2013年1月6日日曜日

小寒


昨日は小寒の入りだった。私の産まれた北海道の十勝地方は、零下30度にもなっていた。
私の記憶では、北海道の中でも、十勝というところは、雪は少ないが、空っ風が吹いて寒い地方のはずだ。それでも、マイナス30度を超す寒さは、ひと冬にそんなに多くはなかった。

一口に零下30度というけれど、ストーブの煙突が半分も真っ赤になるほど石炭や、薪を放り込んでも、身体の前は暑くても、背中が寒いほど、部屋の中に冷気が忍びこんできたのを思い出す。

朝6時のラジオでの天気予報が、零下20度を超すと、小学校は10時始まりだった。ストーブのそばに、長靴を並べて靴を温める。ゴム長靴を履いて登校するのだが、温めておかないと、足が冷たくて歩けない。
歩いているうちに靴は冷えてくるのだが、ま、歩いているので足も少しは温まってくる。何とか辛抱が出来る。今のように、使い捨ての懐炉などなかったので、靴下を何枚も重ねていた。
目だけだして、あとはすべて覆っているものだから、息がマスクの隙間から、湯気となって立ち上る。するとまつ毛に小さな氷のつぶとなってくっついてしまう。目を瞬いてその氷をとかしながら歩いた。むろん、マスクは、鼻のあたりがカチカチに凍っている。
お弁当も教室にはいると、ストーブのそばに、下駄箱のような弁当を入れる棚のある箱が置かれていて、そこに入れて置く。頂く頃には、温まっているのだ。
座席は、時々交代してストーブのそばに座った。

今のように、ダウンジャケットだとか、暖かい繊維の下着などなかったので、寒さもこたえたはずだが、子どもはけっこう外に出て遊んだものだ。

当時、女の子は、スカート以外は履かなかった。ズボンを履きだしたのは、戦争がはじまって、モンペというものを履いたのが始まりと思う。ただ、スカートは、お尻が見えるようなものではない。長めだった。皆、母や祖母が毛糸で長い靴下を編んでくれたのを履いていた。パンティストッキングなどは、戦後のもの。遊んでいても、毛糸のパンツと靴下の間が空いてくると、靴下を引っ張り上げている姿をよく見かけたものだ。
 
もうまったく無くなったものに、【靴下止め】というものがある。太ももにするのだから、幅も45センチあって、縞模様で、長さも調節できるものが多かった。

あれこれと昔を思い出してしまったが、多分、今は、寒さ対策も十分出来ているので、昔のようなことはないはずだ。それだけに、いざ、停電だのというときは、大変なことになるだろうなあ……。

 

 

 

3 件のコメント:

  1. -20度30度と言うのは体験したことがないので、「そうだろうなあ」と想像するばかりです。

    南国四国でも昔は軒に氷柱が下がっていました。綿入れを着込んで襟巻をしていましたね。勿論、学校に暖房などなく、靴下は履いていましたが、上履きはなしでした。

    戦争で唯一よかったのは、女もズボンが穿けるようになったことですね。リハビリするのにズボンがなかったら、どうなった事やら・・・・

    返信削除
    返信
    1. 南国で始めて迎えた冬の寒かったことは忘れられません。ストーブがなく、、火鉢と炬燵だけの冬は、震えていました。寒さには弱いのです。(笑)

      削除
  2. 私は冬の北海道に行ったことがありますが、朝早くに外を歩いていると
    寒いという言葉すら出せませんでした。
    ところで、「お馬の・・」を読ませていただきました。ごまめさんの人生の
    重みを感じました。教え子の話では涙ぐんでしまう個所もありました。
    このブログの文章にも共通しているのは、ご自身への客観的なまなざしと謙虚さ
    でしょうか。

    返信削除