2012年7月18日水曜日

恩師 その1


私は、小学校では、低学年、中学年、高学年と、3人の先生にお世話になりました。そのうちの中学年の先生は、お体が弱くて、休職されて、代わりの先生がきてくださったり、結婚されてやめられたりと、目まぐるしく何人もが入れ替わったので、あまり記憶に残っておりませんが、低・高学年の先生は、とても懐かしく、忘れられません。
お二人とも、もう何年か前にお亡くなりになりましたが、折に触れて思い出します。


実は、先日『粗忽者その1』のところで書きました○△先生というのが低学年の時にお世話になった相沢先生です。そのせいもあって、あれから何度となく、先生のお顔が思い出されるものですから、先生のことを、もっと詳しく書いてみようと思いました。


私が通っていたのは、北海道帯広市の柏小学校でした。
さすがに、勉強のことはあまり思い出せないのですが、先生に遊んで頂いたことは、いつでも映し出されるフイルムのように、心の内にしまわれています。ただそれだけのことなのですが、まるで胸火鉢の中に火種を埋めこんであるような、ほっかりした気分なのです。


授業が終わりますと、私たちは待ってましたとばかりに、ワッと先生に群がります。先生の腕をひっぱる子、背中に飛び付く子、腰に巻きつく子、それはそれは大変でした。
「こらこら、ちょっと待った」
とおっしゃる先生を倒してしまったことも何度かありました。

「順番だ。順番だ。さあ並んで並んで」
先生の声に、私たちが、金切り声を上げながら一列に並ぶと、先生は一人ひとりの手をとって、【高い高い】をしてくれたり、【回転ブランコ】(とひそかに名をつけましたが)のように両手をしっかり握って、先生がくるくると回ります。私たちも、空中?をくるくる回まわります。先生、よく目を回さなかったものと、今になって感心いたします)
高い高いは、先生だけではありません。私たちも、しっかり肘を伸ばしてふんばっていないとくずれ落ちてしまうものですから、もう必死でした。鬼ごっこも先生が加わるだけで、楽しさは膨れ上がりました。そんな状態ですから、休み時間はアッという間に終わりでした。今から思うと、先生はお若かったけれど、随分の重労働だったと思います。


遊びは、学校だけではなく、時には先生のお家にまで延長されました。日曜日、奥様と着物姿でくつろいでいらっしゃる先生のところに、何人か選ばれた子が押しかけまして、スットンスットン暴れました。こんな幼い日の思い出が、私の中のキャンバスに、色鮮やかに刷り込まれているのです。このように、押しかけることのできた子は、私のように父親が戦地に行っている子、すでに親が戦死したり病気で亡くなった子、なのです。そうした子どもが数人いたのです。家でちょっと淋しい思いをしている子どもに、気を遣ってくださったのです。


私が教師になって一番に思ったことは、相沢先生みたいに、子どもたちと遊んでやりたい‥‥。私が楽しい思い出を頂いたように、私も教え子に、思い出になるような‥‥ということでした。

でも、それはとても難しいことでした。赴任した先の学校では、そのように、教師が休み時間や昼休みに子どもらと遊ぶという風習がまったくなかったのです。しかも、現実は、四十五分の授業が終わると、急に足腰が重くなって、「さあ、休み時間は外に出て遊びなさい」と教室から子どもを追い出して、子どもたちから離れてほっとしたい気分になるのです。でも、ホッとできるわけではありません。子どもたちの日記を読んで一言赤ペンで完走や褒め言葉を書き込むことや、宿題のノートを見たり、プリントに○をいれたりと、忙しいのです。

先生に遊んで頂いたことが、ちらっと飛蚊のように目の前をかすめるのですが、もともと志の低い私には、先生の真似は出来ませんでした。

相沢先生は札幌に、私は徳島に‥‥と、随分離れていましたが、幸いなことに、四十幾年ぶりに札幌を訪れ、再会を果たしました。先生の消息がわかり、はじめてお電話でお声を聞いたときは、心臓が前後左右にゆれました。お元気な先生とお合いし、おかっぱ頭の小学生になったような感激でした。

その後、二度目は先生ご夫妻が、四国を旅なさったおり徳島で。そして私が退職後、車に友人を載せての北海道旅行中におじゃまし、三度目のタイムマシンでした。
優しい奥様に甘えて、ふた夜もお世話をかけました。
先生とお別れした後は、涙が出て困りました。
横にいた友は、ハンカチを手渡してくれながら、
「小学生のときの先生って、大抵はあんまり覚えていないけどねえ。よっぽどいい先生だったんだろうなあ。羨ましい‥‥」 と言ってくれました。私が褒められたわけではありませんが、とても嬉しいことばでした。
「羨ましいでしょう‥‥」 私はそう言って涙を拭きながらにっこり。


あれから、もう一度お会いしたいと思いつつ、お電話でお話をするだけで、再会は果たされませんでした。


何年かたったある日、帯広にお住まいの高学年の時担任していただいたN先生から、電話で「今朝の新聞に、相沢君の訃報が出ている。明日がお葬式らしい」とお聞きして驚きました。

飛んでいきたい思いでしたが、行けません。弔電で失礼したのですが、電報をお願いする電話口で声が詰まって、弔電の文句が途中から言えませんでした。「ごめんなさい。ちょっと悲しくて……」と言い訳を言いますと、「いいんですよ。気にしないでくださいよ」と、しばらく待ってくださいました。優しい方でした。

そんなことも、つい昨日のように思い出されます。


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