2019年12月9日月曜日

№1269  12月8日


  私は北海道帯広市に住んでいた小学5年生の1941年(昭和16年)128日、あの太平洋戦争がはじまった。
8日の当日は、威勢のいい軍艦マーチ、あとに続く臨時ニュースに、家族も家業の手伝いをしてくれていた工員さんも仕事を放り出してラジオにかじりついて、真珠湾攻撃の大勝利に酔いしれていた。寒い日で、部屋のストーブの煙突が半分赤くなるほど、燃やしていたので、その煙突のそばでラジオを聞いていた私は、新しい毛糸のセーターの背中が焦げて煙が出てきて慌てたのを憶えている。

資源のない日本だ。勝利に酔いしれる日は、長くは続かなかった。鍋釜にいたるまでの鉄製品の没収、学校の二宮金次郎の銅像も、セメンに代り、食糧の配給、遅配、と国民の食生活も追い込まれていった。そんな時代を生き抜くために、貧しい、今なら喉の通らないような不味い食べ物、それも、お腹いっぱいは食べられず、空腹を抱えて生き抜いてきた。家を焼かれ、家族を失っても、歯を食いしばって頑張った。

やっと戦争が終わっても、暫く苦しみは続いたが、何はなくても平和な暮らしはありがたかった。この70余年、平和憲法のおかげで、戦争の無い国として、戦争に巻き込まれることのない国として、私たちは暮らしている。平和であったからこそ、このように立派に復興出来たのだ。戦争ほど悲惨なものはない。

しかし、戦争の恐ろしさ、馬鹿らしさを骨身に沁み込んでいる私たち年代の者は、数少なくなってきた。平和憲法だけは、何としても守っていきたいものである。
 
 

2 件のコメント:

  1. 我が国の平和憲法は、太平洋戦争で兵士民間人合わせて約300万人もの犠牲者を出したことから、極々自然な国民感情を背景にして成立し、アメリカも二度と日本人に武器を持たせるべきでない、との思惑から、指示または静観した結果、成立したものだろうと思うのです。
    しかしその後の朝鮮戦争で、アメリカは極東の軍事情勢から、方針を変え日本にまず警察予備隊を創設させました。
    これら進駐も含めたアメリカの肩入れが無くて、平和憲法だけで、敗戦後の日本が安全を保つことが出来たかどうかとなりますと、仮定の話ながら、当時から続くソ連の覇権主義や、不安定な極東情勢を見ても、どうしても疑問に思われてなりません。
    しかし一方、平和憲法があればこそ、アメリカも日本に軍事協力を強いることができなかった訳ですし、その結果、日本人は戦後74年間平和に過ごすことができたことは事実ですね。
    こうしてみますと、日本の平和憲法は、正に大きな犠牲の上に成り立った、奇跡的な憲法であると言えますね。
    緊急避難的自己防衛は、緊急避難の必要な時にのみ実行すれば、そこで初めて憲法以前の問題と成り得るのかも知れませんね。
    獣DNA論を含め考えてもみても、とても難しい問題ですね。 

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    1. 戦争を体験した者と、話で聞いた者との違いはあるとは思いますが、国を治める議員総てが女性であれば、世の中の闘いは、なくなるのではとおもいます。男はやはり獣DNAもってますよね。(笑)

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