2013年9月27日金曜日

狩勝峠


こころ旅とかいうTVに北海道の風景が写った。故郷というものは、こんなときに大きく心に広がったり、灯を点したりするものだ。しばらくそんな思いに浸っていた。

忘れもしない昭和18年の7月、私たち一家は、故郷帯広をあとにした。一家をあげての転居だった。
13歳の女学生でありながら、今思うと、なにかにつけて晩熟で、少女というよりも子どもだった。同級生の中には、すでに大人のような子もいたのだが……。

四国徳島への引っ越しが、今後どういうことになるのか、深くは考えられなかった。父や祖母たちは、生まれ故郷に帰るという嬉しさがあるものだから、その余波を受けてか、私までも浮き立っていたのだ。

そんなとき、私たちを載せた汽車が後にも、もくもくと煙を吐く機関車を連結して、力ずくで狩勝峠にさしかかると、得も言われぬ壮大な風景が輝いていたのだ。「よく見ておけよ。これが十勝平野だ。もうしばらくは見ることはないからな」父のことばにはっとした。まるで隣町に引っ越すような気分だった私は、ガーンと叩かれたようなショックを受けたのだ。

車窓から身を乗り出して見た狩勝峠からの展望は、広大な十勝平野を一望でき、その視界の広さと美しさは、見事なものだった。ここからの風景は、日本新八景のひとつに選ばれていたのだ。

当時そんなことは知らなかったが、自分の生まれ育った十勝平野が、こんなにも大きくて美しかったことにひどく感動し、急にポンプでおしあげられるような淋しさが胸を一杯にしてしまった。

そして再び見に来ることを心に誓ったのだった。この時の十勝平野は、一枚の絵となって、私の脳裏に焼き付いてしまった。

当時の徳島と四国は、随分と遠かった。何日もかかって旅をしなければ行き着かぬところなのだ。おいそれと行き来できる距離ではなかった。

戦中は無論、戦後の生活では、旅行などとてもできる身分ではなかった。教師になり、結婚もしたとなると、ますます故郷は遠くなってしまった。親戚の1軒もない故郷だが、やっと探し当てた小学校の親友と、小学校の恩師。文通をしながらも、懐かしさは、反対にどんどんと膨れていく。

やっと北海道に足を延ばしたのは、30年以上もたった夏休みだった。でもその時は、汽車は狩勝峠には上らなかった。夢にまでみた風景はなかったのだ。トンネルばかりが、やたら多くなっていた。うかつにも、そんな変わりようは知らなかった。
バスでくるべきだったと後悔したが遅かった。

その時思った。次は、自分の車を運転してこよう……と。

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