2015年2月11日水曜日

早春の庭


今日も、寒い一日でした。でも、庭には早くも雑草が芽吹こうと頑張っているものですから、私としましては、憎き雑草めっ!ということになります。そうは言いましても、同じ生命を持つ植物でありますから、「ごめんなさいね」と言う気持ちで、15分ほど雑草を抜いていました。何しろ、そのままほっておきますと、【雑草園】と看板をあげたいほど、草の生える庭です。しかし、私の今の状態では、15分が限度という情けない状態で、長くは出来ません。足腰が言うことをきいてくれないものですから。

そんな庭の片隅に少しばかりですが、蕗が生える一角があります。まだ寒い初春の頃、萌黄色の襟元を緩め、タガを外した装いで、もっこり枯葉を持ち上げて蕗の薹が顔を出します。

蕗の薹が出始めますと、一つ二つちぎって、香りを楽しむのですが、しばらくすると、そんな愛嬌のある姿からは、想像も出来ない変わりようの逞しい蕗の薹が出来上がり、そのうちに色香の失せた、まるでだらしのない格好の蕗の薹となるのです。これを俗に【蕗の姑】と呼ぶそうです。

お世辞にも美しいとは言えぬ蕗の姑を見て、毎年思い出すのが、歳時記に載っていた、呆けてはならずと思う蕗の薹という俳句ですが、もう、蕗の姑など見なくても、この句は骨身に沁みてしまいました。(笑)

最近思う事があります。友人知人が、次々と病気になったり、おかしくなったりしてきました。病気になるまい、呆けまいと、涙ぐましい努力をしていていた方も、いつまでもふんばれないのが人間だ、と言う思いが強くなりました。

〝呆けてもよいではないか蕗の薹〟という気持ちにならねばならないのです。

「ぼけ」は差別語「認知症」と言うように、などといったとて、気持ちの中に認知症を蔑んでいたのでは、何と名を変えても同じことです。

このトシらなりますと、自分が辿る道と思うので、決して蔑んだりはしません。が、なりたくないの気持ちは、誰しも強いものがあります。

老いは平等にやってくるのですから、もっと素直に優しく自分の中に「痴呆」を受け入れていかねばと思うこの頃です。

2 件のコメント:

  1. 仰る通りですね。明日は我が身ですものね。

    蕗の薹が出て来たので天麩羅するね。昨日娘が言っておりました。春は近いですね。

    タブレッド買ってしまいました。成程コツを覚えるのに時間がかかりそう。今は専らベッドの上でゲームをしています。

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    1. 蕗の薹は、ちょっぴりいただく季節のものですから、やはり頂きたいですね。そう言いながら天ぷらは苦手なので、ちょっぴりおしるに入れるくらいです。(^^)

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