2016年12月21日水曜日

№1113 好き嫌い


  好き嫌いといえばまず食べ物を思う。最近の子どもたちは、好き嫌いが激しいというよりは、好きなものばかりを食べてきたので、食べられない、ということが多いのかもしれない。

「食事に文句をいうな!」……親からこう言われて大きくなった私は、文句は言わなかったが、今なら大いに言いたいところである。今更、祖母や母を責める気など毛頭ないのだが、子どもの頃の我が家の食卓は、一向に変わりばえのしない毎日だった。けっこう肉や魚も食べていたから、粗末とは言えないのだろうが、目先の変わった料理などにはご縁がなかった。

 お菓子などの間食には欲があったが、食事となると毎度箸を持つと食欲がすぼんでしまうものだから、ひ弱な病気持ちのような子どもだった。毎学期渡される通信簿の身体検査欄には、「栄養要注意。肝油、太陽燈を続けること」と、いつも記載されていたのもだ。だから、毎日保健室に行って肝油を飲ませてもらい、週に何度かは、上半身裸になり、水泳のゴーグルのような色メガネをつけて、臭い太陽燈を浴びていた。今から随分昔だが、学校には、高価な太陽燈という、学校自慢の設備があったのだ。太陽燈室は、いつも満員で待時間が長かった。

 もう、祖母や母のお化けが出てきそうもないので言うのだが、「好き嫌いして何でも食べないから太れないのだ」と、よく叱られた記憶はあるのだが、(何とか工夫して食べてもらおう)などといった親側の努力はあまりなかったように記憶する。これはどことも似たり寄ったりで、そんな時代だったように思ってきたのだが、安川家に嫁にきて、その考えがちょっとばかり変わってしまった。私と年の違わない夫の子ども時代の食生活は、私のそれとは〝月とすっぽん〟の違いがあった。理由はすぐ解った。母親が料理好きの研究熱心なのだ。だから、見た目も味もいい。レパートリーも豊富ということになる。そんな家庭だから、デパートの食堂などで外食もよくしてきたらしい。

 私も子どもの頃は、市内の真ん中に住んでいて、ときには母親とデパートに行ったこともあるのだが、外食をした記憶はまったくない。当時の我が家の経済は、外食が出来ないほど貧しくはなかったはずだが、外食などは贅沢千万と思っていたのだろうか……。家の近くでは、うどん屋の暖簾や食堂の看板もよく目についたが、そんなところとも、まったく無縁で大きくなった。

 そんな私だが、小学三年生のとき、母親と汽車に乗り、降りた駅前の食堂で、生まれてはじめての外食をする機会に恵まれた。食べたのが親子丼で、ほっぺたが落ちるほどに美味しかったのが忘れられない。今にして思えば、味わったこともないあれやこれやを食べるチャンスに恵まれなかった、ということにもなるのだが、今でも食堂で「親子丼」という貼り紙を見ると、幼な友だちに出会ったような気分が心中をうねっていく。丼ものを注文するよりは、いろいろな野菜などの組み合った日替わり定食などを注文することが多いので、以前のように親子丼を注文することはなくなった。けっこう食事のバランスも考えている。ただ、卵がからだによく、いくつ食べてもよいという今の栄養学を信じ、一日に3個は食べている。

 戦後七十余年、食文化は随分変わってきた。子どもの体格と平均寿命を引き伸ばし、そして外食産業なるものも生み出してきた。しかし、幼いときの経験が、その人の生き方に、少なからず影響する、ということは、どんな時代になってもまぬがれないようだ。子どもの頃から三度の食事に胸を踊らせて大きくなったという夫は、人生の楽しみの中で、「食」は大いに幅をきかせていた。おかげで、貧しかった私の舌も、恩典をたくさんいただけたと思っている。今は、美味しいものを食べたいとはあまり思わないが、美味しいものを食べると、(夫にも食べさせてやりたい)という思いがよぎることがある。

 

 

 

4 件のコメント:

  1. 肝油、太陽燈。 肝油は、わたしの子供が小学生の頃、夏休みだったか、学校から持って帰ってましたから知っていますが、太陽燈は初めて聞きました。 わたしが小学生の頃は、戦後6年目から12年までの間ですから、ごまめさんが小学生の頃よりも、学校自体が貧乏だったかも知れませんね。 家での食事は、野菜の煮付けが多かったような記憶があります。大根と人参の煮付けが大嫌いでしたから、良く憶えています^^; たまに自家製のうどんが出ましたが、我が家では「代用食」と何故か呼んでました。 そして我が家の4人姉弟は、大好物が、2人づつカレー派とトロロ派に分かれてまして、わたしはトロロ派でした。 小学生の間の外食は、デパートでのお子様ランチのみです。約2時間SLに乗って行くデパートですが、子供心に、盆と正月が一緒に来たような喜びでした^^

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    1. 太陽燈は、当時市内でも、私の通った小学校だけでした。10人位が輪になって入って、紫いろの臭い光に当たっていました。太陽の光の一部でしょうが、はいっていても、肌はこげたりはしませんでした。何だったのでしょうね。

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  2. w私が生まれたのは昭和3年の2月。兄弟8人。跡取りの兄とは20歳も年が違って、兄には子供が7人。それだけの子供を食べさせ、それなりの教育をつけるのは、大変だったろうと近頃つくづく思うんですよ。

    おりしも農村恐慌。戦争前夜です。好き嫌いも外食も蚊帳の外の事でした。半分お麦の入ったご飯を食べられ、みそ汁と野菜の煮つけがあれば御の字でしたよ。学校も子供の栄養まで気配りしている余裕はなかったようです。

    時代は変わる糸車じゃないけれど、結構な時代になりましたねえ。

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    1. 戦中戦後の衣食住のことを思うと、どんな状況になっても、それ以上のものでしょうから、怖い者なしですね。結構すぎる時代です。
      今のように、捨てる物が山ほどある日本は、どうかしてますよね。

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