2012年10月10日水曜日

銭湯の日


1010日といえば、何年か前の体育の日、ということくらいしか思い出さなかったのだが、1010という数字から、千十(せんとう)ということで、【銭湯の日】ということになっているらしい。また、1010で、ト(う)と、マがあいてト(う)があるので、【トマト】の日でもあるそうで、どなたが考えるのか、いろいろとこじつけるのがお上手だ。

銭湯が廃れたのは、戦後の文化住宅とやらで、各家庭にお風呂が作られ始めたのがきっかけのようだ。

戦時中、引っ越して田舎暮らしを始めた頃、銭湯がないのでとても不自由をした思い出がある。
借家には、お風呂が付いてなかったのだ。近くの農家の親戚に、【貰い風呂】に行く。庭に便所と風呂場が一つ屋根に並んで建てられていて、その風呂場は、とても狭く、流し場というのがないのだ。立って洗うしかない。風呂の中で身体を洗うのが当たり前のようだった。水道もないので、バケツに水をくんでは入れて、釜の下で、どんどん燃やし続ける。湯垢や石鹸のカスなどは、あふれる湯とともに流れていくので、思ったほど、どろどろにはならないのだが、それでも終い湯ともなれば、そうとう濁っているに違いない。何しろ、貰い湯に来る客は、我が家だけではないのだ。近所で風呂の無い家の人が、何人も入りに来る。小さな豆電球の灯りなので、はっきりとは分からない。
そんなお風呂では、入った気分にはなれなくて、早々に、器用だった父が、五右衛門風呂を築いて、掘立小屋だが、風呂場を作ったのを思い出す。

貰い風呂は、一つの社交場だったように思う。その家の主は、来た客に茶や駄菓子を振る舞い、くんだら(他愛も無いおしゃべり)を言うのだ。主は、親分気分というか、風呂だけではなく、何かと世話もしていたようだ。しかし、女どもは大変だ。次々と入る人達の為に、水を運び、火を燃やし続け、湯加減を尋ねる。薪などは滅多に使わない。麦がらをパチパチと燃やすので、ずっと付いておらねばならない。自分が入るのは、いつも最後なのだ。

こんな塩梅なので、風呂を焚くのは、週に1回もあればいいほうだ。あとは行水ですます。大百姓といえども、朝から晩まで働いてのあとの風呂炊きなので、風呂といえども大仕事だつたにちがいない。

そんなこんなを思い出すと、水道の栓をひねり、スイッチひとつでお風呂に入ることが出来る現在とつい比較をしてしまう。何と便利になったものよと有難く思うのだ。

 

4 件のコメント:

  1. 終戦後、親戚の離れに住むことになり、風呂焚きが日課でした。水は、ポンプから風呂場に樋を渡して、ポンプを一生懸命圧して入れてました。火吹き竹で吹きながら苦労して風呂を沸かしたことを思い出します。
    もらい風呂をして、(君の名は)のラジヲ放送を聞き、帰って来たことが懐かしいです。
    今は、好きな時に入れて、本当に幸せですよね・・・

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    1. いろいろと便利になりましたが、風呂くらい楽になったのは無いように思いますねえ。 ほんとに幸せです。(^^)

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  2. いろんなこじつけの日があるんですね。驚きました。

    私の若い時、勿論、五右衛門風呂で、家の外にありました。トイレと繋がっており、落とし水がトイレに入るようになっていました。これは肥料に使います。貰い風呂に来る人もありました。照明はランプか、小とぼしと言う石油でした。

    水道はありませんから、井戸から釣瓶で汲み上げてバケツで運ぶのです。これは子供の役目で結構重労働でした。

    焚くのは鍬柄と言って、葉を取った後の鍬の枝でした。現代とは大違いですね。

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    1. 桑がらとか、桑の根?もよく燃やしていましたね。
      農家野鍛冶は、大抵風呂場からの出火でした。
      麦がらは、ぱーっともえますから、滝口のところから横に積んである束に燃えうつったりして。
      今の私の家も、昔、風呂場から火をだして、納屋を焼いたそうです。

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