朝から嬉しいニュースが飛び込んできた。例のips細胞の研究から、難病の筋ジストロフィーの患者さんに、効く薬ができるかもしれない、という。
お恥ずかしいが、まだ海のものとも山のものとも分からぬこのニュースに、涙が出てしまった。
私は、教員生活の最後を、筋ジストロフィーの子ども等の通う養護学校(今は養護学校と言わず支援学校)に勤務した。
筋ジスには、いろいろな型があるのだが、幼い子供が発病しているタイプのほとんどは、余命の限られた、お先真っ暗な医療を受けながらの児童生徒たちだ。
知能や目の障害のある子どもたちと、長く関わってきた私は、自分の教員生活の最後のしめくくりは、筋ジスの生徒らと関わりたいと思っていたのだが、なかなかその勇気が出なかった。見学のとき、その子等の姿に泣いてしまったのだ。
しかし、こうした子どもたちと関わることは、自分にとって試練であっても、拒むようでは、本物の教育者ではない、と思っていたので、ちょうど永年勤続で転勤の機会があったので、希望する学校へ転勤した。
職員朝礼がすむと、全員で隣の病棟に子どもたちを迎えにいく。病棟は、手薄な看護師さんらがてんてこ舞い。車椅子に乗って自分でこぎながら出てくる子、自分ではこげない子、よちよちと歩ける子、教師は、手を貸さねば動けない子に手をかしながら学校に連れて来る……。
小学生相手の務めとは言うものの、生徒数が少ないので、小、中、高生徒全員との関わりが多く、そうした全校行事も多かったので、全員の名や顔がすぐに憶えられた。
しかし、思っていた以上に、辛いことが多かった。幼くても、周りの友や自分が、だんだんと病気が悪化していくのを見つめながらの生活なのだ。何とか歩いていた子どもが歩けなくなる。その時の子どもの悔しさ、悲しさは、教師の胸にも突き刺さってくるのだ。
そのうちに子等は、自分の命の限界を知り始める。病棟での生活なので、まわりの上級生や、卒業生が、どのようになっていくかを冷静に見つめだす。小学校4年生の子が「先生、ぼく、死ぬの、なんや怖くない。平気や」なんて言い出す。つい何日かまえの、同室のA君の死を意識しているのだ。
高学年は高学年なりに、深刻な悩みを抱えることになる。老人が、「あと2年、あと3年生きておれるかな」などと思うのとは、根本的に違うのだ。生きた証を残さねばと頑張る子、やけっぱちになる子、平静を装いながら苦しむ子、……。
教師は、いつも優しくそして冷静でなければならない。病気が進行しても、何とか歩こうと頑張る子。しかし、2メートルごとに転んで泣く子といっしょに泣くことはゆるされない。「何泣とる。しゃんとせい。男だろがっ!」男の先生が、その子のそばで喝つを入れているのを見ながら、心で泣いてる私だつた。
今は、私の担任した子等はひとりもいない。でも、高等部の生徒だったI君は、高松で頑張っている。仙台には、Y君が頑張っている。二人とも、人工呼吸器を付けながら、創作活動しているのだ。仙台は遠くてなかなか行くことができないが、高松は、もと同僚のKさんとふたりで毎年訪問して私が元気を貰っているのだ。
そんな方たちに、一筋の光が差し込んだ、と思うだけで嬉しくてならない。研究所の先生たち、一日も早い薬の完成に、頑張ってください、と心からお願いしたい。