昔の乙女が7人集まった。全員昭和5年生まれ。88歳か、今年中には88歳になる連中なので、それぞれのお顔には、人生の風雨に耐えてきた勲章が刻みこまれている。
女学校時代のクラス会50人ほどのメンバーで、毎年同窓会をしていた。始めは20人程の集まりがあったのだが、4年ほど前に解散した。もう、県内外から集まるにも徳島市内まで出て行くのは無理という方がほとんどになってしまったのだ。
クラス会いうのは、ほんとにざっくばらんに気兼ねなくおしゃべりが出来る会だし、思い出も共有しているので、どんなおしゃべりにも興味津々になれるのだが、そうなれば仕方がない。
でも、私の近隣の町村に住む方たちが、何とか集まりたい、ということになり、世話を頼まれた。【ここなら何とか集まれそうだ】という場所をその都度決め、年1度、集まっている。
昨日は、車に乗る私が、鳴門市内のMさんを勝瑞駅で待つ、そこへ北島町のSさんが、息子さんの車で来てくれる。西に向いて走り、上板町に住むKさん宅へ。そこから、南にあるMさん宅に。5名を載せた私の車は、阿波市へと西に走る。会場に着くと、阿波市に住むYさん(彼女は、近くなら車に乗れる)とSさんの2人が、すでに来て待っていた。ささやかだが昼食をいただき、珈琲、ケーキなどで満腹。話はますます盛り上がる。
皆さん、毎日家で居られるか、ディサービスに行くか、という方たちなので、田舎では、ちょっと離れると一人で集まれる方は少ない。汽車の数も少なく、バスも少ないとなると、車だけが頼りになる。
私のように、出たきりばあさんらしき方は、だれもいらっしゃらない。それはそれはミニクラス会を楽しみにしていらっしゃる方ばかりなのだ。
私のお世話仕事は、単に7名の皆さんの出て来られない日を聞き、私の出かけられる日を決めて、連絡するだけなので、手間などはかからないのだが、「あんたが居てくれるので、こんな楽しい会が開ける」と、大いに感謝されるのだ。1回目、2回目と、回を重ねるごとに、皆さんの待ちわびていた様子が手にとるように分かるのだ。もう何か月も前から、お互いが、電話をし合って、「2月には連絡あるだろうなあ。元気でおろうなあ。会えるなあ」「有難いなあ。このトシがきて、昔の友達と会えるなんて」等と話あっていたりしているのだ。私のお世話が、こんなに楽しみにしていてくださるのは有難いことだなあ」といつも思うのだ。
「これから死ぬまでに、皆と何べん会えるかなあ……」Sさんが呟いた時、私ははっとした。そして思わず言った。「年1回やったら、3回も会えんかもなあ。私やって目が悪くなったら、運転出来んもんなあ。これからは、せめて1年に4回は集まりたいなあ」と。
「ほら嬉しいわ。あんたにばっかし迷惑かけるけど……」「嬉しいわあ、5回でも6回でも会いたいけどなあ」「ほら毎月でも合いたいよ」などなど、乗り気な意見ばかり。「私もそうやけど、皆やって元気でおってくれなんだらあかんのやけんな」「ほらほうじゃ。元気でおるよ。頑張るわよ」「「いついつ集まりがあると思うたら、寝込んでおっても、それまでには頑張って直すよ。有難いなあ」
……私も有難かった。ああ、よかった。こんなに言ってくれるのに、どうしてもっと以前から、時間作って会を増やして来なかったかと、反省もさせられた。
「次は桜の咲く頃がいい」「桜なら会場は○○がいいよ」と、早くも希望が飛び出す。お互い、元気で一日でも自立した生活が出来るためには、私も含めて、楽しみの会は多いほどいい。
こんなちょっとした手間で、皆が楽しめるなんて、幸せは足元にも、ごろごろ転がっているもののようだ……。