2012年11月27日火曜日

責任


以前、ブログにも書いたかもわからないのですが、何度でも書きたい思いなので、書いておきます。最近、一握りではありますが、戦争を知っている者の孫や曾孫たちが、「これが子どものすることか?」というような社会的問題を引き起こしています。親の責任を問うならば、その親を育てた祖父母の責任も問わねばならないかもしれません。考えようによっては、これも戦争に負けたための結果だと言えないこともない、と私は受け止めています。

戦後の親たちは、子どもに食べさせるだけが、精いっぱいでした。『鍵っ子』という言葉も生まれました。
そのうち、高度成長期に入って、ちょっと生活に余裕が出来てくると、贅沢の味を知らずに大きくなった親たちの愛情は、子どもに不自由はさせまいと、モノだけはどんどんと買い与えました。子どもの心を育てることは二の次になったように思います。
 
そうした子どもたちが、子どもを生んで親になったのです。はたして、うまく我が子の心を育てることが出来たのでしょうか……。ある記事によりますと、非行に走る子どものほとんどの家庭に、仏壇がないそうです。核家族というのでしょうか。母親たちは、経済的自立、あるいは生活を豊かにするためにと、家をカラッポにして働きました。仏壇はなくともテレビはどこの家庭にもある時代です。子どもたちは、毎日愛情の薄い、テレビやテレビゲームにお守りをしてもらっていたのです。そのテレビやゲームたるや、スイッチ一つで、極悪非道な犯罪、人殺しが、まるで日常茶飯事のように画面から放射されてきます。自分とは無関係なはずの事件が、何でもない、当たり前のことのように、幼い頭に刷り込まれていても不思議ではありません。
 
その結果、一部とはいえ、子どもでありながら、殺人、強盗、虐めと、まるで想像もつかないほどのことをやってのけるようになったのでは・・・と思えなくもありません。

こうした現実に追い討ちをかけてきたのが、戦後教育だったようにも思います。はき違えた自由主義や個性尊重がどういうことになったかは、結果が物語っています。

いやな予感も頭をよぎります。今は、わずかの子ども達の引き起こす事件ではありますが、将来は、もっともっと増えていくのではないかと思うのです。一部の子どもの悪事なども、まるで子ども全体の問題のように報じられることで、健全な子どもたちまで、汚染されて行くような危険を感じるのは、私だけでしょうか。

戦後六十数年とはいえ、長い歴史の中での、たった六十数年間での、世の中の変わりようが、あまりにも大きく、そしてあまりにも嘆かわしいことに、なすすべのない一老人です。

これはやはり、政治も、しっかりと教育に力をいれていただかねばと思います。

何もしていないと言われる民主党ですが、長い自民党政権時代になしえなかった教育の改革をしてくださいました。進学の格差を縮めたり、35人学級で、教育体制の充実を計ったり、こうした政治が、これからも、人作りに、まさにコンクリートから人への政治がつづけられることを、祈って止みません。そして、戦争の悲惨さを繰り返すような、平和日本を覆すようなことのないよう、私たちは、目を光らせていこうではありませんか。

 

2 件のコメント:

  1. 親の生き方イコール教育ではないでしょうか。親の背中を見て子供は育つと言います。学校や先生はその次かも・・

    日曜日から用事があって家に帰っておりました。少々お疲れです。住めば都、部屋へ帰ってほっとしています。

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    1. この親ありてこの子あり……ですかねえ。

      お疲れ様。無理なさいませんように。

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