2012年11月16日金曜日

母の手


何カ月か前の徳島新聞の徳島歌壇に、こんな短歌が、3人の選者に選ばれて載っていました。〝母の手はいつも風呂敷抱えてたすべてを包む心のように〟その新聞を置いてあったのは、この短歌の作者が、藍住文芸協会の会員さんである渡辺健一さんとおっしゃる方のものだったからですが、そのとき私は、ふっと自分の母の手を思い出したのです。
それは、風呂敷を抱えた手ではなく、印刷インキで、薄黒くなった手でした。

私の両親は、小さな印刷工場を経営していました。何人か工員さんがおりましたが、その工員さんにまじって、母は活字を拾っていたのです。原稿と、小さな箱を左手に持ち、右手で活字棚から活字を拾って箱に入れていくのです。仕事中の母の手は、いつも、薄汚れて黒ずんでいました。ときには、顔にまでインキがついていることもあって、子どもながら、それは格好悪く思って、母に言ってあげたこともありました。

むろん、母の手に指輪が光っていたことなど、一度も見たことがありません。街中に住んでいましたから、着飾ったお母さんたちもたくさんおりましが……。

ですからたまに外出するときの母が、ヨソイキの着物を着て出かけたりすると、見違えてヨソの人かと思って「こんにちは」と挨拶しかねないほどでした。

母は、贅沢などあまりしたいと思ったことはなかったのか、髪飾りだの帯どめだの指輪だのいうものを、ほとんど持っていませんでした。買って買えない生活ではなかったと思うのですが、買わずに貯金をしていたらしいのです。
 
疎開で一家をたたみ、田舎に帰りそのまま住みつきましたが、戦後、お金の値打がなくなって、食糧もヤミで買うような時代になり、父の仕事だけでは食べてはいけず、【筍生活】という売り食いをしなければならなくなったとき、売るような品物は、ほとんど持っていなかったものですから、筍生活も出来ず、母は、ただただ内職をしたりしていました。

母の手は、私と違ってとても器用でした。女学校のとき、着物を縫っても皆より上手だったらしく、卒業すると、その女学校の助手にやとわれて、裁縫を教えていたこともあったほどですから、内職の仕立て物をしても、お客様に気に入られていたらしく、「ほかで縫ってもらったら、とても襟元がおかしくて着れないから、直して」と、よその方が縫ったものの直しまでしていました。

そんな母に似ても似つかぬ娘の私なので、だれに似たのか不思議です。父もとても器用で、大工のような仕事までするのですから。(笑)

母の手は、私の記憶の中では、とても美しい手とはいえない手で、晩年は、ことのほか節くれだった皺苦茶の手になっていました。
 
今、私の手は、そんな母の手と同じようになっています。手を見ると母を思い出すほど、節くれだった手は同じです。
母そっくりの手を眺めながら、中身?は似ずに、形ばかりが似るなんて、ほんとにうらめしい手、と思いながらも、苦労をした母を思い、あまり親孝行の出来なかったことを悔いております。

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