2017年12月4日月曜日

№1186 報道で思うこと

 元横綱、日馬富士の事件がこれでもか、というほど毎日ニュースで取り上げられていた。今だに関連したニュースが流れている。「どうしてこんなことになったのか?」と、相撲関係者の中でも囁かれているようだ。ご本人も、事件のあと、土俵にもあがっていた。「こんな大きな事件になるとは思っていなかったので」と。

市井の人なら、たとえ新聞記事になっても小さく載ることも、有名人ともなれば、大事件となるのだから大変だ。

 私の思うに、大きな事件にしたのは、報道関係と思う。どの局も、毎日トップニュースで報道していたのでは、大事件に成らざるを得ないだろう。そうした責任は、報道関係の方々は、感じてはいないようだが……。

 日馬事件だけではない。良きにしろ悪きにしろ、ちょっとした失言を取り上げて、その人をこき下ろす、或いは政治そのものを変えてしまうことも今までにはあった。要人は心すべきだ。

 コトバは、たしかに大切だ。その人の人格まで崩壊することもある。ただ、人間は、いつもいつも正しく緊張して心境を吐露しているわけでもない。ハンドルに遊びがあるように、コトバにもそうしたものがあるだろう。時と場所を考えねば、ということだろう。

いい人間関係というのは、心のつながりを感じるような話し合いが出来る関係と思う。たとえ話の内容が怒りや苦い感じのものであっても、生きるための「塩」になるだろう。人を教育する立場の者には、そうした関係が不可欠だろう。長く生きてくると、生きていく上での「人間関係」の大切さが身に沁みている。

 

6 件のコメント:

  1. 報道は万朝報以来、いや瓦版以来の習性を引きずって、最早DNAに書き込まれている。従って私は新聞記事や報道を絶対信用しないし、また進んで読みたいとは思わない。とくに署名記事以外はすべて疑ってかかる。憲法が保障する報道の自由は、その報道が正しいという条件付きであることも無視している。嘘でも平気であり、針小棒大に膨らませることなどお手の物だ。戦前、世論を戦争に導いた責任の一半は時の新聞にあるとは周知のことだが、その過ちを反省することなく、未だに国論を弄んで無責任であることは、彼らに歴史に学ぶ習性がないことの表れだ。
     ヤクザの殺し合いでさえ数日の記事生命だ。隣で核戦争が勃発するかもしれない重大時に、些細な喧嘩の報道を続ける輩に、報道に携わる資格はない。こんなに歪んだ事態を憂慮し警告する報道さえないのは、あるいは亡国の兆しかも知れない。

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    1. 一歩庵さんのおっしゃるように、報道は、昔から変わることないんですね。警告する報道もないのは、ほんとに情けないですが、亡国の兆し
      ですか。怖いですねえ。

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  2. わたしも実は、報道関係の者との接触は多い方だったのですが、大新聞と言われる各社の記者にしても、一言で言えば、ようするに一般大衆に内容が受けて、新聞が売れさえすれば、彼らはそれで全てが良い訳なんです。 新聞紙上に麗々しく書かれているような、正義感や道徳観は、元々余り持ち合わせてはいないようです。 TVの報道カメラマンにしても編集者にしても、同じことが言えます。 自分の視線で物事をまとめて行き、それが如何にも唯一の事実であるかのように報道するのですね。 わたしの知ってる時代では、NHKの記者が、少しはマシかな、と思っていましたが、最近はそれも良くは判りません。
    一般の人達は、実情は判りませんから、活字や画像を信じてしまう事が多いようですね。 

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    1. 今は厳正な試験の合格者が入社しているのでしょうが、T新聞の昔の記者が言ってました。試験問題を凄く難しくするのだそうです。皆が「出来なかった」と諦めます。それから、お偉い方の口利きや、つてで頼まれた方を入社させていたと。いいかげんな方も入社していたんですよね。

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  3. 何でもない事を書きたてる。おもしろおかしく書くものだからみんなが喜んで読む。新聞が売れる。新聞社としてはそれでいい訳。そこをわかつて読まなければネエ。新聞に書いてある事が絶対なんて思うと大間違いなんだけど、どうもそこら辺が分かつていない人が多すぎますね。

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    1. 新聞を信じて読む人はまだまだ多いですねえ。
      隅から隅まで読む人がいるけど、もうそんな気にはなりませんので、私は死亡欄だけ見て、あとは、読みたいところだけ読むという雑な読み方なので、ときどき大切なことも、読み落としています。(笑)

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