2012年4月8日日曜日

桜満開

今日は少し暖かくなりそうだ。桜が咲いても冷たい日が続いていたが、それでも余寒はしのぎよい。指折りかぞえているうちに、ぽかぽか天気になってくれる。
今年も、間に合えば、ちょっとでも花見気分を味わいたいと思っている。 
今から2時間もすれば、女学校の同窓会に出かけるのだが、途中、お花見が出来るかもしれないと、ちょっぴり期待している。

何年か前の話になるが、桜並木を眺めていた時、通り過ぎていく若者たちのほとんどが、携帯電話を片手に、わき目もふらず、うつむいたまますり抜けて行ったのが心に残っている。まるで機器に心を吸い取られてしまったロボットのようだった。昨今なら、スマートフォンだろうか。
長い人生の途中には、花どころではない時期もあって当然なのだが、そういうことではなさそうで、何か大切なものをどこかに置き忘れて大きくなった感じを受けてしまった。
こういう若者も、きっと『お花見』は大好きなはず。お酒を楽しみながら、しっかり花見もしてほしい。

最近のスマートフォンばかりいじくっている若者をみていると、人間や情緒にも関心が薄くなっているように思えてならない。何となく砂漠化した人間というか、水分が無くなって、サラサラのような感じを受ける。携帯でのメッセージのやり取りも、即座に反応、返信、意思表示をしなければ、何かがもつれてしまう、とでも言いたげである。

とはいいながら、もう若者と、私ら世代の感覚は、食い違いというよりは、異なってしまった、と言い切ってもいいだろう。価値感も、文化も、常識までもが時代とともに変化してきたのだから仕方がない。
そのうちに、スマートフォンも使えない者は、塀の中に取り残されたように世間のこともチンプンカンプンになるかもしれない。

思うのだが、花を愛でる幸せは、たとえ行きずりの幸せであっても、心に沁み込むものがある。私のような雑端人間でも、綺麗な花を見ていると、「家計を引き締めよう」と決心したことも、「膝が痛い、腰が痛い」なんて、常日ごろこびりついているおこげも、どこかに消えてしまう。
世界のあちこちで人殺しをしていたり、物騒な原発騒ぎやら、大型地震、大津波がいつくるやもしれない世の中なればこそ、心をやわらげたいとも思う。

土と石ころのふんだんにあった大地で、樹を抱え、花を摘んで、伸び伸びと遊び育った者と、家の中で、ファミコンやテレビで遊び、大きくなっても、携帯電話が手放せない連中との違いは大きい。どちらが幸せかは知らないが、同じ土俵で語れても、共感できないものが多過ぎるのはとても淋しいことである。



0 件のコメント:

コメントを投稿