2014年6月15日日曜日

お砂糖


久しぶりにお砂糖1キロ入りを買った。煮炊きには、煮豆か、高野豆腐、干し椎茸の煮つけ以外は、滅多にお砂糖は使わないのだ。砂糖を使わない料理の味に慣れている私は、惣菜売り場の商品の甘い煮つけは苦手である。

お砂糖が買えなかった時代がある。戦時中だ。お砂糖があったらと、何度思ったかしれない。何を炊いても、砂糖なしの味が、不味かった。当時は、母や祖母が煮炊きをしていたので、私は食べること専門だつたが、子ども心にも、「不味い」などとは言えなかった。しかし、そんな味にも慣れたが、たまに、砂糖の配給があったときは、不味い代用食の蒸しパンが、少しばかり、味が上等になって食欲がましたのを憶えている。

そんな時代でも、軍隊には、お砂糖は、十分あったようだ。

私の住んでいたところは、軍隊の駐屯地だった。日曜日には、兵隊さんたちが、町に出てきて、映画を観たり、デートしたりしていた。中には、家庭的な気分を味わいたいために、仮の家庭を見付ける。(といっても、☆1つか2つの下っぱの兵隊さんだが)

我が家も、5人程のグループの兵隊さんが、あるとき、我が家のガラス戸の前で立ち止まり、ぼそぼそと話あっていた。日曜日は、いつも父だけが、店で(印刷屋)ごそごそとしていた。多分『ここにお願いしてみようか?ここなら、気易く休ませてくれそうだ。商売しているけど、当たってくだけろだよ』なんて言っていたのだろう。それを見た父が、「どうぞ、気楽に休んでください。ま、こんな家で好かったら」と、誘い入れた。父は、シナ事変で出征していたこともあって、兵隊さんには、理解があったようだ。

何より私の嬉しかったことは、兵隊さんが、水筒の中に、お汁粉を入れていたことだ。来るなり、昼食用の大きなパンと、水筒の中のお汁粉を差し出す。昼食は、我が家の食事を食べるのだ。それは、わずかのお米とお麦の中に、色々なものが炊きこまれた不味いご飯なのだが、兵隊さんは、それを「美味しいですよ」なんて言って、自分が持ってきた美味しいパンとお汁粉を私たちに食べさせてくれたのだ。今から思うと、兵隊さんが私達を庇ってくださっていたような塩梅だった。

そんな我が家が居心地がよかったのか、それから部隊の移動までの1年ほどは、毎日曜日には、兵隊さん5人が、9時ごろから、夕方まで、我が家で過ごしていた。

「今回が最後になりました。どうもお世話になりました」と、頭をさげられたとき、「ああ、もうお汁粉が食べられない……」と悲しかったのを思い出す。何と幼稚な女学校1年生よ。(笑)

その後の兵隊さんの消息は、まったく分からなかった。移動先などは、秘密なので、何処に配属されたものか、激戦地に行ったのか、知るよしもない。その後、我が家は、引き上げて徳島に来ている。万一、お元気で帰還して、我が家を尋ねてくださっていても、もぬけの殻なのだから……。

思い出すままに懐かしい昔話を書きました。

 

2 件のコメント:

  1. そうなんですか。軍隊にも色々あったんですね。

    私の兄は永く本部付きだったんですが、戦争末期にフィリッピンに派遣され、そこで終戦。
    草の根を食べ、蛇やトカゲを食べて、どうにか帰ってきたと言っていました。、体は全身土色になっていました。結婚して子供が一人いたのですが、間もなく癌で死亡しました。

    戦線が拡大していましたから、どこにいたかで、とても大きな違いだったんですね。

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  2. 同じ勤務でも、国内勤務は、外地にくらべますと、随分楽だったと思います。終戦後も、すぐに帰還できましたものね。
    国のためということでどれだけの兵隊さんたちが、苦労したことか。そういう方たちに、、もっと戦争の恐ろしさを語ってほしいです。もうあまりおられなくなりましたが……。

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