2013年10月19日土曜日

タガをはめて……


私の頭の中は、のんびり屋と心配症、几帳面と大雑把、勉強好きと不勉強、やる気とものぐさ、というように、まるで雑居だ。

でも、しかたがない。部屋を几帳面に片付けたりするかとおもうと、机の上は、散らかしている。机の上をきちんと片付けたと思うと直ぐに散らかっている。独り暮らしというのは、気を付けていても、タガのゆるむことがある。

ゴミ屋敷と言われる家がある。よくもこれだけ汚いものを集めてきたものだと思うような家がある。車の通るようなところまでゴミ袋のようなものがはみ出してきている。そこをたまに通ると、いつもその脇で、汚れた衣服を身につけたお婆さんが、うろうろしている。何となく異様な光景だ。

これほどでなくても、部屋の中は、異様なほどに散らかしている、という方は、案外多いという。老若男女を問わず、というから、不思議だ。若いお嬢さんが、掃除もせずに散らかった部屋での独り暮らしなんて、想像できない。ヘンな時代になったものだ。

ある友人の話では、「Aさんとは、親友のような付き合いをしていたのだが、ここ5年位の間に、だんだんと疎遠になってきた」とおっしゃる。その理由は、はじめのうちは、訪問するとすぐに家の中に通うされて、台所だろうが奥のま間だろうが出入りをゆるされていたのが、そのうちに限られてきて、客間だけになり、玄関先からは、上には入れてもらえなくなり、終いには、玄関にも入れず、戸をちょっと開けて、外に出てきて用をすますようになってしまったというのだ。家中を散らかしているのだ。まだ、友だちには、恥ずかしくて上がって貰えない、という気持ちがあるのだろう。いや、ひょっとすると、それは友情というようなものまでも枯れてしまっているのかもしれない。何となくぶるっと身ぶるいしたくなるような話である。 

独り暮らしというのは、タガをはめておかねばならないことがある。誰も見ていない生活というのは、手抜きをしてしまいがちになる。台所の流しに、汚れた食器がたまっていても、だれにも迷惑はかからないし、笑われることもない。それが恥ずかしいと思ううちは、いいが、慣れてくると、そんな生活が何とも感じなくなるのだ。そうならないためには、流しの上に、洗いものを1つでも置いておくことをしない、という習慣を身につけておくことが大切なのだ。

食事をする時だって、パックに入ったままのものを並べて食べるようなことが独り暮らしでは可能なのだが、きちんと食器のあれこれを選んで、たとえマーケットで買ったおかずであっても、綺麗な器に盛り付けて食べることをしていると、味も違ってくる。お皿にしろ、どんぶりにしろ、選ぶ楽しみも出てくるというものだ。

食器戸棚には、私なりのこだわりのようなものがあって、数はかなりある。頂き物も多いが、焼き物が好きで、愛媛などに行くと、必ずといっていいほど、砥部焼のものを買って帰りたくなる。高価なものは買わないが、安くても気に入りのものは愛着がわく。砥部の絵柄はほとんど変わらないものも多いので、昔買った湯のみと同じ柄のお茶碗を見付けて買って帰ったり、何年かして、同柄のカップを買ったりして、楽しむのだ。

しかし、私には美的センスというものがないので、たいていのものが【よく見える】のが難点だ。(笑)

余談になるが、センスというのは、磨くことはできるのだろうが、難しい。私の近しいT子さんなどは、とてもセンスがいい。いつも感心している。安い物でも、彼女が身につけると、素敵になる。こうしたセンスは、ただ見ているだけでは身に着かないように思う。持って生まれたものだろうなあ……。

 

2 件のコメント:

  1. 砥部焼ってネットで調べましたがいいですね。白と藍の配色は一番好きなんです。ほっこりと温かみがあります。私は陶器が好きで必要以上に持っていますが、ぜひ砥部焼をいくつか取り寄せます。

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    1. 砥部焼は、温かみのある、そして素朴ですが、いいですね。落としても割れにくいのもいいです。(笑)

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