2012年10月12日金曜日

誤記


いくつになってもバタバタとした性格は直せない。一見、落ち着いているように見える私らしいので、「慌て者よ」と言ってもなかなか信用してもらえないのだが、暫くすると、「やっぱり慌て者のようだ」と思うらしい。

慌て者の一つの証拠として、【誤記】というのがある。特にパソコンを使いだして、ひらがなを漢字に変換する場合、確かめるのを怠ると、とんでもない誤記となる。読み返すということをせずに、印刷してしまい、後になって読んでみたり他人さまが指摘してくださって、慌ててやり直すことはよくあることだ。

昨日も、発行した文芸誌の正誤表を印刷したのだが、出来あがったものに合わせてページをめくってみると、P310じゃなく、P311なのだ。正誤表に正誤表が付けられるはずもなく、刷り直した。

このような誤記をみつけると、私は秘かに「ありゃあ、またゴキブリだあ」と叫ぶのだ。

おかしなもので、他人さまの文書の誤記は、よく目に付くものだ。

文芸誌のようなものは、原稿自体が間違っているものもあれば、印刷会社での誤りもある。それを見付けて正すのが校正で、校正で見逃すと、出来あがった後から、ご本人からのお知らせが入ってくる。

最近は、パソコンから送ってくださる方もあり、そのデーターを一応印刷し、誤記があれば正し、無ければ、データーはCDに入れて印刷会社に送っている。
手書きの場合は、誤字脱字、その他の訂正があればそれをして、それぞれの分野で、校正をすることになる。俳句は俳句をよく知っている方、というふうに、役員も、それぞれの分野のベテランさんが選ばれている。とはいうものの、私のような慌てものもおり、随筆担当でありながら、「幸せを漢字た」などということばを見逃すこともあり、一冊の本の中には、必ずといっていいほど、誤記ぶりは、何匹かは這っているのだ。
むろん、印刷会社でも、丹念に見てくださっているのだが、見落しというのはあるのだ。というのは、1校2校と、何度かしても、見逃す所は、何度も見逃してしまう、という落とし穴があるのだ。思い込みというのもあって、この方の文章は間違いないと思ってしまうと、見逃す傾向がある。

ま、何とか今年も、何匹かのゴキブリが這っていたのだが、訂正表と会員に発行している文芸便りに掲載することでお許しいただくことにする。

ある方がおっしゃった。「昔は本を書く人は、文筆家や、学術研究者くらいだったから、ほとんど間違いなどはなかったのだが、最近のように、書き手が一般化してきたら、間違いも多くなるのは当然」と。

書き手が増えたということは、とてもいいことであり、少々の誤記も何のその、と思う。しっかり書いていただきたいと思っている。

4 件のコメント:

  1. 文章書いていると思いもよらない間違いをしでかしますね。校正も一人でやっていると、何度でも同じ所を見逃すものです。三度も見直して絶対の自信を持っていたのに、違う人が見ると1度で発見、指摘された。と言う経験が私もあります。

    もうそんなややこしい事はしないので、何か書いたら書きっぱなし
    作ったら作りっぱなし、良くても悪くても言いっこなし。年を取って気楽になりました。

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    1. そうですね。読んだら誤記と解るものは、そのままでもいいのでしょうね。判読してくださるでしょうから。
      そうはいうものの、ことばや字づらを大切にしている詩や短歌・俳句の方たちは、間違い字は気になさいますから、気をつけねばと思います。

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    2. 誤記って、本人は見つけにくいものなんでしょうね。
      見つけられるくらいなら間違わないでしょうし。
      私は友人の原稿のチェックを頼まれたことがありますが、
      読むたびに誤記を見つけました。

      ノーベル賞の山中先生を中山先生と間違うくらいは、
      どうってことないです。

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    3. ひぇー。(笑)慌てて直しましたが、私の頭の中では、山中やら中山やら、が同じようにいすわっています。考え無しに書くと、間違いだらけになっちゃいます。(;;)実に懲りない女ですねえ。
      ありがとうございました。

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