2018年9月6日木曜日

№1215 災難続き


  今日は、北海道で大変な地震があった。私の生まれた帯広は、大したことはなさそうだが、室蘭や札幌には今もお付き合いしている親しい友人がいるので気が気でない。すぐにでも電話をして安否を確かめたいのだが、例えば家の中を想像すると、戸棚の中のものが飛びだしたり、窓が壊れたりしていたら、今頃は、てんやわんやだろうと想像して、電話などかけては悪いと思い、我慢している。

 台風が異状に発生して大暴れしたり、大地震に襲われたりと、次々に災難が続くと、地球の怒りが爆発したのではないかと思ったりする。地震は、地球の温暖化とは無関係なのかもしれないが、台風や大雨などは、私たちに責任があるような気がしてならない。吹きつける風雨は、「バカ者」「コンチキショウ」と叫んでいた。もう、人間は住まわせたくない、と地球が怒っているのでは・・・。

 残り人生が少なくなってくると、目には見えないようなモノに心惹かれるようになってきた。信仰心などなかった私でも、神仏を信じたいと思うようになるし、青い空を見ると、何かを語りかけてくれる。毎日働かせている洗濯機も、その日によって違う言葉を伝えてくれる。小鳥の囀りもしかりだ。

 実際は、私の気分しだいの勝手な想像で楽しんでいるのだが、そんな時間がとても心を和ませてくれるのだ。

 

2018年9月2日日曜日

№1214  老いの坂道


  近く、米寿を迎えようとする私め、最近はこの坂道の険しさを実感している。

 老いを感じ始めたのは、60歳を過ぎた頃だろうか、その頃は、ぽつぽつと坂があっても、下ることも出来た気分だったのだが、70歳にもなると、何があっても元には戻れないことが多くなった。ある程度は戻っても、完全には戻れないものだから、自然に老いが積み重なって行く。

 坂道が急勾配となってきたのは、80の坂を越えた頃からである。一年の足跡がはっきりと目に付く。ところが、85歳を過ぎてくると、一か月、いや、一日一日が目につきはじめるようになってきた。

ふた月程前、転倒した。その時は、骨も折れず痛みもさほどでなかったが、歩きにくくなってしまった。別に骨の異状があったわけでもないのに、足元がおぼつかない感じなのだ。それ以来、歩くことには、とても慎重になっている。

 ところが、またして昨日、買い物をして、ダンボール箱に詰め込んで、それを抱えて駐車場に出たまではよかったが、足元が見えなかったため、駐車場の車止めが目に入らずそれに躓いて前のめりに派手に転んでしまった。むろん両膝を付いたのですりむけている。膝のお皿が割れたと思ったが、起き上がって歩けたので、お皿は無事だったようだ。おかげでまた歩くのが慎重に成らざるを得ない。気分としては、杖でも突きたい気分である。侘しいものだ。

 同級生の仲良し10人が、10年ほど前から、毎月集まっておしゃべり会をしていたのだが、すでに亡くなった方が3人、体調がよくなくて集まれない方が1名で、残る6名も杖使用者4名、となってしまった。そのうちのひとりである私は、足元がおぼつかない始末。元気いっぱいはSさん一人だ。私が忙しいこともあって、8月は休会しているので、(我が家が会場) 皆さん、今月の集会を、「無理せんとってね」と言いながら待ちわびてくれている。寄ったら笑いの絶えない楽しい会だ。老いの坂道なんのそのだ。愚痴など言ってはいられないなあ・・・。

 

 

2018年7月7日土曜日

№1213 地下鉄サリン事件


地下鉄サリン事件に係わったオウム真理教の教祖、麻原彰晃と、その弟子数人の死刑が行われたニュースが世界を走った。このサリン事件は、忘れられない事件なので、当時のことを思い出して、いろいろと考えさせられた。

裁判のとき、「弟子たちが止めるのを聞かずに暴走した」と言って責任を弟子になすりつけた卑劣な男が、いかに出鱈目な宗教団体といはいえ教祖であったのだから、教祖を信じて入団した人たちは、本当は気の毒な人たちだった。弟子の中には、人殺しにかなり抵抗があったと弁明していた人もいた。

入団し、マイルドコントロールされていくうちに、人を殺すことが平気になるのは、不思議ではない。こうした経験者と、麻原彰晃と並べて同時に死刑執行というのは、何となく腑に落ちない。罪の重さも同じように感じられるからだ。

死刑囚となった弟子たちは、深く反省しているだろうし、教祖ほどの卑劣な人間ではないだろう。せめてこの世のために何かを残してもらいたかったと思った。

戦争の殺し合いも似ている。長年かけて、国のためなら、人殺しも出来る人間になっていく。死刑廃止を唱えるのも、決して悪いことではない。そうしたことを唱えるのであれば、戦争など、決してしない国にならねばならないだろう。

2018年7月1日日曜日

№1212  お久しぶりです


シッチャカメッチャカの毎日が続いていました。言っても仕方のない体調不良、(これは、トシのせいで、血圧の不安定のためによくふらついたりして、久しぶりに医院に行きました)

また、月末にあった中高大学の演劇祭にシニアの私たちの劇塾が出演しましたので、(私はお手伝い)多い時は週4日も夜出かけたり、おまけに、薄暗い中で転倒して肩を打って片手が上がらなくなって、5日ほど不自由したりの失敗もありました。

庭は、雑草が天を突く勢いで伸びますから、手に負えず、知人のお年寄りに来てもらって草取りをして頂きましたが、この暑さ、せいぜい午前中ですが、何かと気遣いもあります。

自分の身の回りのことも、以前は1時間で出来たものが、2時間かかるほど、根気も、勢いもなく、鈍間になっていますから、何をしても時間がかかります。やはり、米寿というトシには勝てません。この梅雨時の気温の変化について行けなかったのか、3日前、入院されていた親しい同級生が亡くなりました。だんだんと寂しくなりますが、残った者同士、もう少し、元気でガンバろうよね、無理せずにね、と言いつつ別れました。もう、無理しないで出来ることは、あまり有りませんが、イヤなことはしておりません。(笑)

といったような現状でした。7月に入りましたので、気持ちにカツを入れて、ブログももっと書きたいと思っています。(*^-^)

 

2018年6月10日日曜日

№1211 ニュースをみながら


昔、〝七つ下がりの雨は止まないという諺があったが、これは、ある年齢からの、のめり込みを危惧したものによく使われてきたようだ。例えば年寄りのイロコイののめり込みや、博打等によく使われたようだ。

何かを心配させるようなことは、色恋や博打に限らない。近頃の雨の降りよう、お天気のこと、あるいはいつ新聞を開いても、汚い地金を見せつけられるような記事など等が続くと、いったいこの先、どうなるのかと危惧するものである。

大自然の災害も、人間の力の及ぶところではないとは言いきれなくなってきた。気温の上昇なども、環境汚染などによるものも大きく、そのツケが回ってきたに違いない。

また人間社会においては、その人の質や格の良し悪しは、なかなか見た目では分かりにくい。反物のように裏、表など確かめはできないし、その人間の持つ器というか、持って生まれた天性のようなものもあるだろう。人を選ぶことの難しさも良く解る。

とはいうものの、何であれ、トップに立つ人たちの良し悪しによっては、その傘下にある人たちを幸せにも不幸にもさせてしまうことがあるから怖い。

最近のニュースをみながら、思ったことをちょっと書いてみた。

 

2018年6月1日金曜日

№1210 同窓会


  お久しぶりです。やっと、総会やら、同窓会も5月末には終わり、欠席者にも資料を送り、一息ついています。一年ぶりの同窓会は、やはり、かなりの変化がありましたが、何とか、無事に開くことができました。(パソコンをしているということで、世話人を仰せつかっています)少し長くなりますが、ちょっと私たちの同窓会の説明をしておきます。

昔、徳島師範学校という学校がありました。今の徳島大学の前身です。私は、その師範学校の最後の年に卒業しました。

学生時代は、まだ戦後のどさくさ時代だったので、180名余りの同級生の年齢・前歴は、まちまちでした。旧中学校卒、女学校卒、代用教員の経験者、インテリ学生にミーハー族、会社員を止めての入学者、左翼運動の闘士、そして元兵隊の復員者などは軍靴を履いての通学でした。予科練の七つボタンの制服を着た姿などは何人も机の間をまかり通っていた時代でした。

豪傑も多く、それまでの師範学校生とは、かなりの違いがあったので、先生方は随分と手を焼かれたらしいのですが、その一面とても伸び伸びとした個性豊かな学年だったように思います。

 私などは、まるで子どもで、一部の学生のしっちゃかめっちゃかな行動に、眉を顰めたりしたものです。でも、今となっては、決して悪くはない体験でした。

そして昭和253月、めでたく全員卒業し、ほとんどは県内外の教員となりました。

教員となったものの、初任給で皮靴一足が買えなかったのですから、当時の生活は大変でした。なりふりかまわず、髪振り乱して働いていた、という時代です。

卒業後、始めて同窓会の通知をいただいたのは、卒業から、20年も後のことでした。その時の写真には、恩師数名を囲んで、真面目な教師らしい顔が並んでいます。暴れていた学生時代の顔とは違い、変われば変わるものだと感心したものです。

その後、思い出したように数回の同窓会を開いてきましたが、全員60歳を過ぎ、退職してから開いた同窓会で、『これからは同窓会を毎年やろうじゃないか。毎年会うたって、しれとる、回くらいしか会えないぞ』という提案が出ました。この提案は、みんなの耳をくすぐり、すぐに賛成の声があがりました。平成2年春でした。

その場で色々な規約が作られました。世話役は県内郡市が交代でする、昭和25年の卒業生ということで、【二五師会】という名で出発する、毎年5月か6月頃開く、など等が決まりました。二五師会は、規約通り、その後は毎年開かれました。

平成226月、卒業以来、25回目の同窓会のときのことです。『もう同窓会は、来年で最後としよう』という話が出されました。無理もありません。10回が20回も開くことができましたし、トシも80歳を越したのですから。

翌年、出席していた者の多くから、『まだまだ同窓会は続けられる、続けたい』という希望もわきあがったのです。そうした希望者だけで、再び同窓会は続けることとなりました。【二五師友の会】と名付け、世話役数名が中心となり、発足することとなりました。

平成24年、再出発のような友の会の発足。今年528日には順調に7回目の友の会を開くことが出来ました。現在会員46名海を越え、毎年集まって下さる方も数名いましたが、今年は1名となりました。昨年出席された方の内、4名の方が亡くなりましたが、30名の出席。話も弾みました。トシを寄せてからの同窓会は、心が開かれて和やかなものです。

 同窓会の話題といいますと、よく昔の思い出話に花が咲きますし、もう忘れていたようなことを思い出させてもくれます。

 何といっても嬉しいのは、健康で活き活きと活動している人たちから、元気を頂けることです。今だに山に出かけたりしている方は、姿勢から違います。そのためのトレーニングなどしているのですから見上げたものです。「人生を楽しんでいる」というのがぴったりです。長い年月を、ある時は競争し、ある時は憎み合うこともあったであろう人生から抜けて、面白く楽しく生きている、というのは、素晴らしいことです。見習いたいと思っても見習えないのが玉に傷ですが、そんな大きなことでなくてもいい「何か自分もしてみたい」という気分になれるだけでもいい刺激です。

また、一年の重みを、いやでも知らされるのも同窓会です。もう出席は出来ない方も、ぜんいんに近況報告を書いていただくので、終わった後から送くる資料を楽しみにし、皆さんの様子などを読んで、寝たきりも、自分一人ではないことに、力を得ているようです。隣に座っていたAさんが、『ここ数年は、同窓会で会うたびに、友達の変わりようを見て、自分の変わりようを知らされる』と囁いたことは、私も同感でした。それは当然のことです。幼児が成長していく急カーブのように、私たちの老化のカーブは急降下していくのですから。同じ一年であっても、六十代七十代のそれとは違います。ある学者さんの本に、【幼少時の一年は、大人の十年に匹敵する。八十代になると、その反対だ】と書いてありましたが、それは私らの一年は、若者の十年に匹敵するということです。八十代にもなりますと、自分で自分を見る鏡は曇りがちで、正しく自分を見つめることは難しくなります。でも、同級生の言動で、それなりのトシを認識出来、自分の鏡の曇りを拭うことができます。むろんそれは顔形だけではありません。

このような刺激を受けながら、人生の終焉を覚悟し、諦めと寂しさを克服していくのです。それは、これからの毎日が、大切な黄金の日々であることを自覚し、幸せに生きていかねば、という決意にもつながっていきます。

とはいいますが、もう全員が90歳前後の者ばかりです。会員は毎年減っていきます。これは致し方ありません。

長くなりましたので、このあたりで終わりますが、皆さん、全員が、来年の友の会を待っている、とのことでした。頼もしいことです。o(^^o)(o^^)o

 

2018年5月1日火曜日

№1209 暫く休みます

ブログをしばらく休みます。ブログの調子が悪くなりましたのと、忙しくなりました。