2017年12月10日日曜日

№1187  ボランティア


  街中を車で走っていると、同じ襷をかけたり、或いは揃いのチョッキを着た方たちが、落ちている塵、ゴミを拾っていたり、公園の草取りをしているような情景をよく目にする。「あ、ボランティア活動をされているんだな」と思いながら走り去るのだが、そうした活動をあまりしてこなかった私としては、「ご苦労様です」と声をかけたい気持ちになり、感心してしまう。

 あるご夫婦は、【いつも目を輝かせていよう】というのがモットーとかで、ボランティア活動によく参加されている。ボランティア活動は、生きがいに通じているともおっしゃり、「元気で明るいのが一番ですわ。人間って、内面が輝いていたら、何を着ていても清潔でさえあればおかしくない。だから、おしゃれには無関心です」とおっしゃる。(でも陰で奥さんは、「お気に入りの服があれば、高くても安くてもすぐに勝手に買ってしまうんよ」と)ふふふっ。

 私も初心を振り返ってみると、初めて年金が、通帳に振り込まれたのを手にしたときは、やたら有難く、働けるうちは、少しでも世の中のためになるようなことをしなければ、と思ったものだ。と言っても、私のことだ。硬苦しく考えたわけではなく無理なく出来ることがあったら・・・といった程度のものだが。

でも、私的にしたいことが多くなり、けっこう忙しくなってきた。お金になるような仕事ではないけれど、ボランティアとは言えないだろうなあ。ほとんどが好きなことをしている、というようなことばかりなので・・・。

 思うのだが、【ボランティア】の核に有るものは、人間同士の愛情だと思っている。懐の深いひと、豊かな愛情にあふれている人は、止むにやまれぬ思いで、外国にまで出かけて人助けをしたりしている。自分や身内だけにしか愛が及ばぬ人は、他人さんのためにタダ働きするのはしんどいだろう。他人のためにどれだけの奉仕ができるか、というのは、愛情の一つのメモリになるだろう。

 自分は?というと、そこそこの事は出来ても、大きな事は出来ない小物で並みの人間。世の中には、並みの人間は、山と居られるだろうが、積極的に【ボランティア】をしている人は少ない。なんとなくテレもあるのだろう。ただ言えることは、少しでもやってみると、ボランティアは、他人のためではなく、自分のためにするものだということが、じわじわと心に沁み込んでくる。

このトシになると、グループの足を引っ張るようなボランティアなど、したくても出来ない。でも、曲がった腰を手でさすりながらも、ボランティアに精出す方の気持ちが良く解るのだ。見習わなくちゃぁ・・・。

 

2 件のコメント:

  1. ボランティアとは、全くわたしには縁の無い言葉です。 毎日毎日、ただ自分の生活の為だけに商売をし続けていますから。 しかし被災地でのボランティアの人達の活動を見ていますと、頭が下がる思いがしますね。 わたしも定年退職をしたら、ボランティア活動でもしてみたい気もしますが、その時は86歳ですから、何の役にも立たないでしょうね^^; 「おじいさん、気を付けて家に帰りなさい」と言われるでしょうね。 先日、先が小さく4つに分かれた杖を突いた男性が、バリアフリーの役所の坂を下りていたので「大丈夫ですか?」とつい声を掛けてしまいましたら、「はい、大丈夫」と元気な声で返事をされました。 後で、要らない事を言ってしまったかなぁ、とか、何処かの宗教の勧誘かと思われたか・・などと暫く考えてしまいました^^;

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    1. 大きなことでなくても、老人への心くばりなどは、ちょっとしたボランティアに通じるものですが、これは難しいですね。うっかり席でも譲ろうとしても、「年寄り扱いされた」、と思われたりしますものね。
      その点、私ほどのトシになりますと、すぐに座席を譲ってくださいます。ゆずられますと、たとえ一駅でも、座るのが礼儀?と思って座ります。(^^)

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