2015年8月15日土曜日

№963 戦後70年 その3


☆終戦の日

私はもう何事も忘れてしまうトシになりましたが、70年前の8月15日のことは、今もかなりはっきりと覚えています。ということは、毎年この日がめぐってくると、あの日を思い出して、「平和な日本」に住んでいることに感謝してきたからでしょう。

思えばあの日も、今日のような暑い日だったのですが、暑さなどを苦にするような時代ではなかったような気がします。夏休みも返上で、学校に行き、松根堀りや、芋畑と化した運動場で、唐鍬をふるう毎日でした。

その日は、先生から『重大放送があるから家に帰りなさい』ということで、帰りました。家に着くと、緊張した耳に、ガーガーという大きな雑音とともに、ラジオ放送が入って来ました。ラジオの前には、家族と近所の人が3人ほど座っていました。内容は、戦争に負けたらしいこと、戦争が終わったらしいということくらいしか聞き取れなかったのですが、皆がかなりの時間、泣いていました。大声では泣かなかったのは、多分複雑な気持ちだったのでしょう。鍋釜まで供出し、頑張ってきたことが、水の泡となったのだ。戦死した兵隊さんたちは、犬死じゃないか! 鬼畜米英に、これからどんな目に会うのか、と、不安と悔しさ、死なずにすんだのだ、と言う喜びが入り混じり、何とも言いようのない思いだったのです。

思えば毎日眠れないほどの空腹を抱えながら、何時爆撃されるか、という恐怖や苛立ちも口には出さず、頑張ってきたのですから、戦争の終わりは、悔しさと喜びが交錯するのは、無理もありません。まだ15歳にもならない少女が、死を覚悟していたのですから、怖いといえば、こんな怖いことはありません。教育次第では、骨の髄までも染められるのです。

死なずに済んだことは、この上もなく嬉しいことではありました。死ぬ覚悟と死にたくないこととは、表裏です。ましてや、特攻隊のように、爆弾を抱えて死にに行く少年たちの心境を思うと、今でも涙が出てきます。

ああ、本当に戦争は恐ろしいものです。戦争のない平和国家のありがたさを、噛みしめている終戦記念日です。

2 件のコメント:

  1. ごまめさん、よく覚えていらっしゃいますね。私はあの時看護学校の3年生。大阪大空襲から4か月、、水道もガスも電気も食べ物もない暗闇の中で、死体と死臭にまみれながら、殆んど生きている感覚を失ってそれでも生きていました。死ぬのが怖いと言う感覚もありませんでした。詳しい事はここでは書けませんが、終戦は自宅で迎えました。

    殆んど無感動だったように思います。そうなんだと思っただけ。喜怒哀楽の感情も失っていたのでしょう。

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    1. mimiさんは、すごい経験をなさったのですねえ。人間って、戦地にいっても人が変わって、殺人が出来るようになるし、死体の山をみていると、感覚もへんになるのですね。戦争体験を話したくないという気持ちも判ります。忘れたいですよね、悪夢を思い出したくないもの。
      でも、やはり語っていくべきなんでしょう。戦争の悲惨さを知らないことたちに。

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