2015年4月4日土曜日

№910 思い出すままに


 子供のころは気が弱かった。遊び道具のゴム紐や、毛糸で作ったあやとりの紐を、「頂戴」と言われると断れず、あげてしまった。祖母が、「この子は、お人よしだ」とか、「やねこい子やなあ」などと言っていたのも憶えている。

反対に、親を困らせるようなことを言ったりしたりした記憶は、思い出せない。そうしたことで、叱られたことが、あまりなかったのだろう。何かを買ってほしいと言って、だめだと言われたらすぐに諦めていたように思う。これも、諦めがよいというよりは、気が弱かったのだろう。

近所の友達も、好い子ばかりではなかった。中には、小学生というのに、ゴム跳びの遊びの最中に、家の中に駆け込んで、湯のみにお酒を入れて、飲みながら出てきて、驚かされたり、近くの廉売の中の瀬戸物屋さんの店先で、可愛らしい魚の箸置きを万引きしたりする子もいた。そんな様子を見ても、「告げ口したら泣かすから」と言われると、親にも言えなかったし、「縄跳びして遊ぼう」と家に誘いにきたら、断れなかった。今のような【虐め】のような怖いことはなかったのだが……。

この時代住んでいたところは、北海道の帯広市内の大通りだったので、商店街だが、道幅がとても広くて、遊び場は歩道が多かった。車道と歩道の間には、幅の広い下水が流れていて、細長い木の蓋が敷き詰められていた。ときどき、その蓋が一つ開けられていることがあった。そこには、ネズミ捕りの籠に罹ったネズミが、籠ごと下水の中に吊り下げられていて、見るのも怖かった。私のネズミ嫌いは、ここが出発点だろう。

歩道には、アカシヤの木が植えられていて、花の季節になると、白い花房がゆれていたのも思い出す。輪ゴムを鎖状につないだゴム紐の片方を、アカシアの木に巻きつけ、一人が片方を持って、高さをだんだんと高くしながら、ゴム飛び遊びをよくしたものだ。

同級生だったMちゃんと、Yちゃんは、大の仲良しで、よく一緒に遊んだ。戦後のどさくさに、一時、文通が途絶えた時期があったのだが、ずっとMちゃんYちゃん、そして担任の先生が気になっていた。

やっと北海道に行く機会を得て、探す手立てを小学校に求め、懐かしい担任の先生の住所を調べていただき、お二人の先生とお会いし、その先生から、MちゃんYちゃんの住所も突き止めることが出来た。あのときの嬉しさ、電話で元気そうな声を聴いた時の喜び、いつまでも忘れられない。

お二人の先生は、もう亡くなられた。知らせを受け、長い弔電を電話口でお願いしながら、泣き出してしまい、「ごめんなさい」と謝ったところ、電話局の方が、易しく「いいですよ。急ぎませんからね」とおっしゃってくださったことも、忘れられない。

Mちゃんのお連れ合い様は、昨年亡くなられて、とても落ち込まれていたのだが、今は、何とか元のMちゃんに戻りつつある。Yちゃんは、お元気だ。Yちゃんも、急に腹痛を起こし、入院というアクシデントがあったが、もう元気になって退院した。お互い、何が起こってもおかしくないことをキモに命じているのだが、いざとなると、うろにきょろが来るようだ。

思い出すにまかせて、後先なく書いているが、どんな思い出もいいものだ。心がほっかりと暖かくなってくる。思い出だけが生き甲斐と言う時代も、いつかくるだろう。(^^)

 

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