2012年8月15日水曜日

終戦記念日に思う


何年も前に聞いた話しだが、 あるお偉い方と大学生が、こんな会話をしたらしい。

「世界第二次大戦を知っているか」

「知らない」

「学校で歴史を習わなかったのか」

「習ったけど、明治維新までしか習っていない」

「そんなはずないだろう。教科書にちゃんと書いてある」

「明治維新のところで三学期が終わったので、先生が、『あとは、自分で読んでおけ』と言ったけど、読んでない」

「日本史は、逆さまから教えたのがいいかもしれんなあ」

まるで笑い話のような実話である。

 

また、広島に観光旅行した女子大生が、こんなことを言った。

「原爆原爆っていうけれど、原爆がなかったら、広島って、何もないところでえなあ」

原爆を有難く思えとでも言うのかっ!と言いたい気分になる。

皆が皆、こんな若者ばかりではないだろうが、こういった若者もいるのである。
これを平和ボケとでも言ったらいいのだろうか・・・。


憲法問題にしても、9条改定反対の理由が、「兵隊に取られたらたまんない」といった程度の若者も珍しくない。


これからの日本を背負ってもらわねばならない若者である。こんな意識を、そのまま、ほうっておいていいのか……、と(古女)の私が言うたところで、どうにもならないのは分かつているのだが、それでも言わずにはおれない気持ちである。


私は、昭和五年の秋に生まれたので、戦中戦後を生きてきた。

とはいうものの、私自身の個人的体験としては、本当の苦しい、悲しい悲惨な思いは、それほどしてきたとは言えない。子どもの頃、ひもじかった、欲しいものが手に入らない、鍋釜まで供出さされて不自由をした、戦後のインフレで貧乏になった、といったことぐらいのものだった。
やはり、戦場で砲丸の中をくぐってきたとか、家を焼かれたとか、爆撃の中を逃げ回った、家族を失った、というような体験をした人たちにくらべると、大きな違いはあるだろう。

それでも、一億火の玉だの、最後の一人になるまで戦うだの、それなりの覚悟は出来ていた。所詮、まだ人生の何であるか、イノチが何であるかもよくは解っていない子ども心での理解であったので、覚悟といっても、それほどの悩みもなくすんなりと受け入れられたのだろう。


とはいうものの、私たち戦争体験者は「平和の有難さ」は、身に沁みている。

終戦を迎え、平和がやってきたときは、生きていてよかった、戦争ほどむごたらしいものはない、どんなことがあっても、二度と戦争はしてはならない、と心底思った。だから、日本国憲法の、戦争放棄や、平和国家への思いは、決して黴が生えたりはしない。


しかも、戦争の恐ろしさは、そのときの犠牲・破壊だけではないことが、私たちは今になってはっきりと分かってきた。それは、単なる人の命や財産を失うだけではなかった。日本のよき伝統や、人の心を愛することも文化も、多くを失ったと思っている。


有史以来、歴史は繰り返している。歴史が証明している通り、この地球は、ほとんど戦いが絶えたことがない。いかにも人間という動物が賢くないことを証明しているようで情けない。


戦争というのは、考えてみると、ただの凡人たちが、戦争をしかけたり、火種を埋め込んだりしているわけではない。総ての戦争は、それを指揮しているエライといわれている人たちがやっていることなのだ。話し合いの解決が出来ないのは、エライと言われている指導者が、人間の命を軽く見ていることに他ならない。


最近、こんな説をよく目にする。

「日本が、アメリカの言いなりになっているという批判をよく聞くが、丸腰の日本がもし、中国や北朝鮮からミサイルを打ち込まれたら、守ってくれるのはアメリカである。アメリカと対等に付き合いたいのなら、日本も核武装して、自分で国土を守るしかない」

「中国や朝鮮にお金だけとられて馬鹿にされるのは、日本に軍備がないからだ。日本もそろそろきちんとした軍備をととのえるべきときがきている」

こういう人たちは、日本再軍備を願っているのだが、はたして日本が再軍備をしたら、それで平和は保たれるのだろうか。

こうした問題は、単に、憲法改正反対だの、改正賛成だのと、軽々しく取り扱える問題ではなさそうだ。世界情勢、過去の戦争原因、等など考えながら、
「これからも日本の国は、世界に誇れる平和憲法を固持し、絶対に戦争はしない国です。平和憲法を守り抜く国です」
ということを、胸を張って世界に発信していくことが、最良の道なのか、それは危険なことなのか、国民が深く考えて見なければならないと思う。

2 件のコメント:

  1. 戦争末期、私は某校の3年生でした。ごまめさんより3学年ほど上だと思います。母校は大阪のど真ん中、堂島にありました。

    3月13日の大阪大空襲も経験しましたし、(幸いレンガ造りの母校は焼けませんでしたが)窓際まで艦載機グラマンが来て機銃掃射を受ける、と言うのも日常でした。今日死ぬか、明日死ぬか、極限状態が続きました。電気水道ガスはなし。寮の横は死体焼き場になっていました。

    そんな状態になると、案外、死ぬことは怖くなくなりましたね。それよりも、何か食べ物が欲しかったです。何しろ、一日に湯呑1杯の炒り大豆だけでしたからねえ。

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    1. 戦争というのは、普通の人間らしい感情や感覚を狂わせてしまうのですね。
      極限状態になると、死ぬことも、殺すことも怖くなくなるのですからねえ。

      都会での空襲体験をされた方たちは、田舎で空襲警報のサイレンだけで終わった体験とは、大違いと思います。

      それにしても、『空腹』というのは、どんなときでも感じるものですね。
      しかも、あのひもじかったことは、忘れられない。(笑)

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