2013年9月15日日曜日

未練・執着


以前、あるお坊さんが、『死にとうない』と、言いながら死んだという話を聞かされたことがある。お坊さんらしくない、ということで、皆がそんな噂をしていたのだろう。お坊さんも人の子。万人と同じ気持ちであっても不思議はないのだが、それを口にするというのが、坊さんらしくなかったということだろう。

私の生き方としては、くよくよせずに後ろを振り向かずに生きていこうと心掛けているので、日常【未練執着】はあまりないと思っているのだが、人生最大の出来事である【死】については、どうだろうか、と考えてみた。

このトシになるまでに、色々な場面で、死ぬことへの予行演習的な思いを教えられたり喋り合ったりしている。しかも、誰もが遭遇しなければならないことなので、死ぬこと事態はそんなに辛いことではないのだが、何であれ、心残りがあると、やはり「まだ死にとうない」の心境になるだろう。

例えば、私が今、死ななければならなくなったなら、どうだろう。

未練執着というよりは、【困る】ことがたくさんある。しかし、そんなことは、どうにかなることばかりのようにも思う。身辺の整理ができていない、頼まれているモノができていない、こんなことは知ったこっちゃない、と言ってもいいだろう。

本当に困ることなどは、後々残った人に多大な迷惑のかかることだけだろう。その点、預金もないが借金もない。整理の出来ていないことの後始末くらいなものだ。それくらいは、勘弁してもらおう。

やはり問題は、未練と執着だろう。それは、別れへの未練というか、親しい人たちへの執着だろう。もう2度と会えない、話すことも出来ない、将来、どんな生活が待っているのか、幸せになるのか、孫たちは、どんな人生を歩むのか、そうした心配ということが、未練執着となりそうだ。

私は自分の一生を不幸とは思っていないし、やり直したいとも思っていない。私なりに、夢も希望も掲げながら、歩んできたので、満足している。【己を知る】ということは大切だ。私ごとき人間が、これだけの一生を過ごせたことに感謝をしたい気持ちなのだ。

ある方が『未練や執着を去るには、大切なものから手放すこと』と言ってたが、それはモノであって、未練に思う家族や身内を手放すことはできないことなので、これもプラス思考でいくしかない。「今まで、長い間愛してこられたのだから、有難いことだ。どちらが死んでいても、仕方ないことだった。長いあいだ有難う」と。死ぬことをいたづらに嘆くことはないのだ。
こうした気持ちが萎えたり、忘れたりしたら、また、考えたらいいのだ、と。
 
ああ、まったく前向きの極楽とんぼ的人生を歩む私であると、つくづく感心してしまった。()

2 件のコメント:

  1. ごまめさんには、ちょっと似合わない文章。急に、どうしてそんなことを思い出したんですか。

    整理して死ぬ日を待つなんて普通の人は出来ないでしょう。私は何も整理なんてしないで死のうと思います。残った人が適当にするでしょう。

    子や孫は自分で自分の人生を歩いてゆくでしょう。それを見届けるなんて不可能です。婆ちゃんが孫より長生きしたらそれこそ大変。どんな死に方にしろ、時が来たら死んだ方が、子や孫も助かるでしょう。

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  2. そうですか? 身辺整理して死にたいと、皆いってますよ。出来ないというのが、事実ですけどね。(笑)

    亡くなった人の整理をするのは、難しいものです。(経験から)できるだけ、捨てられるものは、捨てて置きたいです。 もう、何年も前から思っていても、なかなかできない。(笑)
    逆さまを見るなんて、こんなつらいことはありません。適当な時、お迎えが来ることを祈ります。それと皆の将来の幸せを案じるのは、別問題で、やはり、気になります。幸せな結婚してくれるかしらとか、幸せな老後を迎えてほしいとか思う。どうにもならないことですがね。

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