2014年1月29日水曜日

Y子さんのこと


女学校2年生の夏、北海道から、父、そして祖母(母の親)の郷里である徳島の田舎町に帰ってきたのだが、暫くして、2キロほど離れたところに住む、母の従妹であるY子さんと私が、瓜二つであることを知った。私の方が、3歳年下なのだが、知らないおばちゃんからY子さんと間違われて、「あれ、髪切ったんで?」とか「こないだはありがとう。すまなんだな」などと声をかけられたことが何度かあった。

いつも、父親似と言われていた私が、母の従妹に似ていることが、ちょっと不思議だったのだが、近所の人が間違うほどだったのだから、似ていたのは事実なのだろう。

 

真面目で家の百姓仕事を一生懸命にこなすY子さんは、近所でも評判の娘で、二十歳そこそこで、大きな百姓家にぜひにと望まれて嫁入りした。


嫁入り先が、ひどい家だったということを、私が教師になってから母に知らされた。おなかの調子が悪いので、医者に行かせてほしいと姑に頼んだが、「つわりにきまっとる。つわりにいちいち病院になどいくことない。しんどうても、病気でないのだから、仕事はせないかん」と言われたのだ。

そのうち、下痢が止まらないようになり、痩せ衰えてしまい、ある日畑で倒れてしまったのだ。
やっと医者に診てもらったのだが、病名は腸結核だった。医者に、「こんなになるまで医者にもかからず、仕事してたなんて……」と呆れられたらしい。その日のうちに結核療養所に入院させられた。
Yちゃんも、負けん気なものだから、医者に行けと言われるまで、意地を張っていたのだろう。


入院し、治療をはじめたのだが、なかなかよくならず、時々顔を見せていた夫も、次第に足が遠くなり、そのうち仕事の出来ない嫁は、しかたがないと、涙金ほどの慰謝料で離婚させられた。それから15年も入院していただろうか、当時の結核療養所は、長い人は20年も入院していたようだ。


Y子さんは、同じように、長く療養していたある男性に見そめられ、退院してすぐに再婚した。子どもが産めないので、と辞退しつづけたらしいが、そんなことは承知している。子などいらない、ということだったらしい。
それを聞いたとき、私は「世の中は捨てる神あれば拾う神ありだねえ」とY子さんの幸せをとても嬉しく思った。

それから4,5年もたっていたろうか。私は実家に行き、母に、Y子さんの死を知らされた。吉野川に冷たくなって浮いていたという。母に訳を聞くと、「よくある話で、男が女をこしらえたんよ。子が欲しいからと言ってな。Yちゃんは男に別れてくれと言われ、びっくり仰天して家を飛び出したらしい。翌日になっても帰ってこないので、男も心配してあちこち探したらしいが、見つからず、とうとう二日目に、吉野川に浮いてたのが見つかったそうな……」

私は無性に腹がたつやら悲しいやら、その夜は眠れなかった。

Y子さんが、うっかりと転げ落ちたものなのか、あるいは自ら早まって飛び込んだものなのか、だれにも解らなかった。ただ、検死の結果は、飛び出したその日に亡くなっていたらしい。

あの日から随分と年月が流れた。母親に似てきた自分の顔を見ている時、ふっとY子さんを思い出すことがある。

2 件のコメント:

  1. 悲しいお話ですね。y子さんは私と同い年。

    実は私の夫も結婚1年半後に結核になり、2年療養所のお世話になりました。まだ、療養所には偏見の強い時代でした。ストマイとパスが発見され肺切除という新しい治療が始まった頃ですが、まだ一般には普及しておらず、まず不治の病とみなされていたのです。

    入所には親戚の強い反対がありましたが、私は仕事柄、結核に関する情報には恵まれていましたので、夫の入所は半ば一人で強行しました。2年後完治して復職できたからいいようなものの、そうでなかったら、私もyさんと同じ道を辿ったでしょう。

    嫁が医者にかかるなどとんでもない、時代でもありましたね。今の若い人には想像できないでしょうが・・・・

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    1. 嫁は牛馬のごとく働くもの、そんな農家の嫁は、昔は普通だったのですね。だから、自分の代になると、嫁も自分のように、働かす。ああ、怖い怖い。昭和ひとけた生まれの姑は、自分の経験は、もう嫁にはさせない、というように変わってきましたね。ま、今の若い子には、真似もできませんし、始めからさせませんが。

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