2014年2月7日金曜日

打(ぶ)つ


珍しい光景に出合った。ある量販店のお菓子売り場あたりで、母親が、幼い女の子を打っていた。「買わんと言っただろ? なんでとってきたんで。返してきなっ!」と、怒鳴りながら、子の頭を2回ほど叩いたのだ。子どもは、泣きながら、手にしたお菓子を棚に返しにいった。

私は、この様子を見ながら、こんな時、叩かないのがいいなあ、と思った。しかし、母親が【取って】とか、【持って】ではなく、【盗って】ということを言ったのであれば、叩くのは当然だったのかな、とも思えたのだ。子どもは、盗んだという気持ちではなかったろうが、親が【買わない】と言ったものを黙って持ってきたら、それは泥棒だぞ、と言うのであれば、親の躾は、子どもにとっては、それなりの教えになったかもしれない。

最近、親が子を打つことは、ほとんど見なくなった。打つと体罰ということになる。学校でも、どんなに生徒が悪くても、体罰は禁止されている。

まだ戦後しばらくは、学校も親たちも、体罰は認めていた。「先生、うちの子はど悪いけん、殴ってつかはれよ」なんて、親の口から言っていたものだ。そういう家庭の子は、親に殴られて大きくなっているものだから、先生に殴られても、親に言いつけたりはしない。うっかり言うと、また親にも殴られかねないのだ。だが、殴っても、大した効果もなかった時代でもあった。

ある教師が、私に、こんなことを言った。「父兄にアンケート用紙をくばって、殴ってもいいか、殴ってほしくないか、ということを調査した」と言うのだ。しかしそのあとがいけない。その教師は、殴ってほしくないという家の子を窓際の一列に集めて、何をしても、叱らずに、ほっておいたと言うではないか。先生にしてみれば、殴ってほしくないというのは、ほっといてくれ、と勘違いしたのかもしれない。あるいは、親の教育方針というよりも、自分の叱り方に文句あるなら勝手にせい、ということかもしれない。江戸(親)の敵を長崎で打たれる子どもこそ、いい災難だ。いずれにしても、感心したことではない。

ふっと子どもの時に母親に打たれたときのことを思い出した。自分で言うのもおかしいが、そんなに悪さをして困る子ではなかったし、口で言ってくれればいいものを、という思いがいつまでも尾を引いていた。

殴って教える、ということは、かなり難しいものだ。殴った後のケアが大切だろう。どうしても、ここで殴っておかねばならない、というときもあるに違いない。自由主義、個人主義のはびこっている時代だけに、殴る教育は難しい。

2 件のコメント:

  1. 殴る、は教育にならないと思いますねえ。私は親に殴られた記憶は生涯に一遍だけ。小学4年生ごろ。それを未だに覚えているんです。それも私が悪かったんだし親を恨むなんて気持ちではなく、でも忘れられないですよ。

    私も、子供や孫をを殴ったことはありません。それで子供が悪い子に育ったとも思いません。

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    1. 昔から愛の無知というのはありましたけれど、親に叩かれたことは、子どもには、愛のげんこつとは、なかなか思えない。(笑)
      複雑ですよね。

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