2017年8月23日水曜日

№1164 宗教


  ある宗教団体の女性の方が、小冊子を持って尋ねてこられた。聖書も解釈の違いによって、こうも違うものなのかと思うほど、かなり考えが片寄っている。まず、選挙には行かない。この世は、神が治めると。本も読まない、輸血もしない、「この世は将来戦争も病気も、死も無くなり、地球上の生き物総てが仲良く、永遠に幸せに暮らせる世の中になります」と断言される。
 こうした説明を以前お聞きしているので、それ以後は、「私には私の宗教がありますから」と玄関先で、お断りしている。

 色んな宗教があるのは当然だし、信仰の自由も当然だが、こうした変わった宗教にのめり込んで行くという心理のほうに興味がわく。

 私はどちらかというと、信心深い方ではない。そうかといって、宗教をまったく軽蔑しているわけではない。進化論や化学の発達で、あの世の極楽や地獄を否定しつつも、この世に生まれた以上、大自然の力というか、どんな生き物や生物にも、命をふきこんでくださっているのだから、神としか言いようがないものの存在があって当然と思う。総ての生き物は生かされ還元されて地球の一部となっていく。土となり、石となり、或いは水となって……。

 どんな動物であっても、植物であっても、命をつないでいくすべを持っている。不思議なことだ。動物のように、脳があるわけではない小さな花の種をじっと見つめながら大いなる神の存在を感じたのでした。

4 件のコメント:

  1. わたしは、人間が宗教を激しく信じ込むには、どのような環境が必要なんだろう、と考えたことがあります。 まず、貧しい生活を強いられる地域、を考えてみました。 中東のような、瓦礫と砂漠の多い地域の庶民達、つまり自然と耕作による作物に恵まれず、厳しい自然と常に対峙して生活していなくてはならない環境。 このような地域であればこそ、他者への攻撃的な宗教が自然発生し易いのでは、と。 これはやや後付け的要素もありますが、簡単に書いてしまえばこのようなことなのです。
    それとまた、教育の問題、識字率の問題も、これらの環境に連携して絡んで来るように思われます。 
    ただしかし、現代の生活の中で、宗教を説いて回っている人たちには,それらの環境は該当しないのですね。 衣食足りて穏やかな姿で、宗教を説いて回っています。
    そこで少し話をしてみて思いましたのが、そのような方たちは、学校の勉強は一応しているものの、どうも青少年になってからの、読書の習慣が希薄な感じがするのです。 多くの本を読んで、自分の中に大いなる想像力を植え付ける、この、想像力という面で、何か大きく欠落したものが有るように感じられるのです。 想像力の矮小さが無ければ、説得された時点での納得には繋がらないと思われます。
    そして宗教を信じ込む、ということは、この複雑な現代を生き抜く上で、多くの矛盾に目を閉じることによって得られる強さを、それらの人達は得ることが出来たのだろうとも思うのです。

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    1. 親が、子どもを連れて、布教している姿などみますと、子どもが気の毒でなりません。本人は、総は感じない鴨しれませんが。多分、聖書と教科書いがいの本は、あまり読んでないでしょうから……。

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  2. 洗脳というのは恐ろしいものだと思います。繰り返し脳に叩き込まれることによって、確信してしまう。自分は正しいと信じると後戻りできない状態になります。オーム事件も関与した人は最高教育を受けた頭のいい人たちでした。

    この世に人間を超える存在があることは私も信じますが、それは人間を罰したりご利益を与えたりするものではないような気がします。

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    1. 洗脳は、ほんとに怖いものですね。
      拝んでご利益があるとは、私も思えないのですが、私はその場にいけば、やはり、手を合わせ、家族の健康など拝んでいます。(^^)
      神や仏には、誓いをする、ということがいちばんいいと思いますね。

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