2012年4月6日金曜日

童心

マーケットの鮮魚売り場をのぞいていたら、イクラが目に入った。イクラの好きな孫は、県外で、大学生活をはじめた。多分、決まったお金で切り詰めた生活をするのだから、イクラなんか、いくらなんでもよう買わないにちがいない、なんて思いながら、イクラを手にした。

たしか、彼女が一年生のときだった。イクラを口にしながらながら、「これ、どこに生えているん?」と質問。くっくっく。
親は慌てて「鮭の赤ちゃんよ。鮭はこんな卵をいっぱい産むの。この卵がまたお魚になるのよ」
すると娘は驚きながらも、「いっぺんにようけ生まれるんやなあ。鮭のおかあさんは、子どもの名まえ、間違わずに呼べるんやろか……」と。くっくっく。

それを聞いていたその子の姉は、「こんなにたくさんの子ども採られて、鮭のおかあさん、悲しかったわなあ……」と、これも大真顔。
今度は(くっくっく)じゃなくて、ぐっときた。そのあと「金子みすず童謡集」の中の「大漁」という詩の一節に、いわしの大漁の日、海の中では何万のいわしの弔いするだろう、と書かれていたのを思い出した。おまけにおバカな私は、孫が将来みすずを追い越す詩人になれるんじゃないかと思った。

私はよく、自分の鈍った感性にうんざりさせられることがある。書いた文章の陳腐さに気づかぬことだってある。こんな私も、子どもの本音には「ハッ」とさせられることがよくある。大げさだが、私の素心をゆさぶられたような気持ちになる。

昔、ある方が、「私が持っていてもあまり用事ないし、あなたが持っている方が似合う。文章も書く人だし……」
とおっしゃって、金子みすずの童謡集をゆずって下さった。とても嬉しかった。モノを書く人などと言われるのは面映いのだが、童謡集が似合うと言ってくださったことが、ウソでも嬉しかった。

もし神様が「子どもに戻らせてやる」とおっしゃっても、もう子どもからのやり直しなんてめんどうなので、丁重にお断りしたい。
でも、大人になり下がった感性だけは、子どもにかえらせてほしいと思う。子どもの、あの無法地帯のような発想で、モノを書いたり夢をみたりしたいと切実に思う。

こんな私も、とき折り童心にかえることがある。
カーテンの隙間から見える早朝の空の雲と語り合うこともその一つ。退屈していた雲は、そんな私におべっかを言う。
(行きたいところがあるんだろ?乗りなよ)
私は、素早く女ターザンのように飛びのって、つかみ所のない雲の鼻先を握り締め、あっち、いやこっちよ……なんて言いながら翔けていく。行く手には朝日を染め込んだ雲のじゅうたんが見えてくる。乗っている雲が、いつのまにか回転木馬に変身している。
(いいトシこいて、何やってんだ、このばばあ。フン)なんて声が聞こえそうだが、そんなこと、なあーんも恐くない。

実は、こんな私を、私は大好きなのだ。もうこのトシになると、恐いものなんかないのだが、やはり現実の生活では、大人の枠をはみ出しての言動など出来っこない。でも、思うだけなら、どんなことでも出来る。こんな自由な世界はない。いつでも「くっくっく」の世界にも入っていける。

「思うこと」こそ大切なんじゃなかろうか、と、思うようになった。
気持ちにハイヒール履かせて、舞台衣装を着せてやるのもいい。寂しさの洞窟に連れ込むのだっていい。
「思うこと」それは私の宝物である。どれもお金で買えるものではない。みんな私の気持ちでくるみ込んだものなので、思うだけで胸はほかほかしてくる。火傷しそうなこともある。凍りつくこともある。でも温たかい。
 ……あ、ほらほら、見て、見て、空にイルカが飛んでるよう。あのサツマイモを追っかけてるのかな? くっくっく。


2 件のコメント:

  1. 子供の感性ってほんとに素晴らしいですね。大人になり老いてゆく、どの過程で、感性はすり減ってゆくのでしょう。

    でも、ごまめさんは今も瑞々しい夢をお持ちですね。夢見る力って大切だと思うのですが、私なんか、それも擦り減ってしまいました。思うことは世の常識に毒されたことばかり、もう、ここから抜け出せないと思います。悲しいです。

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    1. mimiさんの感性は、別のところで光っていらっしゃるのですよ。
      私にはない鋭さがあって……。元々私には、「鋭さ」というものがない。はじめっから先っぽが丸まっているわ。悲しいかな。(笑)

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