2016年8月15日月曜日

№1076 忘れてはいない終戦記念日


  今、70年余りの歳月を巻返しながら、やはりかなりなものだと、あらためて感心している。でも、忘れてはいない。

 もし、「今までの人生の中から十枚のスライドを」といわれたら、私は間違いなく終戦の日の一枚を入れるだろう。私にとって終戦は、強烈なショックだった。

しかし具体的なことは、かなりの部分が剥げ落ちており、はっきりとしないのだ。だが、いかにぼかしのスライドになろうとも、何とも名状しがたい感慨が心中渦巻いており、私の中の貴重な一枚であることには変わりない。

 ……その時私は女学校三年生。815日といえば当然夏休みのはずだが、そんな悠長なものは返上して、松根掘りや芋畑と化した運動場で、唐鍬をふるう毎日だったように記憶している。たしかその日は、「重大放送を家で聞くように」と、早ばやと帰された。

 家に着くと、緊張した耳に、ガーガーというラジオの雑音が入った。古ぼけたそのラジオは、それに似合った整理箪笥の上に載っていた。その前には、家族以外にも、二、三人はいたような気がするのだが確かではない。

 よくは聞きとれなかったが、戦争に負けた、戦争が終わった、ということは理解出来た。

 みんな、「死なずにすんだんだ……」心中そう思っていたのはたしかなのだが、誰一人喜びを表すことはしなかった。かなりの時間、大人たちは泣いていたような記憶がある。みんな、大声では泣かなかったが、我慢している分、鼻がやたらにぐすぐすと音をたてていた。(今日までの、多くの兵隊さんたちの死は、犬死じゃないか!我々も、何のために鍋釜まで出して頑張ったのか!)という悔しさが、みんなの頭の中で渦巻いていたのだろう。

 私も涙がわいて止まらなかった。思えば小学一年生のときに支那事変勃発、物心ついてからは戦争戦争である。「最後の一人になるまで戦う」ことを、信じて疑わなかった筋金入りの「軍国少女」であるから、眼の底が洪水になるのも無理ないことである。

 今から思うと、十五才にも満たない子どもが、「討ちてし止まむ勝つまでは」などと口走り、お国のために死ぬ覚悟が出来ていたというのだから、恐いといえばこんな恐いことはあるまい。教育次第では、骨の色まで変えられる、ということかもしれない。

 しかし、ひと月もたつと、自分たちにも、平和と自由があたえられたことを、じんわりと感じはじめたのを覚えている。それまでは外来語のようでもあり、惨めったらしくもありで、使えなかった「敗戦」ということばにも馴染めだした。

 戦後の衣食住の苦労は、戦中よりひどいものだったけれど、平和という安心のチケットを握っていたためか、気持ちの中はカラッとしたものがあった。

 こうした戦中・戦後の強烈な体験は、私の性格形成に何らかの関わりがあったと思っている。「死を覚悟」などと大げさなことをいったが、それは建前であって、本心は正直いって、「本土決戦で玉砕」など、恐くて恐くてたまらなかった。戦場に狩りだされる男性を見送りながら、(オンナでよかった……)と思ったものだし、そのうち神風のようなもので、敵は全滅、日本は勝つにちがいない、と信じて疑わなかった。そう思うことで、恐怖から逃げていたのだろう。だから私にとって敗戦は、神風だったといっていい。

 私はいつの頃からか、逃げの姿勢で物事に対してきたようである。困ったこと、心配ごとに出くわすと、すぐ楽天という大風呂敷を広げて包み込んでしまう。そんな大風呂敷を背負って逃げるスタイルは何かに似ているが、私の「小心で神経質」という本来の性格をなだめすかしてきたのがこの姿勢である。「今に神風が……」の残党のようでもあり、ウイルス菌のようでもあり、どうも一生付き合う羽目になりそうだ。

 

4 件のコメント:

  1. 21年というのはやっぱり長い月日ですよ。私はその時、家にいました。学校では附属病院で実習という名前で空襲で怪我した人たちのお世話をしていましたが、何しろ食べるものがないので、8月に入るなり夏休みだから家へ帰れと言われたんだと記憶しています。電車もろくに動いてない中どのような経路で帰ったあのかよく覚えていません。
    誰にもラジオを聞けとは言われなかったので、玉音放送は聞いていません。後で考えるとその時間帯、私は道路を歩いていたような気がします。家に帰ると妙にしんとして、誰も戦争の話はしませんでした。

    世の中随分変わりました。毎日何のことなくご飯が食べられるなんて、いい時代になったというべきでしょうか?スマホだ、ボケモンだ自動運転だと騒ぐ世の中が来るとは思いませんでした。これからどうなっていくのか明日の事は分かりません。

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    1. ほんとに、これからの世の中は、どんなになっていくのでしょうか。想像もつきません。あまりにも変わりようが早くいので、自分の死後の世の中が想像できません。何となく寂しいですね。

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  2. その日はわたしは約7ヶ月の赤子でした。親の疎開先の、田圃の中の家で這い回っていたようです。小さい頃、上空をアメリカの戦闘機が良く飛んでいたことを憶えていますが、朝鮮戦争の時期だったようです。終戦後、兵隊に取られていた父親が、生きて鹿児島から帰ってきたことは、我が家に取ってとても幸運なことだった気がします。同級生に親が戦死した人が何人か居ましたから。
    戦争と教育の話は、レマルクの「西部戦線異状なし」が代表的な感じがします。無責任に、兵役への勧誘を高校の先生がしますね。大体、自分は最前線に行く心配のない者ほど、勇ましく戦争の必要性など説きますね。

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    1. アメリカの兵隊は、学生時代、国から借りた学資が返せないので、兵隊になっている人が大勢いると聞きましたが……。何だか悲しい話ですねえ。
      日本は、かなりの年増まで、赤紙がきました。私の父なんか、支那事変でしたが、けっこうトシはいってましたね。
      これからは、赤紙などは来ないでしょうね。兵役のない国ですから。

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