2012年11月17日土曜日

喪中ハガキ


ぼつぼつと喪中ハガキが届くころになりました。私のようなトシになりますと、ご本人であったり、連れ合いさんとか、姉妹とか、兄弟といった方たちが亡くなられている場合が多くなってきます。

また、喪中ハガキではありませんが、「来年の年賀ハガキから、失礼をいたしたい」という、年賀状のやりとりのお断りのハガキをいただくこともあります。

年賀状というものが、単なる儀礼であったり、習慣であったり、いうなれば、どうでもいいものもあれば、「どうしてなさるかなあ、お変わりないかしら」といった気持ちが、相手のところに飛んで行っているような懐かしさがこみあげてくるものまであるものですから、ピタリと止めることへの抵抗は大きいものがあります。

昨年、丁度一年前になりますが、ある一枚の忘れられない喪中ハガキをいただきました。詩人のA様の息子様からでした。それは、このような文章で始まっていました。

【座ったままで失礼いたします。思い出がいっぱいある人は幸せだなと思います。私達夫婦は、八十八歳になります。私たちにも思い出はたくさんあります。悲しいこともありましたが、二人で乗り切ってきました。たくさんの人と合って、たくさんの思い出を作り、そして暖かい心で私たちをここまで育てていただきました。ありがとうございます。私は、銀河鉄道に乗って冥土へ逝きたいと思います。汽車賃もいらないし、改札もありません。案内してくれるのは、童話作家の宮島賢治さんです。あの人が、好きなところへ連れて行ってくれます。ですから、夜空に長い影を引いて流れる星を見付けることがあったら、二人が乗った銀河鉄道だと思ってください。そして二人のことを思い出してください。どうも今日はありがとうございました。】
以上は、両親のための米寿の会における父Aの挨拶です。末期ガンでしたが、余命のないことをいささかも感じさせず、皆さまへのみごとなお訣れのことばでした。9月30日、父は自宅で家族に看取られながら、静かに彼岸へ旅立ちました。「悔いのない人生だった」と申しておりました。私たちに残してくれた「いっぱいの思い出」を大切にして生きて行きます。皆さまもどうかお幸せにお過ごしください。……

 

私はこのハガキをいただいて、はじめてA様のご逝去を知りました。徳島の作家・故田中富雄氏と仲良くして頂いていた私たち夫婦(文学とは、まったく関係なく)は、清貧に甘んじながら、多くの素敵な詩を書かれていらっしゃった若き日のA様とも、親しくお話をさせていただきました。
その後、京都に住まわれていたA様とは、ほとんど年賀状だけのやりとりでしたが、心温まる賀状をいただきました。
田中氏を通じてお知り合いとなりましたA様とは、田中氏の偲ぶ会でお会いしたのが最後となりました。
改めてA様のご冥福をお祈り申し上げます。

2 件のコメント:

  1. ながーい喪中葉書ですね。これだけの文章を書かれるとなると単に喪中葉書とは言えないですよね。でも、誰にでも出来ることではないと思います。

    今年の喪中葉書は今の所2枚届いております。お母様とご兄弟の喪のお知らせです。その他2人亡くなっておりますので、計4名の住所録を削除しなければなりません。

    私も年賀状のやり取り、いつまで続けたらいいかなあ、と思っています。

    返信削除
    返信
    1. ハガキいっぱいに小さな文字で印刷された喪中ハガキでした。こんなハガキを送ってくれた息子に、お父様は、喜ばれたでしょうね。真似はできませんが。
      今年はお葬式の多い年でした。すでに6枚とどいています。

      削除