2012年4月20日金曜日

読書

本棚からはみ出していたた文庫本が、掃除をしている私の足の上に落ちて来た。手に取ってみると、岩波新書で斎藤孝著「読書力」という本。もう10年も前に出された本だが、ぱらぱらとめくってみると、やたら鉛筆でラインを引いている。


ラインを引くのは、私の読書法の一つで、よくやってきたことなのだが、最近は、あまりやっていない。理由は簡単で、本を整理するときのことを考えてのことで、人さまに差し上げるにしても古本屋に持っていくにしても、ラインなどないほうがいいと思ったからだ。
それに恥ずかしい。ラインの引き方では、本を読む力がはっきりと表に出てくる。その線の引き方で、その人の理解度がわかる。さほど大切でもないところに線を引かれていたら、その人の読書力はたいしたことない、というようなことになるのだから。

斎藤孝という名は、本屋の棚ではよく見かけるので、ご存じの方も多いと思うが、今も変わっていなければ、明治大学の文学部教授である。
この著書に書いてあるのだが、学生に、「大学生は、大量の本を読むことが仕事であり基本」と言うと、「本を読むことを強制しないでほしい。本を読む、読まないは自由だ」と反発した学生がいたらしい。

以前は、「なぜ読書しなければいけないの?」なんていう質問に答える必要はなかったが、今は、そんな問いにも答えなければならない時代だそうだ。
明大?にしてそんな質問?という思いだったが、考えてみれば、我が息子も文学部じゃなかったが、そんなに多くの本は読んでいたようには思えない。

たしかに今の若者は、読書離れをしている。高校教育が悪いのでは?と思うことがある。読書は、大学生になるまでに、読書好きになっていていなければ、急にはたくさんの本を読むことは無理だろう。
自分の孫を見ていても、読書が足りないと思った。

孫は高校三年生の時に、明日までに人権問題についての作文を書いてこい、との宿題が出された時、書けなくて困っていたのを思い出す。
作文を書くことはほとんどなかったらしい。たまにあったらしいが、仲良しが作文好きだったので、書いてくれたというではないか。驚いて聞き直すと、相手は習字が苦手だったので、宿題の習字を書いてあげたそうな。そのお礼に作文を書いてくれたらしい。なんということだ。

ちなみに、習字は、同じものを2枚書いて出したところ、相手の方は、賞?にはいって自分のは、入らなかったので、友達はとても気の毒がっていたらしい。(笑)
ま、自分のが賞に入るよりよかったと言っていたが、先生は、そんなからくりは見抜けなかったようだ。

話が脱線したが、高校教育は、受験のための予備校みたいなところがあって、自己形成だの情操教育だのは日蔭においこまれているのが現状のようだ。

読書家ではない私が、こんなことを言えた義理じゃないのだが、若い学生には、読書という教育だけは、ぜひやってもらいたいし、やらなければいけないと思う。読書は、知性教養、その他自己形成に大いに役立つと思うからだ。

(私が読書家の足元にも立てない証拠に、斎藤孝推薦の文庫系100冊、新書系50冊のほとんどが読めていない。今となれば、読書力は落ちて行くばかりである)


2 件のコメント:

  1. 今の人たちはする事が多すぎるんじゃない? ゲームもしなきゃいけねいし、ネットもしなきゃ。スポーツ界や芸能界の話題にもほどほどは通じていないと友達づきあい出来ないんじゃないかと・・・

    私は活字なら何でもいいので読むのは大衆娯楽小説ばかり、読みだすとすごい勢いで読んで、終わると本をしまう、その手で次の読み物を枕元に・・で、本は切らしませんが、教養は一向に身に付きません。これでは駄目なんでしょうね。もっとも、今から教養人になろうとも考えていませんが・・・本が電子本なんかになると困るわ。だって枕元におけないもの。

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    1. 本を読まないから、時間があるのでゲームする、ゲームするから時間がなくて本が読めない。どっちでしょうね。(笑)

      電子本ねえ。枕元に、スマートホン置いて読むと言う手もあるけど、読みづらいものね。

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