。一年の最終日の大晦日(おおつごもり)だ。小晦日とか、大晦日とか晦日(みそか)ということばは、最近はめったに聞かになくなった。晦日というのは、三十日という意味なのだが、月末という意味に転じている。

私は小さい時から、この言葉には馴染みがあった。小学校の4年生頃から、晦日に集金というイヤでたまらない仕事をさせられたのだ。近くの10軒ほどの集金だが、犬にほえられたり、留守だったり、日を延ばされたりするが、一番イヤだったのは、家人の差し出す縦書きの分厚い領収帖に、目の前で、〝一金〟と書かれてある下に、下手な字で 参十五円 藤○印刷所などと書きこまねばならないのだ。(家業が印刷業だったのに、今風の領収書をどうして印刷していなかったのかと思うのだが)字の下手なことが、今も凄く恥ずかしく思うのは、この時からなのだ。

今日は朝から大変だと思うので、大晦日に入ったところで書いている。大変というのは、私にとってであって、することはたいしたことではない。いつものような一日になるのだが、煮炊きが多くなるので、立ち仕事が多いだけの話。黒豆の仕上げ、シイタケ、こんにゃく、筍、高野豆腐、牛蒡、数の子の仕上げ、などが私の分担である。お正月3か日は、家族いっしょに食事をするならわしだ。もう味付けに自信がないのだが、黒豆は市販のものより人気がある。

一年は早くなってきた。というより、生きている時間が減ってきたので、惜しむ思いが強くなってきたのだろう。色々な思いがあった一年だが、生きていることの意味がだんだんと心にしみてきた感じもする。

皆様、よき新年をお迎えください。来年もよろしくご指導のほど、お願いもうしあげます。

2017年12月21日木曜日

№1189 平均寿命


 先日、平均寿命の発表がありました。また伸びたようですが、私は87歳なので、今死んでも当たり前のことのようです。何事でも中ほどでいいと思っているのですが、何の準備もしていないので、こればかりは明日死んでもいいとは言えません。半年くらいは、余裕がほしいです。()

それにしても、新聞の死亡欄に毎日目を通していますが、皆さん、長生きしていらっしゃった方の多いこと。亡くなる前の様子は分かりませんが、長寿といった方々は、そんなに長患いなさっていたとは思えません。私の同級生の方が二人、相次いで亡くなりましたが、寝込んでからは、あっという間に逝ってしまいました。

人生50年60年70年と、延命してきましたが、若くして亡くなる方が多かったということもあって、昔も長生きした方はかなりおりました。私の祖母も、粗食時代が長かったと思うのですが、93歳まで生きておりました。ただ、医学がまだ今ほど進歩していなかったせいか、88歳で寝込んでしまい、その後は寝たきりでした。今ならリハビリでもして、寝込むのはもっと短かかったのではと思います。

明日は知人のお葬式に参ります。夫の友人でしたから、私とよく似たお年です。人生100歳時代といいましても、なかなか100まで生きるのは、まだ大変です。そう思いますと、もっと、日々を大切に過ごさねばと思いますねえ。

 

2017年12月19日火曜日

№1188 年賀状


  12月もあと10日余りとなると、やはり気忙しい。やっと年賀状を書きあげた。書いたといっても、パソコンでの印刷で、余白にちょっとしたご挨拶程度のことを書きこむだけなのだが、それがなかなか書けない。特に右手の指の関節が痛く、膨れているものだから、何を持ってしても、下手な字が踊ってしまう。書きながら「読めるかな?」なんて心配しながら書くしまつである。

 もう、このトシになると、いつもお世話になっていたり、元気にやっていますよ、とお知らせしたい方は限られてくる。お顔も忘れたような方は、相手さんも同じだろう。年賀状だけのお付き合いの方には、「次回からは年賀状は失礼します」と書きこもうか?」と迷うことがよくある。特に若い方にとってみれば、年寄りから頂くのに、止めるわけにはいかない、ということになりかねない。こちらから失礼するのがいい場合もあるだろう。……なんて考えながら書いているものだから捗らない。

こんなことを友人に言うと、「私はもう出さなければならない方だけ出して、あとはトシだから、頂いた年賀状に返信するだけ」とか。なるほど、来年まだ生きていたら、そうしようと思った。(-)

2017年12月10日日曜日

№1187  ボランティア


  街中を車で走っていると、同じ襷をかけたり、或いは揃いのチョッキを着た方たちが、落ちている塵、ゴミを拾っていたり、公園の草取りをしているような情景をよく目にする。「あ、ボランティア活動をされているんだな」と思いながら走り去るのだが、そうした活動をあまりしてこなかった私としては、「ご苦労様です」と声をかけたい気持ちになり、感心してしまう。

 あるご夫婦は、【いつも目を輝かせていよう】というのがモットーとかで、ボランティア活動によく参加されている。ボランティア活動は、生きがいに通じているともおっしゃり、「元気で明るいのが一番ですわ。人間って、内面が輝いていたら、何を着ていても清潔でさえあればおかしくない。だから、おしゃれには無関心です」とおっしゃる。(でも陰で奥さんは、「お気に入りの服があれば、高くても安くてもすぐに勝手に買ってしまうんよ」と)ふふふっ。

 私も初心を振り返ってみると、初めて年金が、通帳に振り込まれたのを手にしたときは、やたら有難く、働けるうちは、少しでも世の中のためになるようなことをしなければ、と思ったものだ。と言っても、私のことだ。硬苦しく考えたわけではなく無理なく出来ることがあったら・・・といった程度のものだが。

でも、私的にしたいことが多くなり、けっこう忙しくなってきた。お金になるような仕事ではないけれど、ボランティアとは言えないだろうなあ。ほとんどが好きなことをしている、というようなことばかりなので・・・。

 思うのだが、【ボランティア】の核に有るものは、人間同士の愛情だと思っている。懐の深いひと、豊かな愛情にあふれている人は、止むにやまれぬ思いで、外国にまで出かけて人助けをしたりしている。自分や身内だけにしか愛が及ばぬ人は、他人さんのためにタダ働きするのはしんどいだろう。他人のためにどれだけの奉仕ができるか、というのは、愛情の一つのメモリになるだろう。

 自分は?というと、そこそこの事は出来ても、大きな事は出来ない小物で並みの人間。世の中には、並みの人間は、山と居られるだろうが、積極的に【ボランティア】をしている人は少ない。なんとなくテレもあるのだろう。ただ言えることは、少しでもやってみると、ボランティアは、他人のためではなく、自分のためにするものだということが、じわじわと心に沁み込んでくる。

このトシになると、グループの足を引っ張るようなボランティアなど、したくても出来ない。でも、曲がった腰を手でさすりながらも、ボランティアに精出す方の気持ちが良く解るのだ。見習わなくちゃぁ・・・。

 

2017年12月4日月曜日

№1186 報道で思うこと

 元横綱、日馬富士の事件がこれでもか、というほど毎日ニュースで取り上げられていた。今だに関連したニュースが流れている。「どうしてこんなことになったのか?」と、相撲関係者の中でも囁かれているようだ。ご本人も、事件のあと、土俵にもあがっていた。「こんな大きな事件になるとは思っていなかったので」と。

市井の人なら、たとえ新聞記事になっても小さく載ることも、有名人ともなれば、大事件となるのだから大変だ。

 私の思うに、大きな事件にしたのは、報道関係と思う。どの局も、毎日トップニュースで報道していたのでは、大事件に成らざるを得ないだろう。そうした責任は、報道関係の方々は、感じてはいないようだが……。

 日馬事件だけではない。良きにしろ悪きにしろ、ちょっとした失言を取り上げて、その人をこき下ろす、或いは政治そのものを変えてしまうことも今までにはあった。要人は心すべきだ。

 コトバは、たしかに大切だ。その人の人格まで崩壊することもある。ただ、人間は、いつもいつも正しく緊張して心境を吐露しているわけでもない。ハンドルに遊びがあるように、コトバにもそうしたものがあるだろう。時と場所を考えねば、ということだろう。

いい人間関係というのは、心のつながりを感じるような話し合いが出来る関係と思う。たとえ話の内容が怒りや苦い感じのものであっても、生きるための「塩」になるだろう。人を教育する立場の者には、そうした関係が不可欠だろう。長く生きてくると、生きていく上での「人間関係」の大切さが身に沁みている。

 

2017年12月2日土曜日

№1185 師走


  ついこの間、年賀状を出したような、そんな気分で師走を迎えた。一年が、あっという間だった。一年が早いという感じは、年ごとに強く感じる。残り人生を考えるので、そうなってしまうのだが、これは仕方がない。一年の重みが一年ごとに重くなっていくのは一年の大切さや惜しむ気持ちが強くなってくるのだから。

一日一日が大切ということを思いつつも、それに反比例して無駄な時間が多くなっていく。たちまちモノ捜しとか、忘れたことを考えて思い出すなんて、昔はそんなになかったことだ。(けっこうあったのだが忘れたのかも。笑)

師走というと、昔はボーナスを頂けるという楽しみがあったが、今はもうただ心忙しいだけの12月であるが、片付け魔?かと思うほど、忙しいときに片付けや掃除がしたくなる私なので、楽しみもある。今日も、冷蔵庫の中のものを全部出して、掃除をしたり、いらぬものを捨てたりした。

こんなことを書くと、さぞ家の中は、整理整頓が出来ているだろうと思われそうだが、そんなことはない。何をしても雑なのだ。このパソコンの周りも、いつも雑然としている。

あ、もう日が変わる。書きたかったことがかけなかったが、もう終わりとします。